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小説 月に背いて

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#小説

小説 月に背いて 1

小説 月に背いて 1

 スマートフォンの着信音が鳴る。私は目を閉じて、彼の声の響きを聞いていた。それはまるで深い深い海の底にいるように、無機質で乾いた声だった。

「これから行ってもいいか?」と彼は言う。いいよと私は答える。

 彼が私の体の輪郭をなぞるたびに、このまま消えてしまいたくなる。私は見えない鎖で繋がれている。私の心はその鎖につながれたまま、どこまでも彼と歩調を共にしなければならない。触れている冷たい肌の感触

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小説 月に背いて 2

小説 月に背いて 2

 二次会は会場近くのダイニングバーで行われた。そこへ三年生の時同じクラスだった井川くんが突然現れた。彼は恭子と同じ大学に進学し、サークルが一緒だったらしい。新郎とも知り合いのようだ。バスケ部に所属していて、声が大きくて小さな事でよく笑う人だ。仕事帰りのようでスーツを着ていた。私は井川くんとは委員会が一緒だったので、当時は気軽に色んな事を話せる関係だった。

 ビンゴゲームが終わったあと、私達はお互

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小説 月に背いて 3

小説 月に背いて 3

 私が高校3年生になったばかりの5月、父親が亡くなった。勤務中にくも膜下出血で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。もともと血圧が高いのを放置し、無理して働いていたのが災いしたのだろう。

 忌引で1週間学校を休んだあと、疲れ果てて空っぽになった頭でのろのろと登校した日、放課後佐田先生に呼び出された。化学準備室は北校舎一階の一番奥にあり、日当たりが悪く、いかにも研究室という感じの薄暗い部屋だ。

 

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小説 月に背いて 4

小説 月に背いて 4

 春が過ぎて、太陽が照りつける暑い夏が訪れた。七月の上旬、恭子から一通のラインが届いた。佐田先生の奥さんが亡くなったから、告別式に一緒に行かないかというものだった。恭子は私と美希のほかに、井川くんにも連絡したようだ。しかし、葬儀は家族葬として親族だけで静かにおこなわれた。私は恭子に、先生に宜しく伝えてねとだけラインした。

 九月の終わり、私と美希は恭子の新居祝いのため彼女の家に訪れた。その家は新

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小説 月に背いて 5

小説 月に背いて 5

 私は大学病院の消化器外科病棟で働いている。毎日の超過勤務、週一回の夜勤に加えて看護研究にも取り掛からなければならず、毎日がめまぐるしく過ぎていった。

 涼しい風が吹き始めて、あっという間に朝晩は冷え込む季節になった。11月の上旬、珍しく早番勤務が時間内に終わり、車を運転して自宅へ向かっていた。明日は仕事が休みなので、スーパーに寄りたくさん買い物をしようと思っていたところだった。病院がある市街地

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小説 月に背いて 6

小説 月に背いて 6

 その日は満月だった。仕事が終わり18時頃家に着くと、東の夜空に大きな月が青白い光を帯びていた。

 目を閉じると佐田先生の姿が胸の奥で像を結んだ。思い出すまいと思ってもどうしても駄目だった。迷惑じゃないと言った時の仕草や表情、そして寂しそうな瞳の色が何度も蘇った。

 今日も忙しかった。体が鉛のようにずっしりと重く、全身の関節が痛む。とりあえず風呂に入ろうと思い浴室へ向かった。

 風呂から出る

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小説 月に背いて 7

小説 月に背いて 7

 月が南の空に高く昇った。カーテンの隙間から淡い月光が差し込む和室で、佐田先生と私は狭い布団に体を寄せ合っていた。彼はとても静かな寝息をたてている。枕元にある目覚まし時計に目を向けると、短針は一時を差していた。

 普段の彼からは想像出来ないくらい力強くて情熱的だった。私はまだ体の芯が熱くて、自分の胸ににうごめく熱情の気配に怯えながら、この感情をどのように取り扱えばいいのだろうと考えていた。

 

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小説 月に背いて 8

小説 月に背いて 8

 1月になった。雪こそ降らないものの、連日霜が降りて、車のフロントガラスが白く凍る季節になった。私はその日の朝、いつものように車を運転して仕事へ向かった。交通量の多い二車線の県道を通り、橋を渡り、勤務先の大学病院へ向かっているところだった。

 橋を渡り終えたところで、前を走っていた白い軽自動車が急停車した。私は慌ててブレーキをめいっぱい踏んだ。急ブレーキの音が大きく鳴り響き、それと同時にドンとい

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小説 月に背いて 9

小説 月に背いて 9

 2月中旬、井川くんから突然「出張から帰ってきたから食事でも行かないか」というラインが来た。そういえば恭子の結婚式の二次会でそんな事を言っていたなと思い出し、すぐさま返信した。最近先生の事ばかり考えて苦しかったので、なんでもいいから気を紛らわせたかった。

 翌週末に井川くんと二人で会うことになった。向こうがどういうつもりで私を誘うのかよくわからなかったが、食事くらいなら別にいいだろう。

 その

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小説 月に背いて 10

小説 月に背いて 10

 私達は家の中に入った。冷え切った空気が全く動かない部屋に、風の音だけがごうごうと鳴り響いていた。

「勝手に来て悪かった。返事がないなんて初めてだったから、心配になって」

 先生はダウンジャケットを脱ごうとしなかった。ダウンの下は黒のジャージを着ている。いくら彼がいつも学校でジャージを着ているとはいえ、この時間にこの格好で私の家に来ているところを見られたら、もはやなんの言い訳も出来ない。

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小説 月に背いて 11

小説 月に背いて 11

 それから私は毎日同じ夢を見るようになった。眠っている佐田先生の首に両手をかけて殺そうとするのだ。あまりにも同じ夢ばかり見るうえに、現実と区別がつかないほど鮮明な映像なので、怖くて眠れなくなった。このままでは本当に殺してしまうのではないかと震えたが、先生には勿論のこと、誰にも相談は出来なかった。もうどうしたらいいのかわからない。

 井川くんとの約束の日が迫っていたが、もしかしたら彼は来ないかもし

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小説 月に背いて 12

小説 月に背いて 12

 井川くんと神社へ行った翌週、佐田先生が車の衝突事故にあった。一時停止をせずに優先道路に進入してきた車に助手席側から衝突されたようだ。車は廃車となるほど損壊したが、彼自身は軽い打ち身だけで済んだ。私はそれから全く事故を目撃しなくなった。

 しばらく会わないようにしようと先生に伝えなければならない。そうしないとさらに悪いことが起こるという予感が頭に纏わりついた。とりあえず今は会うのをやめよう。次に

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小説 月に背いて 13

小説 月に背いて 13

 私はシャワーを浴びたあと、ジーンズを履いて厚手のセーターを着込み、一番温かいダウンジャケットとマフラーを準備した。先生は浴室にいた。

 海に行くため支度を整えていると、スマートフォンが鳴った。井川くんからの着信だった。私は唇を噛み締めて通話ボタンを押す。

「もしもし?」
「もしもし椎名?……あれから調子はどうかなと思って電話してみたんだけど、今大丈夫?」

 懐かしい井川くんの声が耳元で聞こ

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小説 月に背いて 14

小説 月に背いて 14

 私達が海にたどり着いたのは17時過ぎだった。太陽は西へ落ちる直前で、辺りは夕闇に染まり始めていた。一面茜色の空には折り重なった薄雲がゆっくりと流れていた。

 海水浴場の駐車場に車を停めて、私達は手を繋ぎながら砂浜まで歩いた。お互い何も話さなかった。身を切られるような寒さとともに耳を劈く大きな波音が肌を刺す。小さな貝殻を踏む感触を確かめるように歩を進め、波打ち際まで辿り着いた。誰もいない砂浜で恐

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