小説 月に背いて 6
その日は満月だった。仕事が終わり18時頃家に着くと、東の夜空に大きな月が青白い光を帯びていた。
目を閉じると佐田先生の姿が胸の奥で像を結んだ。思い出すまいと思ってもどうしても駄目だった。迷惑じゃないと言った時の仕草や表情、そして寂しそうな瞳の色が何度も蘇った。
今日も忙しかった。体が鉛のようにずっしりと重く、全身の関節が痛む。とりあえず風呂に入ろうと思い浴室へ向かった。
風呂から出るとスマートフォンを隅から隅まで眺めた。その時ふと思いついて佐田先生にラインでメッセージを送った。
「先週は心配をおかけしてすみませんでした。でも会えて嬉しかったです。お体大切にして仕事頑張ってください」
どうせ返事はないことはわかっていたが、その時何故かそうせずにはいられない衝動が私の心を横切ったのだ。ただラインを送っただけなのに、急激に鼓動が速くなり、息苦しさすら覚えた。すると、ラインを送ってすぐに先生から電話がかかってきた。心臓が跳ね上がるのを自覚しながら、震える手で通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「もしもし、……椎名か?突然ごめん」
どこまでも無機質で乾いた声だった。私はその声を聞いて全身の皮膚が粟立つのを覚えた。何かあったのだろうか。
「どうかしたんですか?何かあったんですか?」
「今から少しだけ会えないか」
「え?」
「もう一度だけ会いたい」
私達は先週二人で話をした河原近くの喫茶店で待ち合わせをした。先生は酒を飲んでいたらしく、自宅から歩いてきた。その店は彼の家の目と鼻の先のようで、どっちにしろそうするつもりだったらしい。
店の駐車場に車を停めると、仄暗い看板灯の横で背中を丸めて立っている佐田先生の姿が見えた。黒のパーカーを羽織り、その下は上下ともに紺色のジャージ姿だった。彼は仕事以外でもいつもジャージを着ているのだろうか。それとも部屋着のまま出てきたのだろうか。そういう私も風呂あがりのまま家を飛び出てきたので、ろくに化粧もせずに髪はボサボサだ。彼を心配するあまり、どうしても急がずにはいられなかった。それくらい、電話の声は胸騒ぎを覚えるものだった。
「急に呼び出してごめん」
先週会った時と変わらない落ち着いた低い声だ。
「大丈夫です。何かあったんですか?」
「何もない」
先生は妙にきっぱりと言った。何もなければ、恋人でもない年下の女に電話なんてかけてこないだろうし、ましてや会いたいなんて言うはずがない。この期に及んでこの人はまだ意地を張るのか。私は彼の目を見つめた。酔っているようには見えなかった。
「寒いから中に入ろう」
私達は先週会ったときと同じテーブル席に向かい合った。店内はカウンターに中年男の客が一人いるだけで、あと一時間ほどで閉まってしまうようだ。薄暗く静まりかえっている店内に、落ち着いたジャズの音色だけが不自然に響いていた。
注文した珈琲が運ばれてきても、先生はテーブル席の横に位置する窓をじっと見つめ、押し黙ったまま動かない。彼の中で何かが葛藤しているように見えた。
「先生」
大きな声を出すと、彼は驚いたように私を見た。
「生意気なこと言いますけど、辛ければ吐き出した方がいいですよ。私に言ったところでなんの解決にもならないのはわかってますけど、とにかくなんでもいいから話すだけでも違うと思います。私は職業柄聞くことに慣れてるから、気にしなくても大丈夫ですよ。秘密は守ります」
身を乗り出してそう言うと、先生は力が抜けたようにふっと笑った。これは昔私がくだらないことを話すたびに彼がする笑い方だった。
「時々、家の中に猫が見えるんだ」と先生は言った。
「猫?」
「ああ」
「猫を飼ってるんですか?」
「いや、飼ってない。飼ったこともない」
私は黙っていた。
「妻が亡くなる前に、時々家の中に猫がいるって言ってたんだ。勿論実際にはいないんだけど。あと、誰もいないところから足音が聞こえたり、人の声もするって言ってた。……多分、痛み止めの麻薬を使ってたから、それの幻覚みたいなものだろうと思ってた」
医療用麻薬は末期の癌性疼痛の緩和に欠かせないものだ。強力な鎮痛効果が得られる反面、吐き気、便秘、眠気などの副作用が必発する。せん妄や幻覚症状が現れることもある。服薬の量や管理に注意が必要な薬剤だ。彼の家には訪問看護師が介入していたようなので、そういった管理もしてもらっていたはずだ。
「そうしたら、妻が亡くなったあと、俺までその猫が見えるようになった。誰もいないのに足音や話し声もはっきりと聞こえる。どういう事なんだろうな。自分が思っている以上に、俺はおかしくなってるのかもしれない」
私は何も言えずに黙っていた。
「妻が亡くなった時」
彼は指を温めるようにコーヒーカップに両手を添えた。指に力が入るのがわかった。
「俺は今まで生きてきて、あの時ほどほっとした事はないと思う」
目を伏せて手元を見つめる彼の顔に、表情らしいものは何も見当たらなかった。私の中の時間が止まってしまったような気がした。
「最低だよな」
私は首を横に振った。
「そんな事ないです」
先生は顔を挙げて私を見た。その目はもう何も見えていないのではないかと思うほど透明で、全ての色彩が失せていた。
「今、少しだけ、……気持ちが楽になった」
ゆったりとしたジャズが耳に入る。落ち着いた音色はひどく悲しく聞こえた。
そろそろラストオーダーだと店主らしい白髪頭の男が声をかけてきた。伝票を持ち先生は席を立った。私も席を立った。
駐車場には私の車しか停まっておらず、人影も全くなかった。路地に佇むこの店は大通りに面しているわけではないので、あたりは暗闇に覆われていた。店の看板灯だけが仄暗く光っていた。
その時雲の切れ間から月の光が差し込んだ。東の空に満月が大きく輝き、空はうっすらと明るくなった。ふと地面を見ると、陽光で浮かぶ影と同じように私達の足元にはくっきりとお互いの影が伸びていた。
私は先生の目を見た。すると彼もまっすぐ私の目を見た。その瞳の色は、悲しみの深淵で何かを諦めたような光と、安堵するような光が混ざり合っていた。本当はこの人は泣いて甘えたいのだろう。何もかも全て放りだして。けれども、もう何が悲しいのか自分でもわからないのだろう。
冷たい風が吹いて、私の髪が大きく乱れた。耳元では風がうねる音が響いていた。それは寂しい冬の始まりの音のように思えた。
「寒いな」と彼は言った。
私は先生に体を寄せてその胸に自分の顔をつけた。すると彼は驚いたようにとっさに右手で私の頭を抱いた。耳に一瞬触れた手はぞっとするくらい冷たかった。私の体が熱いだけなのだろうか。
気がつくと彼の背中に両腕をまわしていた。どうしても、心臓の拍動を感じたかった。
「先生、大丈夫ですか?」
先生は右手で私の頭を抱いたまま何も言わなかった。そしてその手を私の肩にまわした。本当に数秒だけだったが、彼の手には驚くほど強い情熱が籠っていた。情熱の行く先を私は一瞬で理解出来た。
そっと手を放して、先生は「大丈夫だよ」と静かな声で言った。でも私はどうしても離れる事が出来なかった。離れてしまったら、彼はどこか遠くへ行ってしまう気がした。
「大丈夫だよ。心配かけてごめん。ちょっとどうかしてたんだ」
木枯らしが吹いて、周囲の木々の枝葉がざわめいた。月明かりのなか電線が大きく揺れ、足元ではカサカサという乾いた音をたてながら落ち葉が舞い上がった。
「人に見られるから」
諭すような口調だった。それなら今すぐ突き放せばいいのにと思った。
「じゃあ私の家に行きましょう」
私達の時を刻む音が完全に止まった。そこにはただ、彼が何かを言い澱む不完全な空間だけが横たわっていた。
その時の目を私は多分一生忘れないだろう。希望と絶望とが複雑に入り混じっていた、彼の哀しい瞳の色を。
車に乗り込み私の家に向かうあいだ、二人とも一言も口をきかなかった。その空間は、ある種の決意みたいなものを秘めた深い沈黙に満たされていた。
玄関のドアを閉じて鍵をかける時、もう戻れないだろうなと思った。暗くて静かな家の中に、鍵をしめる鋭い音が冷たく響く。和室のカーテンの隙間から一筋の優しい月の光が差し込み、部屋を青く染めている。それを見つめなから、月の引力のように不可抗力だと感じた。こんな事は今まで一度も経験したことはなかったし、理性が感情を抑えられないなんて自分には一生ないと思っていたから。彼もそういう人だろう。でも私達はその時、何かの魔力に支配されるようにお互いへと向かう圧倒的な情熱の流れに身を任せていた。たとえそれが刹那の感情であったとしても。
私は彼の肩ごしから細い月の光を眺めながら、その耳に口をつけて好きにしていいですよと囁いた。
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