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小説 月に背いて 13

 私はシャワーを浴びたあと、ジーンズを履いて厚手のセーターを着込み、一番温かいダウンジャケットとマフラーを準備した。先生は浴室にいた。

 海に行くため支度を整えていると、スマートフォンが鳴った。井川くんからの着信だった。私は唇を噛み締めて通話ボタンを押す。


「もしもし?」
「もしもし椎名?……あれから調子はどうかなと思って電話してみたんだけど、今大丈夫?」

 懐かしい井川くんの声が耳元で聞こえる。その声が胸に深く響き渡り涙が出そうになる。

「これから海に行くところなの」
「海?今から行くの?こんなに寒いのに?何しに行くんだよ?」


 心配そうに早口でまくしたてる声はとても大きくて、耳が痛かった。五秒ほど間をおいて、電話の向こうからため息をつくような音が聞こえた。

「佐田先生と行くんだろ?」

 井川くんの諦めたような声が心に突き刺さり、自分はこれから何を言うつもりなのだろうと考える。

「うん。佐田先生とはそれで終わりにしようと思ってる。このあいだは本当にありがとう」

 そう言うと同時に視界が滲んだ。今度は向こうがしばらく黙っていた。

「この間伝え忘れた事があるんだけどさ、俺は高三の時椎名の事が好きだったんだ」


「え?」

「全然気がついてなかっただろう?椎名はあの頃いつも冷めた目でまわりを見てて、誰も信用出来ないって顔してたじゃん。お父さんが亡くなったのに、平気そうに振る舞ってたよな。でも俺は、本当は辛いんだろうなって思って見てた。いつか、俺が無理してないかってきいたら、井川くんに関係ないでしょうって言って思いきり睨みつけてきたことがあっただろう。あの時はさあ、本当に素直じゃないやつだなあって思った」


 そんなことがあっただろうか。全く記憶になくて戸惑った。そもそも私は井川くんと一緒のクラスで委員会活動も二人でやったのに、彼の制服姿すら思い出せないのだ。朝も夕方も大声を出してバスケの練習をしていて、いつもジャージを着ている印象しかなかった。

「そんな事言ったの?覚えてない。本当にごめんね。私あの頃少しおかしかったから」

 かすかに息を吐く音が聞こえた。井川くんが苦笑いする表情が目に浮かんだ。実際に電話の向こうで微笑んでいるに違いない。

「多分椎名は佐田先生のことが好きなんだろうと思ってた。俺はあの先生のどこがいいのかさっぱりわからなかったけど」

 井川くんが声を出して笑った。私は苦笑を漏らして「ごめんね」と言った。

「別にもうそんなことはいいんだけど、ただ俺は、卒業して七年も経つのにどうして今さら椎名に会うことになるんだろうって不思議に思うんだ。多分、このタイミングでなければ、椎名は俺とこんな風に話したり会ったりしなかったと思うんだ」


 私は黙っていた。井川くんはどうして急に、こんな彼らしくないことを言い出すのだろう。


「それってどういう意味?高校生の時より私が素直になったからってこと?」 


「いや違う。巡り合わせの問題。その時は辛くても、あとになってから振り返って、これで良かったんだと思える事ってあるじゃん」


 巡り合わせの問題。確かにこのタイミングでなければ、井川くんと二人で会ったりはしなかったかもしれない。

「少なくとも俺は、椎名とまた会えて良かったと思ってる。なあ椎名、佐田先生と会わなくなったら、……」

 井川くんはそのあと何も言わなかった。何かふさわしい言葉を探しているような気配が感じられた。

 佐田先生と、会わなくなったら、……。会わなくなったら、私の想いも涙もまるごと幻になってしまうのだろうか。溢れ出る涙を左手でごしごしと拭う。


 浴室のドアが開く音がした。私は井川くんにありがとうとだけ言って電話を切った。



 仕度を済ませて、私達は先生の車で家を出た。彼はもう少し温かい格好をしてくると言い、まず自分の家に向かった。車で15分ほど走り、川の堤防に沿って似たような形の建売住宅が並んでいる区画へ入る。先生の家はその中の一番奥にあり、グレーのタイルに覆われた二階建ての一軒家だった。おそらく結婚した時に購入したのだろう。駐車場の隣には小さな庭があり、花壇もあったが何も植えられてはいなかった。私は家の中に入るのは気が引けたので車で待っていた。


「じゃあ着替えてくるから」と言い、先生は家の中に入っていった。私は彼が自分の家でどのように過ごしているのか知らない。奥さんの代わりに家事をやっていたと聞いたから、それほど困ってはいないと思うが、そういう事を一切話さないのでわからないのだ。


 ぼんやりと家の外観を眺めていると、懐かしいような、それでいて悲しいような、不思議な感情に囚われた。心の中に流れ込んでくるこの泣きたい気持ちは何なのだろう……、そう思いながら目を閉じた。目を閉じると私は家の中にいた。どうやらリビングのようだ。南側には庭に面した大きな窓があり、中央に座卓が置かれていて、カーテンもカーペットも深い緑色だった。テレビがあって、ベージュの布張りのソファがあって、北側には台所があって……ふと冷蔵庫へ目を向けると、その横から白い猫が姿を現した。泣きたいくらいに懐かしい景色だ。


「おまたせ」

 車のドアが開く音と先生の声が同時に聞こえた。私は慌てて目を開けた。

「大丈夫か?顔色が悪いけど」

 そう言う彼も血の気を失った顔をしていた。

「なんでもない」



 車は高速道路を走っている。彼はいつも通りの無表情で運転していた。

「先生、事故の痛みは大丈夫?運転しようか?」

「いや、車は派手に壊れたけど俺は案外大丈夫だよ。相手がすぐに自分の非を認めてくれたから示談もスムーズだった。新しい車もすぐに見つかったし、不幸中の幸いだな」


 私は彼の左頬にある薄い傷跡を見た。

「私が高校生の時、ガラスの破片から庇ってくれてありがとう。傷が残ってごめんね」

「ああ、……そういえばそんな事があったな」

「あのことがなければ、私は先生のことを好きにならなかったかもしれない。不思議な巡り合わせってあるんだろうね」

「巡り合わせ?」彼は少しだけ眉をひそめた。

「うん。そういう事考えることない?」

「そうだな。……巡り合わせというか、俺は人の運命について考えた事があったよ。妻の癌の転移がわかった時、これはもともと妻の運命だったのか、それとも変えられる方法があったのかと考えた。そんなことを考えても意味がないとわかってても考えた」


 先生が奥さんのことを話すのはあの時以来だったので、驚いてじっと彼の横顔を見た。

「わかる。私も病院で働いてるから、先生の言ってる事はすごくよくわかる」

 彼はゆっくりと目を細めた。そのあとは何も言わず、無表情で運転をしていた。日没までに海にたどり着かなければいけないと考えている私達は、まるで何かから逃げているような気持ちだった。


 高速道路のどこまでも真っ直ぐな車線をじっと見つめていると、瞼が重くなってきた。そのうちに強烈な眠気に襲われて目を開けていられなくなった。


「夜勤明けで疲れてるんだろう。いいよ眠って。着いたら起こすから」


 彼の声を頭の片隅で聞きながら、助手席で眠りに落ちた。

 浅い眠りのなか夢を見た。


 私は知らない家のリビングにいた。いや、でも見覚えがある。ここはさっき見た先生の家だ。窓からの優しい日差しが部屋中を温かく包んでいた。台所に目を向けると、30代くらいの黒髪の女性が白い猫を抱いて立っている。この人は誰だろう。胸の辺りまであるその髪は光沢を放ちとても美しい。瞳の色はぞっとするくらい漆黒で、肌の血色は失われていた。私はゆっくりと目を閉じて、深く深呼吸をした。目を開けると、彼女の美しい黒髪はほとんど抜け落ちていた。まだらに残った髪の隙間に、肌色の頭皮が見えている。彼女は泣いていた。私はその姿を漫然と眺めていた。



「着いたよ」

 先生の声で私は飛び起きた。

「え?」

 目を覚ました時、涙を流していた。私は随分と遠くの景色を見てきたのだろう。もう少しで掴めそうだったのだ。夜の底の正体を。















 


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