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小説 月に背いて 14

 私達が海にたどり着いたのは17時過ぎだった。太陽は西へ落ちる直前で、辺りは夕闇に染まり始めていた。一面茜色の空には折り重なった薄雲がゆっくりと流れていた。

 海水浴場の駐車場に車を停めて、私達は手を繋ぎながら砂浜まで歩いた。お互い何も話さなかった。身を切られるような寒さとともに耳を劈く大きな波音が肌を刺す。小さな貝殻を踏む感触を確かめるように歩を進め、波打ち際まで辿り着いた。誰もいない砂浜で恐ろしい波音を聞いていると、この世の果てまできてしまったような感覚がした。

 水平線の真上には血の色に染まった大きな満月が浮かんでいた。その紅い光はぞっとするほど神秘的な美しさを放っていた。

「妻も海を見たいって言うことがあった」と彼は言った。
「よく海に来たの?」
「うん。この砂浜に二人でよく来た。別に泳ぐわけでもないのに、ただ海を見にきた。遠くてなかなか行けないから、憧れみたいなものがあったんだろうな」

 遠い目をしていた。彼の瞳には何が写っているのだろう。

「先生、奥さんの事を愛してるんだね」
「女はよくそういう事言うけど、愛してなければ結婚なんかしないだろう」

 正直な言葉に、私は苦笑を浮かべた。

「私は先生の、そういうところ好き」
「そんな事を言うのはお前くらいだろうな」
 その声は自嘲を含んでいるようだった。

 日は落ちて周囲は次第に漆黒へと変化していったが、それでも月光は海を優しく照らしていた。私達は並んで立ち月の光に浮かぶ水平線の彼方を眺めた。

 先生はそのあと何も言わなかった。私が何か言うのを待っているような気がした。

「私達に起こっていることはなんなんだろう」と私は言った。

 彼は水平線を見つめてしばらく黙っていた。

「俺は……、時間を巻き戻せたらと思う事がある。そんなことを考えても仕方がないってわかってても、あの頃に戻ってやり直せたらいいのにと思う。お前が楽しそうに笑って俺に色んな事を話してくれた頃に。でもたとえ時間を巻き戻せたとしても、結局俺はこうなったんだろう。そんな気がする。……でももういい。もういいんだ」

 悲しい声の中に、何かを決意するような響きが宿っていた。偽りのない気持ちを言っている気がした。

「私は先生から離れたくない。私のことだけ見て欲しい。私はあなたをずっと自分だけのものにしたい」

 私は腹の底からの欲望をはっきりと口にした。

「好きにすればいい」

 私達が一緒にいて行き着く先はどんな場所なのだろう。そこから見える景色は暗闇でしかないのかもしれない。どこまでも果てしなく続く二人だけの闇の世界だ。

 満月の光が横顔の輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。ふと足元を見ると、陽光で出来る影と同じように、月の影が自分の姿を縁取っていた。しかし、並んで立っている二人の足元に影はひとつしかない。彼の影はどこにも見当たらない。これは私の幻影なのだろうか。

 私は先生の目を見た。彼も私の目を見た。瞳の底を覗いた瞬間、彼がその目で見てきたものが胸の奥で像を結んだ。それは文字通り刹那であった。

 奥さんは自分の胸にしこりがあることを気がついていたのだ。でも、彼に心配してもらいたくて、自分だけを見て欲しくて、放っておいたのだ。

 私の両目から涙が溢れ落ちた。

 ーーああ、私はあなたの気持ちがわかる。あなたが愛憎の念にあれほど苦しんだのは、彼のことを心底愛していて、どうすることも出来なかったのでしょう?愛と憎悪は常に表裏一体で、想いが強ければ強いほど大きく激しく揺れ動き、どちらに転じるかは誰にもわからないのだ。あなたは彼との日々を繰り返し繰り返し何度も思い出しては後悔している。罪悪感で満たされた彼の手から鎖が伸びていて、あなたをその場所にとどまらせている。

 私は目を閉じる。瞼の裏に明るい景色が浮かび上がる。春の海に先生と奥さんが並んで立っていた。陽光に照らされた水平線は眩しいくらいの輝きを放っている。湿気を含んだ温かい潮風が頬を撫で、彼女の美しい黒髪をなびかせている。どこまでも優しく澄んだ蒼空に綿菓子のような白い雲が浮かんでいて、カモメの鳴き声が聞こえる。砂浜には誰もおらず、二つの足跡が並んで続いていた。二人は繋いだ手を決して離さないことを誓った。
 

 今度はあの家の情景が目の奥に浮かぶ。奥さんが泣きながら彼になにかを訴えている。

 先生は彼女を見つめて思う。

 こんなに愛しているのに、それでもわかりあえない。愛しているからこそわかり合えないのかもしれない。相手の全てを理解して、共有することだけが愛なのだろうか。相手の手足の自由を奪い征服さえすればそれで満足なのか。好きなだけでは駄目なのか。一緒にいるだけでは駄目なのかーー。

 奥さんは酸素吸入をしながらベッドに横たわっている。美しい黒髪は全て抜け落ち、帽子を被っている。苦しい、寂しいと言って泣き崩れる彼女を先生は優しく抱き締める。

 先生は彼女の手を取って、「俺も一緒に行くから安心していい」と言ったーー。

 私は目を開けた。そこには無限に拡がる底のない暗闇が存在している。闇の中心に先生がいた。

「あなたはあの日死ぬつもりだったんでしょう?」

 
 恐ろしい波音が大きく響いている。月輪が絶えず優しい光を放つなか、二人のはざまに時間が死に絶えたような沈黙が降りた。

「そうだな」

 先生は真っすぐ私の目を見据えた。一切の色調を失った、透明な目だった。

「俺はもう死んでいるんだと思う」

 私は彼に体を寄せてその首に両腕をからめていた。そして両手に力を込めた。全身の力を込めて首を締めた。その時彼の唇がかすかに動く。唇の動きは間違いなく「殺せ」だった。

 そうだね先生。きっと私達はそういう巡り合わせだったんだ。

 両手を放すと彼は激しく咳き込んだ。背中で息をしながら苦しそうな呼吸を続けている。その姿をただぼんやりと見つめていた。

 こんなに好きなのに、幸せになることは叶わない。結局私達は一緒にいたところで、寒さに耐えかねて抱き合って暖を取るだけで、互いに罪悪感ばかりを背負い込み、二人揃って闇の世界を彷徨うのだ。その世界は私達が創り上げたもので、いつでも抜け出すことが出来るのに、自分達でそこにとどまる選択をしているだけなのだ。幸せになることを放棄しているだけなのだ。

「あなたは死んでない!!」 

 私は涙を流しながら叫んだ。こんなに大声で叫んだのは生まれて初めてだった。

「あなたが後悔すればするほど、自分を責めれば責めるほど、奥さんはどこにも行けないんだよ!あなたが死んだら、あなたも奥さんも永遠に彷徨うんだよ。彼女を開放してあげなきゃいけない。あなたは生きなくちゃいけない!」

 涙がとめどなく溢れてきて喉の奥が苦しかった。胸が痛くて肺が潰れそうだ。このまま呼吸が止まってしまうかもしれない。それでも私は声を振り絞って叫び続けた。

「でも私とあなたが一緒にいると、罪悪感から逃げられない。私達が一緒にいる限り、この闇の世界から永遠に抜け出せない」

 彼は透明な目で私を見ていた。お願いだから帰ってきて。罪悪感こそが闇の所在であり根拠だということにあなた自身が気がついて。

「もうやめよう」と私は言った。

「私達はここにいちゃいけない。いけないんだよ」

 波の音に混じり、チャイムのような音が遠くから聞こえた。この近くに学校でもあるのだろうか。それとも教会だろうか。いずれにしても何かが終わって何かが始まる音なのだろう。私は彼が白衣を着て黒板に向かう背中を思い浮かべた。

 彼の瞳に淡い色が戻った。

 月輪は紅から薄い黄色へとその色彩を変化させ、美しい光を放ちながら次第に高く登っていった。



 19時過ぎ、私達は車に乗り込み家路についた。週末なのに高速道路に車はまばらで、先ほどからほとんど対向車も見かけない。タイヤがアスファルトの路面を一定の速度でこすりつける単調な音が続いていた。

 先生は全身に疲弊を滲ませながらも、目の底には鋭い光を宿していた。

「もし今、俺が一緒に死のうって言ったらどうする?」
 右手にハンドルを握りしめて突然そんなことを言った。

「一緒に行きます」

 私は迷わす答えた。

「今130キロは出てるから、少しハンドルを動かせば簡単にそうなるだろうな」

 目を伏せて微笑むと、先生はほんの一瞬だけ私に視線を向けた。

「でも先生は絶対にそんな事はしない。そうでしょう?」

 彼は何も言わずに前方を見つめていた。ハンドルを持つ右手がすっと緩み、少しだけ下に移動した。その指に力が入るのがわかった。そして大切なものに触れるように左手もそっとハンドルに置いた。

 先生は眉根を寄せ、唇を噛んだ。深く瞬きをした瞬間に涙が落ちた。次第に肩の震えが大きくなり嗚咽をもらす。それでも運転を止めようとはしなかった。今立ち止まったらすべてが簡単に消え失せてしまう気がして、先生に触れることすら出来なかった。本当の姿が私の目に鮮明に映る。

「ありがとう」と先生は言った。

 家に着いて車を降りた。先生は運転席の窓を開けて「じゃあな」と言った。
「気をつけて帰ってね」と私は言った。

 また来週には「今から言ってもいいか」とラインがきそうな簡単な別れ方だ。冷たい夜の空気が頬をかすめて流れてゆく。でもその風はどこか柔らかく、春がすぐそこまで訪れている気配が感じられた。さっきまで大きな波の音が鼓膜に響いていたのに、もうなにも聞こえなくなってしまった。私は藍色の夜空を見上げて蒼白く浮かぶ満月を眺める。私の儚い恋が終わる日の月を。


 お願い、月も星も、どうか今だけは私を照らさないで。そう思った。

「体に気をつけて仕事頑張れよ」と先生は言った。その声が胸に深く響き渡り心臓の底まで食い入った。悲しい波の音のように聞こえた。私は目を閉じて大きく頷いた。

 車はゆっくりと動きだして暗闇に消えていった。私が彼の姿を見たのはそれが最後だった。

 玄関の鍵を開けて真っ暗な家の中に入る。カーテンの隙間から一筋の細い月の光が差し込み、部屋を青く染めていた。それを眺めながら、自らの体と引き換えに、彼の魂を永遠に手に入れた奥さんの亡霊に心の底から嫉妬した。

 





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