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小説 月に背いて 3

 私が高校3年生になったばかりの5月、父親が亡くなった。勤務中にくも膜下出血で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。もともと血圧が高いのを放置し、無理して働いていたのが災いしたのだろう。

 忌引で1週間学校を休んだあと、疲れ果てて空っぽになった頭でのろのろと登校した日、放課後佐田先生に呼び出された。化学準備室は北校舎一階の一番奥にあり、日当たりが悪く、いかにも研究室という感じの薄暗い部屋だ。

 佐田先生と向かい合って二人で話をしたのはその時が初めてだった。若いくせにいつも無愛想で無口で、ロボットみたいに人間味がない。自分の責任が及ぶ範囲内の事しか決してやらない、冷たい先生。私は彼のことをそんな風に思っていた。

 日が傾いて、化学準備室は夜のように暗かった気がするけれど、窓に面した校庭では男子生徒が大声を出しながらキャッチボールをしていたので、それほど遅い時間ではなかったはずだ。

 窓際で向かい合って私達は話をした。先生はお悔やみの言葉を言ったあと、私の家の状況を尋ねてきた。疲れていて早く帰りたかったし、どうせ中身のない慰めの言葉をかけられるだけだと思ったから、私ははじめから目も合わせずに無愛想に答えた。

「大丈夫です。今はまだ落ち着かないけど、母はもともと働いてますし、妹と三人で力を合わせてなんとかやっていけると思います。近くに住んでる叔母が色々手伝ってくれるし」

「椎名は大丈夫か?」

 大丈夫なわけないだろうと思いながらも、「大丈夫です」と即答した。

「そうか。何か困ったことがあれば相談しろよ」

 先生の声はとても落ち着いていた。

 校庭にいる男子生徒の笑い声が聞こえた。野球グラウンドは別の場所にあるから、部活ではなくてただ遊んでいるだけなのだろう。

「俺も中学生の時父親が亡くなったんだけど、しばらく実感がなかったよ。その頃の記憶がすっぽり抜け落ちてるんだ。今思い返してみるとそれなりにショックだったんだろうな。それに比べて椎名はずいぶんしっかりしてるよ」

 顔を挙げて真正面から先生の顔を見る。彼は窓の外をぼんやりと眺めていた。今まで気が付かなかったけれど、意外と鼻が高いのだなと妙なことを思った。

「あんまり無理するなよ」と先生は校庭を見つめて言った。

 その時、突然立ち上がった先生は物凄い早さで私の肩を自分の方へ引き寄せ、覆いかぶさるように私を大きく抱きしめた。それから先の景色はしばらくスローモーションで流れる。窓ガラスが割れたのだ。ガラスが割れる激しい音がして、壁にぶつかり跳ね返るボールが見えた。細かいガラスの破片が髪をかすめていく。視界がスローモーションではなくなった時、まず最初に目に入ったのは先生の白衣の皺だ。本当に目の前で見た。その白衣に突然赤い染みが出来た。ぎょっとして見上げたのと、先生が大声を出したのはほぼ同時だった。

「大丈夫か?」

 先生の瞳孔が開いているのがはっきりとわかるほど、互いの顔は近くにあった。

 制服を着た二人の男子生徒が、何かを叫びながらこちらに向かって走ってくる。先生は私から手を放した。

「すみませんでした!うわ、先生大丈夫ですか!すげえ血が出てるじゃないですか!」と坊主頭の男子生徒が窓越しに叫んだ。

「なんでそんなとこでバットを振り回してんだよ」と先生は言った。

 先生の左頬から血が流れ落ちている。血液は重力に従って下に流れ、白衣の胸のあたりに赤い水玉模様を作っていた。先生は顔をしかめることもなく、いつも通りの無表情で「椎名は大丈夫か?怪我はないか?」と言った。私は何度も大きく頷いた。全身が震えて、全く声が出ない。
 もう一人の短髪の男子が「きゅ、救急車、救急車呼びましょう」と、青ざめて言った。

「馬鹿言え、これくらい大丈夫だよ」

「何言ってんすか、血が垂れてますよ」

「じゃあ俺ちょっと保健室行ってくるから、お前ら職員室に行って誰か呼んできてくれよ」

 坊主頭が「先生、その前に頭についてる破片をとった方がいいですよ。危ないし。今すぐそっちに行きますから」と言った。二人の男子生徒は校舎の入口に向かって走っていった。

 先生は何も言わず表情も動かさないまま、私の髪に付着している細かいガラス破片を慎重につまんで床に落とす。私にはほとんど破片はついていなかった。そのあいだも傷口からは血液がじわじわと流れていた。私は震えが止まらず突っ立って白衣が赤く染まるのを見つめていた。

「破片を踏まないように気をつけて、向こうに行こう」と先生は落ち着いた声で言った。

 化学準備室にさっきの男子生徒や他の教師が数人慌てて入ってきた。佐田先生は頬にガーゼを当てながら養護教諭と一緒に部屋を出て行った。そのあと病院へ行き、皮膚を何針か縫合したようだ。

 家に帰っても動悸がおさまらなくて、その晩はベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。ガラスの破片がゆっくりと飛び散っていく光景と、白衣が少しずつ赤く染まっていく様子が交互に蘇る。そして自分の頭がすっぽりと先生の胸に覆われた瞬間を繰り返し思い出す。先生の肩の位置は高かった。

 翌日私は朝一番に職員室へ行き、頬にガーゼを貼っている先生にお礼を言った。あの時は動揺してしまって、不思議なくらい何も言えなかったのだ。

「ああ、大丈夫だよ。気にするな」

 あまり気持ちの籠っていない声で、目も合わせず彼は答えた。この人は何があったら本気で驚いたり怒ったりするのだろうか。

「ありがとうございました」

 泣きたい気持ちで頭を下げた。顔を挙げると、先生は安堵しきったような、とても無防備で柔らかい目つきをしていた。びっくりして思わずじっとその目を見つめていたら、彼は目を逸らして「心配させて悪かったな。気にしなくていいから」とぶっきらぼうに言った。

 それから私は、化学準備室に先生がいると少しだけ話をしてから帰るようになった。先生は父親を亡くしたばかりの私が情緒不安定になっていると思ったのか、帰れとは言わなかった。冷たい態度をとりながらも眼差しはとても優しく、いつでも私のくだらない話を真面目に聞いてくれる。私はその時常に未来のことが不安で、気持ちを誰にも理解してもらえないと思い込み、殻に閉じこもるようになっていたのだ。その一方で完璧な自分を演じるために無理をしていた。自分がしっかりしないといけないと思っていた。実際情緒不安定だったのだろう。別に先生に何か相談したわけでもなかったが、彼は小さなことでは動揺しない人だったから、うっかり不安定な自分を晒しても大丈夫だと思うと安心した。そうして放課後色んなことを話しに行くうちに、心が満たされていくのを感じた。

 やがて先生への想いは、心の隙間を埋めて欲しいとかそんな淡いものにとどまらず、ひとたび始まれば自分の体が変化してゆく実感を伴った、れっきとした恋愛感情となった。絶対にこれ以上好きになりたくないと思っても、自分の意思に反して不可逆的に進行する想いは、魔法にかけられたとしか思えなかった。先生は本当に時々、子供みたいに無邪気なことを言って屈託のない笑顔を見せる。そんな隙だらけの彼を見た日はもう眠れなくなってしまう。

 あの頃先生が何を考えていたのかはわからない。彼は感情を表に出さない人だったから。あるいは私の事なんて何も考えていなかったのかもしれない。

 二人で話をしていて、私の気持ちがこみ上げてくると先生は決まって目を逸らし、身構えるように体を硬直させ微かに後ずさりした。彼なりの気がつかないふりなのだろう。ここまでわかりやすいと告白する気持ちも起こらない。

 卒業する前、先生は「俺は父親が教師だったから、なんとなく教師になったけど、まともな仕事について母親を安心させてやりたかっただけなのかもしれない」とぽつりと言った事があった。先生がそんな事を話すなんて思わなくて、私は驚いて何も言えなくなった。彼の瞳の底を覗いた瞬間、これ以上この人を困らせてはいけないと感じ、諦めることを決めた。教師と生徒である以前に、私達の間には越えられない壁が存在する。卒業式の日、先生に「ガラス片からかばってくれてありがとうございました」とだけ書いた手紙を渡した。張り裂けそうな胸の痛みを感じながらも、もうこれで二度と彼を困らせなくて済むのだと思うと少しだけほっとした。





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