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小説 月に背いて 5

 私は大学病院の消化器外科病棟で働いている。毎日の超過勤務、週一回の夜勤に加えて看護研究にも取り掛からなければならず、毎日がめまぐるしく過ぎていった。

 涼しい風が吹き始めて、あっという間に朝晩は冷え込む季節になった。11月の上旬、珍しく早番勤務が時間内に終わり、車を運転して自宅へ向かっていた。明日は仕事が休みなので、スーパーに寄りたくさん買い物をしようと思っていたところだった。病院がある市街地から自宅へ向かう途中には大きな川がある。川にかかる橋を車で渡り始めたところ、遠くの河原に一人で佇んでいる男の人影が見えた。橋を超えた先にある交差点の信号が赤に変わったため、車の流れはそこで停まった。

 その人影は川を見つめたまま全く動かない。まさか川に飛び込んだりしないだろうな……とぼんやり見つめていたところ、ある事に気がついて心臓が止まりそうになった。その後ろ姿は佐田先生にそっくりだった。交差点の信号が青に変わり、前方の車が徐々に動き始めた。慌ててハンドルを動かし、河原へと降りられる細い脇道へ車を走らせた。そして雑草が生い茂る空き地に車を停めて、走って河原へ向かった。

 じっと川の流れを眺めながら、夕陽を背に一人で佇んでいるその人は間違いなく佐田先生だった。黒いジャージを着ていた。

「先生!」

 大声を出しながら近くまで走り寄り、先生の左腕を後ろからぐいと思い切り引っ張った。すると彼は姿勢を後方に傾けながら、とても驚いた表情をして振り返った。

「椎名……?」

 ざあざあという川の音が大きく響いていた。夕陽が川面に反射して不気味な輝きを放っている。

「椎名か?どうした?どこから現れたんだ?」

 彼は目を見開いたまま言った。

「先生が……」
 肩で息をしながら必死で自分の呼吸を整えた。今にも涙が溢れ落ちそうだったので、大きく息を吸ってそれを呑み込んだ。

「先生が、川に入ると思って……」

 どうしてもそれ以上の言葉が出てこなかった。それ以上口を開けば、涙が溢れそうだった。

 その言葉を聞くなり、彼の目に悲しい影が差し込んだ。

「大丈夫だよ。飛び込んだりしない。散歩してただけだ」

 私は瞬きするのも忘れて彼の瞳の奥をじっと見つめていた。

「本当だよ。俺の家はすぐそこで、この河原までよく散歩するんだ」

 私を安心させるような穏やかな口調だった。急に全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。

「良かった……」

 冷たい風が頬を差した。河原のススキが乾いた音をたてながら同じ方向に揺れている。太陽が西へ傾き、宵闇が周囲を覆っていくのがわかった。夕陽に照らされた水面は相変わらず不気味な輝きを放っていた。

「椎名、心配させてごめん。本当にごめん」彼は座り込んでいる私の左腕にそっと触れた。

「大丈夫か。立てるか?」

 私の左腕を掴みながら心配そうに彼は言った。私はうつむいたまま小さくうなずいた。

 私達は寒さに耐えかねてとりあえず目に入った近くの喫茶店に入った。店内には二組の客しかおらず、とても静かな空気が流れていた。ゆったりとしたテンポのジャズがかかっていて、珈琲の香りが充満していた。私達は一番奥のテーブル席に向かい合って腰掛けた。

「椎名は仕事帰りだったのか?」
「はい。帰り道の橋から、先生が見えたからつい……」
 私がそう言うと、彼は私の目をじっと見た。

「知ってると思うけど、俺の妻が七月に亡くなって……お前が働いてるN大病院の乳腺外科でずっとお世話になってたんだ」

「先生の奥さん、うちの病院にかかってたんですね」

 このあたりは田舎で大きな病院があまりないので、もしかしたらそうかもしれないと思っていた。

「椎名は病棟にいるのか?」

「はい。5階の消化器外科病棟です。私、先生の奥さんが通院してるなんて全然知らなかったです」

「あの病院には5年くらい世話になったよ。癌を取り除く手術をして、そのあと骨に転移して、抗がん剤や放射線治療をやった。最後は肺に転移して……、妻があまり動けなくなってからは、訪問看護や訪問介護を頼んで、家での妻の世話を手伝ってもらった」

 私は黙って話を聞いていた。頷く事しか出来なかった。

「本当に世話になった。俺と妻の家族だけじゃ、どうにもならなかった」

 自分の事をあまり話さない人がこんな風に家庭の事情を打ち明けるのは、私がこの仕事をしているからなのだろう。彼は漆黒の瞳でテーブルの一点を見つめていた。その目はぴくりとも動かなかった。

「大変でしたね」

 沈黙が続いた。目の前に置かれた珈琲に二人とも全く手を付けなかった。もうすっかり冷めてしまったに違いない。

「家のことは、落ち着いてきましたか?」

「ああ、少しずつ落ち着いてはきてるな」

 昔と変わらない、淡々とした口調だった。思っていたよりも彼は普通だったので少しだけほっとした。どうしてあの時、川に飛び込むように思えたのか。

「椎名とこうして二人で話してると昔を思い出すな」

 少しだけ口元をほころばせながら、懐かしそうな深い目で彼は言った。

「お前は用事もないのにしょっちゅう化学準備室に来ただろう。色んなこと喋ったよな。俺と話したがるなんて本当に珍しい生徒だなあと思ったよ」

「先生と話してるとなんだか安心したから」

「椎名は落ち着いてたもんな」

「迷惑でしたか?」

 先生はテーブルに目を落としゆっくりと首を横に振った。

「迷惑じゃない」

 彼は珈琲をひと口飲んだ。私はコーヒーカップに触れている彼の指を眺めた。背が高いわりに指は短いように見える。それは高校生の頃にも思っていた事だった。

 私達は店を出て車を停めた空き地へ戻った。夜の帳がおりて、街灯の寂しいあかりだけが周囲を薄く照らしていた。

「じゃあな、心配かけてごめんな。気をつけて帰れよ」
「先生」
「ん?」
「ラインするので、また会えませんか」
「そうだな」と彼は言った。

 車の運転席に乗り込みエンジンをかけると、ヘッドライトが点灯し先生の朧げな輪郭を浮かび上がらせた。彼は微笑みながら私を見ていた。でもその目は笑っていなかった。まるで永遠の別れを告げているようだった。もう二度と私に会うつもりはないのだろう。胸に鋭い痛みが走り、肺の底まで空気を吸うことが出来なかった。私は先生に頭を下げて車を前進させた。





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