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小説 月に背いて 12

 井川くんと神社へ行った翌週、佐田先生が車の衝突事故にあった。一時停止をせずに優先道路に進入してきた車に助手席側から衝突されたようだ。車は廃車となるほど損壊したが、彼自身は軽い打ち身だけで済んだ。私はそれから全く事故を目撃しなくなった。

 しばらく会わないようにしようと先生に伝えなければならない。そうしないとさらに悪いことが起こるという予感が頭に纏わりついた。とりあえず今は会うのをやめよう。次に会った時必ず伝えよう。そう自分に言い聞かせながらも私は、彼が今ひとりで何を考えているのか想像し、寒さに震えていないだろうかと心配した。

 二月最後の土曜日のお昼すぎ、先生が家に来た。私はその日夜勤明けで、午前中はずっと眠っていた。私達はダイニングテーブルを挟んで向かい合い、温かい紅茶を飲んでいた。夕食は何を食べたいかと彼は言った。

「話があるの」

 人生の終焉かと思うほど色彩を欠いた景色を眺めた。

「私達はしばらく会わないほうがいいと思う。もう連絡してこないで」

 背筋が寒くなるくらい冷酷な沈黙が続く。もうどれだけ時間が流れたのかわからない。重苦しい空気が部屋中に充満し、壁掛け時計に目を向けることも出来なかった。

「わかった」
 彼は立ち上がり、コートとショルダーバッグを持ってドアの方向へ歩き出した。 

 ああ、これでいい。これで私と彼の運命はひとりでに決まる。振り返ってはいけない。絶対に振り返るな。私はそう思った。

 足音が止まり部屋は再び静寂な空気に包まれた。
「どうして急にそんな事を言うのか教えて欲しい」

 驚いてつい振り返ると、彼はドアの前に立っていた。

「お前は本当は何を思っているのか教えてくれ」

 冷たい漆黒の瞳が私を貫いた。私はその目を見つめたまま黙っていた。

「言ってくれ!」

 先生は大声を出すと同時に右手の拳を壁に強く叩きつけた。ドンという大きな音が鳴り響き、振動が部屋全体を包んだ。彼がこんな風に感情的になるのは初めてで、思わずその姿を上から下まで眺めた。

「言ってくれないのは先生のほうでしょう!?」 
 私は大声を出した。

「先生は何も話してくれないじゃない!だから私も自分の気持ちを言えない。私はただ先生が好きなだけなの。でも私達が一緒にいると良くないことが起こる。だから今は距離を置いたほうがいいと思う」
 
 彼は両目に悲しい色を浮かべたあと、うつむきながら右手を額に当て、ゆっくりと目を閉じた。私にはその仕草が子供が泣いているように見えた。「良くないことが起こる」とはどういう意味なのか、聞きただそうとする気配は見られなかった。

「家にいると、相変わらず足音や話し声が聞こえる。もう俺は頭がおかしくなってるんだと思う」

「今もずっと続いてるの?」

 彼は小さく頷いた。 

「俺は、……お前に会いたくなった時だけ連絡するわけじゃない。自分の頭が正常に働いてると感じた時にここに来てる。今なら大丈夫だと思える時だけ来てる。毎回、もう二度とここには来ないと言おうと思うんだ。お前を巻きこみたくないから。俺と一緒にいたってお前は苦しいだろう?」

 私は黙って彼の顔を見つめていた。

「何もかも全部放り出して、今までの事を全部忘れて、家も処分して、仕事も責任も棄てて、お前に甘えられたらどんなにいいだろうと思う。でも俺には出来ない。どうしても出来ない。たとえ今の状況が落ち着いたとしても、俺が俺でいる限り、一生出来ないかもしれない。俺はお前を大切にしたいと思うんだ。お前を失いたくない。それなのにどうして、……」

 彼は目を閉じ、苦悶に満ちた表情で大きく息を吸い込んだ。

「こんなに苦しいんだろう」
「それは私が生徒だったから?」
「わからない」

 彼から視線を逸らした。涙は流していないけれども、私には泣いているように見えた。胸が潰れそうで、もうその姿を見ていられなかった。

「お前がさっき言ったのと同じようなことを妻にも言われ続けた。愛していると言っても信じてもらえないんだ。俺は何かが決定的に欠けているんだな。俺は……」

 その時ダイニングテーブルの上に置いてあった私のスマートフォンが鳴った。画面を覗くと井川くんからだった。メールではなくてわざわざ電話をしてくるなんて、何かあったのだろうか。スマートフォンの点滅をじっと見つめていると、苦しさが喉元までこみ上げてきて、涙が出そうになる。

「いいよ出て」と先生は言った。

 十秒ほどで着信音は止まり、澱んだ空気で満たされた部屋に再び沈黙が降りる。

「もうここには来ないよ。このまま二人でいたら、いつか必ず後悔する日が来る。お互いに。俺達はこうなるべきじゃなかったんだと思う。本当にごめん」

 その言葉が胸に鋭く突き刺さり涙が滲んだ。熱い涙が落ちて視界が霞む。自分が別れようって言ったんじゃないか。これで平穏な日々が取り戻せるのに何を迷う事があるのだろう。

 先生は私から目を背けて、床に落ちたショルダーバックとコートを拾い上げた。私が視界に入らないように注意深く手元を動かす仕草がたまらなく悲しい。これから死刑宣告を受けに行くような、絶望の淵を眺めている背中。この人はずっと泣き続けている。

「大声を出して悪かった」
 彼は私に背を向けてぽつりとつぶやいた。

「先生はずっと泣いてるじゃない。私はやっぱり先生のそばにいたい。先生の力になりたい。高校生の時、先生は私の話を聞いてくれたでしょう?先生が苦しい時は側にいたい。私は本当のあなたを知りたい」

 瞬きするたびに大粒の雫がとめどなくぽろぽろと落ちた。先生は大きく息を吐いて、私に背を向けたまま言った。

「お互い魔が差しただけだ。すぐに忘れるよ」

 私は先生に走り寄ってその胸に体を預けた。そして両腕を彼の背中にまわし、感触を確かめるように手に力を込めた。もう自分でも何をやっているのかわからない。

「もう帰るから、放して欲しい」
 先生は冷たい声で言った。

 お互い身動き出来ず、言葉を発することも出来ず、悲しい沈黙だけが続き、壁掛け時計は無慈悲に時を刻んでいた。その間も彼の胸郭は苦しそうな呼吸に合わせて小さく痙攣している。私は嗚咽を漏らして震えている。二人の体が波のように交互に揺れた。

 見上げると、彼は眉根を寄せ、何かに必死で抵抗しているような、それでいて早く開放されることを望んでいるような、険しい表情をしていた。高校を卒業する時、これでもう二度と先生を苦しめなくて済むと思ったのに、何故またこんな事になってしまうのだろう。私は自嘲気味に自分の運命を呪った。

 窓ガラスが風でコツコツと鳴る。断続的に聞こえるその音に耳を澄ませていたら、突然コートとバッグが乱暴に床に落とされる音がした。不意に先生が私の背中に両腕をまわした。背中を這う指が震えながらしきりに動いていて、彼が心の底から迷っていることが伝わる。しばらくするとせわしない指の動きはなりをひそめ、今度は痛いくらいきつく抱き締められる。彼の葛藤も自己嫌悪も罪悪感も孤独も、全てを受け止める準備をする。

 ああ、どうしたらもっと先生に近づけるだろう。境界線が曖昧になるくらい、ぴったりと隙間を埋め尽くして、彼の体温に包まれたいと思った。二人を分かつ壁をひとつ残らず消してしまいたかった。

 先生が唇を重ねてきた時、初めて彼を知ったような気がして、男の人の唇はこんなに熱かっただろうかと頭の片隅でぼんやりと考えた。やがて唇の移動とともに彼の激しさが増し、右手は何かを探すように彷徨い始め、私の体の輪郭を細部まで確かめていく。

 家の外から子供の笑い声が聞こえた。近所に住んでいる子だ。母親の心配そうな声がして、徐々に足音が遠ざかっていった。そうか、まだ昼過ぎなのだ。

 気がつくと私は最も無防備な姿を晒して、訪れては去っていく欲情の波に身を任せながら、先生が抱える底のない闇にそっと手を伸ばしていた。目を閉じて、耳を澄ませる。肌を這うように浸潤してくる暗闇とひとつになる。心臓が凍りつくほど悲しくて寂しい。あなたはどうしていつも孤独を選択するのだろう。子供のように膝を抱えて泣いているのに。涙が滲む顔を彼の肩に強くうずめて、腕をきつく掴んでは離し、また掴む。彼の手から伸びている見えない鎖の存在を実感する。私は鎖に繋がれたまま、いつでもその手を中心に円周を画くように廻っているだけだ。

 やがて快楽の熱が体の深部から全身へと淀みなく平等に広がった時、私は先生を見下ろしてその瞳を覗き込んだ。両手で彼の首筋を優しくなぞり、指を這わせ喉仏の位置を確かめて、頸動脈の拍動をじっくりと感じ取る。左頬の薄い傷に口をつける。もっと一つになって、線も縁も溶かして、この人を自分だけのものにしたい。心の底に潜んでいるものを全て引きずり出して、完膚なきまでにめちゃくちゃにしたい。絶対に誰にも渡さない。底知れぬ欲望が私の体を支配していった。

「大丈夫だよ。わかってる」

 そう言って私の髪を優しく撫でる手はとても悲しい感触がした。

「お前は俺に来て欲しいんだろう?」

 私は頷いて、この和室で見た夢のことを思い出していた。湿った温かい潮風に吹かれながら水平線の彼方を眺める夢。海は陽光を浴びて輝き、太陽に照らされた私の足元には短い影が立っていた。

「ねえ先生」

 再び彼の首に両腕をからめる。

「最後に海に行きたい。これから一緒に行こう。連れて行ってくれるって言ったよね」

 先生は視線を動かして枕元の目覚まし時計をしばらく見つめたあと、私に目を戻して「わかった」と言った。時計は15時を差していた。ここから海までは高速道路を使っても1時間半かかる。今から出発すれば、日没までにはなんとか間に合うだろう。絶え間なく続いていた窓ガラスの音がいつの間にか聞こえなくなっていた。







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