小説 月に背いて 9
2月中旬、井川くんから突然「出張から帰ってきたから食事でも行かないか」というラインが来た。そういえば恭子の結婚式の二次会でそんな事を言っていたなと思い出し、すぐさま返信した。最近先生の事ばかり考えて苦しかったので、なんでもいいから気を紛らわせたかった。
翌週末に井川くんと二人で会うことになった。向こうがどういうつもりで私を誘うのかよくわからなかったが、食事くらいなら別にいいだろう。
その日19時、彼は私の家まで車で迎えに来てくれた。助手席に座ると、「なんか痩せたな。大丈夫か?体調悪い?」と驚いたように言った。相変わらず声が大きいなと思いながら「そうかな?別に大丈夫だよ」と答えた。
「ならいいけど。どこに行く?何か食べたいものある?」
前に会った時と変わらない無邪気な笑顔を見て、少しだけほっとした。
私達は個室のある居酒屋に入り、お互いの近況について色々と話した。私だけ三杯くらい酒を飲んだが、酔っ払うことはなかった。会話の最中も先生のことが頭から離れず、週末だから今日あたり連絡が来るだろうかとか、そんな事ばかりを考えていた。自分でも心底バカバカしいと思うのだが、もう仕方がない。
21時になり、私達は居酒屋を出た。スマートフォンを見ると、これから家に行っていいかという先生からのラインがきている。私はそれを無視した。
夜景でも見に行こうかと言われたので私はうんと答えた。これじゃあまるでデートをしているみたいだ。ふとその時、彼は始めからそのつもりなのかもしれないと感じ、どうして今更そんな事に気がつくのだろうと自分でも驚いた。
車で30分ほど山道を昇り、山の中腹にある道の駅の駐車場に車を停めた。そこからは市街地の明かりが見渡せる。私達は車から降りて並んで夜景を眺めた。空気は冷たく澄み切っていて、街の灯りが瞬いている。半月が南の空に高く昇り、沢山の星が輝いていた。
「そういえばさ、椎名の家の辺りってナビが狂うんだよな。なんでだろう」
「前にも誰かに言われた気がする。あのへんは磁場がおかしいのかもしれない」
「そういうのがわかるの?」
「わかんないけど。なんとなく」
「前に霊感みたいなものがあるって言ってたよな。幽霊が見えたりすんの?」
「子供の頃は変なものを見ることがあったけど、今は全然。何か嫌な場所だなって感じることがあるくらい。その場所に残っている思念みたいなものを感じ取っちゃうんだと思う。……あとは変な事言うけど……、相手がもうすぐ事故にあうとか、亡くなるだとか、そういうことがなんとなくわかることがある。嫌だよね」
「よくそれで看護師をやっていられるなあ」
彼は呆れたような声を出した。
「仕事のときは無意識に自分にバリアをはってるみたいで、不思議と全然わかんないんだ。無防備なときほど色々感じるのかもしれない」
気持ち悪いと思われていないだろうか。心配になり彼を見ると、好奇心に満ちた目をしていたので、安心して夜景に視線を戻した。
「最近ね、通勤途中とかにしょっちゅう交通事故現場を見かけるの。もしかしたら次は私かもしれない。私が事故にあうのかもしれない」
「マジで?どれくらいの頻度?」
「三日に一度くらい。たまたまだよね。気にしすぎなのかもしれない」
「怖くないのかよ」
彼は心配そうに言った。
「怖いよ」
肌に刺さるような寒風が通り過ぎた。思わず目を閉じてマフラーに顔をうずめる。
「誰かに相談したの?」
「誰にもしてない。相談したところで信じてもらえないだろうし、どうにもならない気がして」
妙な間があった。井川くんが何も言わないので横に目を向けると、とても真剣な目で私を見つめていた。その目を見ていられなくて再び夜景に視線を向けた。
「椎名は今彼氏いないんだろう?」
「彼氏みたいな人はいる」
「彼氏みたいな人?付き合ってるわけじゃないの?」
その言葉にゆっくりと頷く。適当にごまかせばいいだけなのに、私はどうしてこんな事を話しているのだろう。
「好きとか付き合おうとか言われたわけじゃないんだけど、会ってる人がいる。私はその人の事がどうしようもなく好きだから、会いたいって言われると断れない」
ざわざわと木々の梢の葉音が響くなか、息を吐くような音が聞こえた。ため息をついているのだろうか。
「それってさ」
五秒ほど沈黙があった。今すぐ両手で耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「なんていうか、都合良く取り扱われてるだけなんじゃないの?」
私はマフラーに顔をうずめながら夜景を眺めていた。ダッフルコートのポケットの中で強く握りしめていた拳は冷たくなり、もう感覚がない。
「言われなくてもわかってる」
吐き出した白い息があっという間に流れて消えていく。井川くんはしばらく何も言わず、遠くの景色をじっと見つめながら何かを考えているようだった。
「辛い時や不安な時に相談出来ない相手なんか、一緒にいても意味ないじゃん」
当たり前のようにそう思っていることがはっきりと伝わる言い方に、心臓がえぐられるような痛みが走った。
わかってる。そんな事は言われなくても良くわかっているけれど、今は仕方がないのだ。もうどうすることも出来ないのだから。
佐田先生との関係も、それを井川くんに話していることも、ものすごく悪いことをしている気がして、どうしても彼の顔を見ることが出来なかった。
「椎名」
穏やかな声で彼は言った。
「また来週会えないか?一緒に神社に行って、交通安全のお守りを買おうぜ」
「お守り?」
「うん。俺も一緒に神社でお願いするよ。そうすればきっと大丈夫だろ」
妙に自信に満ちたその声音は、不思議と全てが大丈夫だと思える強い響きを含んでいた。
「そうだね。ありがとう」
来週末は夜勤なので、平日に合う約束をした。
そのあとも色々なことを話しながら帰路についた。家に着いて助手席から降りると、彼も車から降りた。そして私に向き合って立ち、「じゃあまた来週な。ちゃんと戸締まりしろよ」と言った。とても優しい目をしていた。
その時、家へ目を向けた途端に表情が曇った井川くんは、何かを言いかけた口を急に閉じた。振り返って視線の先を見ると、門の前に佐田先生が立っていた。駐車場には彼の車が停まっている。
「佐田先生……?なんで……」
井川くんは目を見開きながらそうつぶやくと、困惑した視線を漂わせて救いを求めるように私を見た。その瞬間、全てを理解したようだった。
眉一つ動かさず私達を見つめる先生は、まるで能面のような無表情で全く動かなかった。
井川くんは歩を進めて先生の前に立った。
「佐田先生久しぶりです。長澤の結婚式の時、俺二次会に行ったんですよ。先生も来てくれれば良かったのに。今日3組のメンツで集まって飲んでたんです。良ければ今度先生も来て下さいよ」
口元は微笑んでいたが、先生を正面から見据えるその目には、冷たい敵意を含んだ鋭い光がはっきりと浮かんでいた。
佐田先生は井川くんから視線を逸らさず無表情のまま「そうだな」と言った。
「椎名おやすみ。またみんなで飲もうな」
私に向けられたのは自然な笑顔だった。
「うん。送ってくれてありがとう」
振り返りもせずに車に乗り込んだ井川くんは、真っ直ぐ前だけを見てすぐさま車を発進させた。車のエンジン音が遥か遠くに消えてなくなるまで、私と先生はその場に立ち尽くしていた。
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