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殺人事件ノンフィクションをなぜ読むの?

この夏、何を読んだかというと、殺人事件を取材したノンフィクションノベルだった。
黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 リチャード ロイド パリー
この本を読み始めたのがきっかけだった。ほとんど知らなかった事件。世代ではない事件なのかな。だから、ほとんど事件の概要も知らずに読み始めた。ノンフィクションだけれど、推理小説のように読んでいけるという話を聞いたから。イギリスのノンフィクションの伝統に、推理小説のように作っていくというのがあるらしい。だから、事件への興味ではなく、むしろ推理小説の作法のようなものがわかるのではないかと期待してのことだった。
事件は、2000年7月、六本木でホステスとして働いていた元英国航空の客室乗務員の女性が突然消息を絶ったところから始まる。彼女の家族が来日し、行方不明の彼女を探していく視点からの描写で描かれる。なるほど、何が起きたか分からない家族、特に父親からの目線で、必死に探すために様々なことを画策するという姿は、確かに推理小説の構造だ。情報は小出しにされて、その都度、引きを作ってありこれが謎になって読み進める原動力になる。やがて事件は警察の手で解明される。失踪してから3カ月後、容疑者の男性が逮捕される。男の素性にせまり、殺されたと思わしき彼女の捜索が始まる。謎は犯人から、遺体の遺棄現場へと変わり、葉山の海岸の洞窟で発見される。そして事件は奇妙な裁判へと移っていく。事件捜査の流れは、この本よりもむしろ最近Netflixで配信されたドキュメンタリー作品「警視庁捜査一課 ルーシー・ブラックマン事件」に詳しい。警察側からの視点だからだ。この本とは相反する主張のようなものもあるのだが、それは視点が違うのだから当然だ。
読み終わって、面白かったと思った。そこには濃い人間模様があり、事件があり、謎があった。けれどそれは奇妙な事だった。フィクションの推理小説はエンタメだ。しかし、この本はこれはエンタメではなかった。けれど、自分はおそらくエンタメ的に面白がったので、単純に面白いと思った。実際に起きた凄惨な事件をエンタメとして読んだ自分はなんなのか?少し怖くなった。
だから、二冊目を買った。

つけびの村: 山口連続殺人放火事件を追う 高橋 ユキ
こちらの事件は知っていた。知っていたけれど、知らない事件。ニュースで事件自体はさんざん見た。「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」この張り紙を何度報道で見たかわからない。犯人はすぐさま捕まった。事件が解決されて、報道がだんだんと消えていき、自分の記憶からも消えていった。思い出したのは、事件ノンフィクションを何か読まなくてはと思って探していた時だった。読んでみれば、これは、事件の真相を時系列を遡って探っていく、推理小説形式のノンフィクションではなかった。動機探しというのだろうか、いやもっと根源的な動機になったと言われている、村にあった「噂」というものを探していくという不思議な事件ノンフィクションだ。雲をつかむようなはっきりとしないものを、ひたすら著者が関係者を訪ねてつかむとする。
非常に曖昧な本だ。正解はどこにもないし、過去に起きたという出来事自体も、どれが本当のことか分からない。自分はよく伝承や昔話を探してきて読むことがあり、それが現実で起きた事柄に即しているのかを文献検証してみることもあるのだが、それに似ている。過去になってしまった出来事は、そうやって曖昧になっていくのだ。まだそうなりきっていない状態の村、そこを捉えた本だった。面白かった。もやもやするのも、面白いのだ。
謎は解かれていないので、私は、この本をエンタメ推理小説的に面白がったわけでは無さそうだ。社会のリゾームというものが見えた気がして面白かったのだろうか。
三冊目は、おそらく日本での事件ノンフィクションで一番有名なものを読むことにした。

殺人犯はそこにいる―隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件 清水 潔

これは、前二つとは根本的にことなっている。著者のジャーナリスト自身が、あの足利事件が冤罪だということの証明に尽力し、さらには連続殺人事件の犯人を特定したとする本だ。このジャーナリストが巻き起こした報道はわずかに記憶にあったし、足利事件の冤罪の報道も見ていた。事件を取材したのではなく、事件捜査を動かしていく本で、ある意味、そのまま推理小説で起きるような出来事を、現実でやっていく様を描いたノンフィクションだ。そのためか、日本推理作家協会賞評論その他の部門まで受賞してしまっている。推理小説ではなく、現実の事件への推理そのものの本なのだ。どちらかというと、告発本に近いのかもしれない。そんな本が面白くないはずはなく、夜を明かして読んでしまった。が、これもまた凄惨な連続殺人の本なのである。眼をそむけたくなるような出来事を、なぜ活字にされた瞬間にお面白く感じてしまうのか。殺人事件のノンフィクションというものは、いったい何なのか。

冷血 トルーマン・カポーティ

殺人事件を扱うノンフィクション・ノベルを確立したのは、カポーティの冷血だといわれている。1965年。カンザスの一家惨殺事件を取材したものだ。自分も、この本がおそらく初めて読んだノンフィクションノベル。カポーティは小説が好きだった。ミリアムや草の竪琴が好きだった。しかし、冷血は読んでいなかった。映画「カポーティ」を見て、それで冷血を図書館に借りに行った。映画は、カポーティが冷血を書き上げるまでを描いたものだったからだ。フィリップ・シーモア・ホフマンの名演映画。買ったDVD
DVDの表紙のキャッチコピーは「何よりも君の死を恐れ、誰よりも君の死を望む。」瞬く間に自分の見た映画の最高のものの棚に入った。
映画は、事件を起こした死刑囚と取材を通して友情が芽生え葛藤してくというストーリーだ。それがどこまで本当のことかは知らない。
図書館で借りた冷血は分厚かった。しかも、ほとんどが事件の周りへの証言集のようなものだった。事件の進行は当然あるが、とにかく証言、証言。分厚さは調査報告書のようでもあり、エンタメ的なものとは程遠かった記憶がある。
なぜ、カポーティは冷血を書いたのだろう。伝記、ジョージ プリンプトンの「トルーマン・カポーティ」を読んでも良くわからなかった。彼は、推理小説や殺人事件をテーマにした小説を書く人ではなかった。幻想的で、どこか甘美で寂しい、そんな文学を書く作家だったと思う。虚言幻惑に近いトーク術で社交界を泳ぎ、上流や有名人を集めた仮面舞踏会をぶち上げたりと派手好きだったことでも有名だ。でも、最後に長編として書いたのは冷めきった視点で殺人事件を取材した冷血だった。
ずっとそのことは自分の中で謎になっていたのだが、この夏に日本での殺人事件ノンフィクションを読み始めて思い出した。
そういえば、最近めっきり推理小説を読まなくなっていた。代わりに、文献やら歴史論文の本などを読んでいた。
もしかすると、自分はフィクションに耐えられなくなって来たのかもしれない。事件になぜ惹かれていくのか。それもフィクションではなく現実の事件に。事件は、割れ目のような気がする。社会とか人間とか、そういうものが破裂した割れ目が、事件なのだろうか。そしてその深さは、現実の事件に虚構の事件は叶わないのかもしれない。だから、殺人事件ノンフィクションが面白いのだろうか。覗き込む穴が深ければ深いほど、面白いという感情が湧いてくるのかもしれない。フィクションは、穴を作者が掘る。ノンフィクションは、口を開けているどこまで続くか分からない穴を、水中洞窟に潜るダイバーのように著者が潜っていく。どこまで潜れるかは著者によって変わるのだろうけれど、洞窟自体は著者がたどり着けるところよりも深く穴を開けている。辿り着けなくても、まだ穴が開いている暗闇が見える。この違いなのかもしれない。最初、黒い迷宮を読みだした動機に戻ると、推理小説の本当の作法は、少なくとも事件そのものを魅せる小説に関しては、この穴をどこまで深く掘れるか、もしくは、既にある洞窟を使ってフィクションを作るべきということなのかもしれない。

カポーティも、フィクションに耐えられなくなったのかな。


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