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孤高の芸術家であるような妄想。 / 三浦しをんとトルストイを同時にインプットしたら方向性を見失った。【2023年7月29日】


『孤高の芸術家であるような妄想。』


相変わらず、Youtubeでは死んでいる状況にある。
毎週金曜日に『景虎と阿南』というストーリーものの動画を投稿しているが、再生数にしろ高評価数にしろ、全てが死んでいる。残念ながら、ご臨終です。丹精込めて作った物語を、完全な闇の中に葬り去ってしまったのだろうか。
そう思ってしまうと泣いちゃいそうになるので、今の状況をゴッホや宮沢賢治といった生前に全く評価されなかった偉人と重ね合わせて、自分が孤高の芸術家であるような妄想をして、心を落ち着かせている。
いや、いいじゃないですか、妄想くらい。

今の創作活動の現状、すなわち「誰にも何も伝えられていない」ということの原因は、なんとなく分かるような気がする。
・視聴者が見たいと思うものを作れていない。(求められるものではない)
・自分が作りたいものを作ってるだけで、結局のところ誰かの為のものではない。

自分のこだわりが、ものすごく悪い出方をしている。そのことには実は気が付いていて、その上で好き勝手をやっているだけなんだが、とは言えその結果を見たときの精神的な部分では、しんどいものはやっぱりしんどい。
僕だってそれなりに目的とかテーマを持って作っているし、せっかく作ったのなら、多くの人に見てもらいたいとは思う。
「面白くなれ!」と念じながら頑張って動画を作り、チェック段階ではそれなりの物になったと感じてはいたんだけども、「やっぱりダメだったのか」という落胆ばかりである。

何かを作ることは楽しいが、それを公開することには相変わらず苦痛を感じている。これって究極、我儘なだけなんですけどね、きっと。
努力音痴だし、スキルも無いし、曝け出そうと思ってnoteに記事を書いてみれば、恥や外聞の悪さには事欠かない。
そういう部分に少しでも面白みが出てくれば良いのだが、今のところは愚痴にしか出来ていない。
このnote、鬱憤の言語化を続けるだけのものになるのかな。
面白くなると良いんだけどな。


『三浦しをんとトルストイを同時にインプットしたら、方向性を見失った。』


作り溜めた動画を投稿しつつも、毎日のように小説を書いている。
今の進捗状況は字数にして8万2千文字くらいで、先々週くらいには8万文字くらいで完結できるかな、と思っていたが、多分12万文字くらいになってしまう。いくらなんでも冗長な気がするので、第二稿以降の段階で、なんとか文字を削ってやらなければならない。

小説を書きながら、三浦しをんの「星間商事株式会社社史編纂室」「舟を編む」と、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んでいた。どれもすごく面白く、小説を書く上では参考になる部分が多かった。
しかし、めちゃくちゃ当たり前の話ではあるが、三浦しをんとトルストイでは、文体も作風も全く違ったものである。三浦しをんが軽妙に会話や物語を進めていくのに対して、トルストイは重厚かつ陰鬱であり、人間の内面を見つめまくっている。

自分の小説を読み返してみると、日々、入れ替わり立ち替わりに両者の影響を受けていたようである。
その文体は、ある部分ではBL好き(?)の女性作家の歯切れの良い書き方を真似てみたり、またある部分では古めかしい思索に富んだロシア文豪を真似てみて、どこまで読んでも「。」がない文章を作っていたりする。
統一性がない。何とかしなければ。でも、どっちに合わせれば良いんだ?
そういうふうにして、方向性を見失ってしまった。
これから村上春樹の「騎士団長殺し」を読み直そうと思っていて、このカオスの中に、また新しい無秩序が加わることになる。


『三浦しをん、良いですよね。』


この間から初めて読んでる作家さんなんですが、良いですよね。
「社編」も「舟を編む」も興味深い構成があって、主人公や本筋のストーリーに対して、他の登場人物や別筋のストーリーを並び立てるような作りが面白いと思う。登場人物たちも、みんな愛嬌があって好きになれる。

しかしそういう面白いことをしつつも、本筋では外さない。
読者の期待を裏切らない展開があり、読んでいて気持ちいい。多くの人に受け入れられる作品はこうあるべきだ、という気もする。

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