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第11話「修士の2年間で教育について考えたいこと」

こんにちは~、ネキです。

4月に修士課程に入学して1年が経ちました。時間の経過があっという間で、驚きを隠せません^^;
満開の桜もマスク生活もそろそろ終焉を迎え、また少しずつ、「かつて」の日々が戻ってきそうですね。

現在絶賛M2が始まったのですが、入学から1年を経てようやく(?)、自身の専門領域である「教育」について向き合いたいと私は思い始めました。
「今まで向き合いたくなかったのか?」というとそういうわけではないのですが…。恥ずかしながら、教育について知った気になってしまっていました。また、教育との向き合い方も知りませんでした。
修士1年を経て、修了までの残り約1年、私が教育について知りたいことや考えたいことを、今回は書き残していこうと思います。
※深掘るととーーーっても長くなるので、浅く浅くにしておきます^^;

◯教育について「知りたい」こと

1)結局、どのような場面で教育は発生するのか。
⇒「人が2人以上存在すると、そこに教育は発生する」という立場のネキです。すなわち、自分以外の他者がそこに1人でもいると、何かしらの教育が施される状態にあるということで、教える矢印はきっと双方向で、教育による学び合いが起こると考えます。しかし、どのような場面で教育や学び合いが生まれるのか、まだまだ私の経験が足りないような気がします。
実は、この4月からとある学校で非常勤講師をすることになり、授業をいくつか持たせてもらえそうなので、実践・観察を通して上記のことを知り、考えようと思います。
また、教育の専門書をまだまだ読めていないので、カント関係の著書に触れようと企んでいます。人間が人間たらしめるために・・・。

2)多様な価値観に、学校教育はどのように適応していくのか。学校教育や教師は、「多様」をどこまで担っていくのか。
⇒ここ数年トレンドとなっている「多様性」。多様な価値観を受容していこう!という風潮が学校教育の中にもあり、講義でもそのようなことを学びました。しかし、どの状態を受容と捉えれば良いのでしょうか。
私は、恥ずかしながら頭の中では多様な価値観を受容していると思っていても、実際多様な価値観に触れた際、拒絶に近い感情を持ってしまいます。この場合、受容している「つもり」になっているということになるのでしょうか。感情的に拒絶してしまう私の価値観は、周囲に受容してもらえないということになるのでしょうか。これだと双方が価値観を受容している状態とは言い難いのではないかと私は考えるわけです。大変なモヤモヤです。
価値観に関する有識者の方に、このジレンマを解説していただきたいのですが・・・。
要するに、「多様」を抱え込むことってかなり難易度が高そうだと私は考えます。しかし、学校教育ではその「多様」を抱えていかなければならない。では、どこまで抱えるのか、どこから抱えなくてよいのか、はたまた分化できるようなものではないのか。私は現時点では「多様」という言葉に惑わされて、曖昧な考えしか持っていないため、まずは多様について知ることから始めたいと考えています。

◯教育について「考えたい」こと

〇これからの学校教育のあり方
⇒明治時代から現在に至るまで、学校は様々な教育的役割を担ってきましたが、時代の変遷に伴い、その役割は現在、皮肉にも多岐に渡ってしまっています。教育というワードこそ該当しないかもしれない、そんな役割まで学校は担ってしまっているような気がします。例えば、教員によるクレーム対応。教師になった同期の多くがこのクレーム処理に頭を抱え、中には心を病ませてしまう人もいるほどです。
 しかし、教師が子どものために割く時間・頭を悩ます問題って、もっと他にあるのではないか?と私は思うのです。例えば、授業内容しかり、学習環境しかり、あくまでも学校という建物の中で完結してしまうような内容を私は思い浮かべます。学校という環境でしか子どもが、教師ができないことを考え、少しでも迅速に変革していく必要があると考えます。

とまあ、上記が私があと1年でざっくりと考えたいことです。
自身の修士論文や進路に直接かかわるかはわかりません。しかし、何か目標を据えることで「教育」に向き合うことができ、教育学系で学んできた意味を見出せるかもしれないので、ぼんやりと考えてみようと思います。

進捗はちょこちょこ呟いていこうと思いますので、温かく見守っていただけますと幸いです^^
皆様もどうか心穏やかかつエネルギッシュな令和5年度をお過ごしください。それでは^^

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