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「あいちトリエンナーレ」から考える表現の自由と芸術。

「あいちトリエンナーレ」という芸術祭が3年ごとに行われていたことを初めて知りましたが、その中の一部の催しとして、「表現の不自由展」というものがあり、そこで慰安婦像や昭和天皇の顔写真を燃やす感じの作品があったそうです。

で、この芸術祭には公からの税金も投入されている為、「けしからん!」ってことで、怒った政治家がおり、炎上して、テロの脅迫のFAXが届いたことから、展示を中止する、っていう流れになっておりました。

今日、書いてみたいのは、


・芸術とはなにか?
・表現の自由はどこまで許されるのか?
・政治家の表現に対する介入


って感じのことです。

まず、慰安婦像や昭和天皇の御真影を燃やす作品が芸術なのか?ってことですが、「芸術」を辞書で引いてみると、

1 特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。絵画・彫刻・建築などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・映画・舞踊・オペラなどの総合芸術など。「芸術の秋」「芸術品」

2 学芸と技術。

とあります。

わけわかりません。

私が思うにね、この世の全ての人間の表現は、芸術になり得ると思うんですね。

あなたがインスタグラムに上げたアイスクリームの写真も、twitterに書いたしょうもないダジャレも、子供のお絵かきや作文も、ママが作った料理も、パパが脱ぎ散らかしたブリーフも、この世の全ての表現は、誰かが「美しい」と思った瞬間に芸術になるわけです。

要は、そこに感動する人が多いか少ないかで普遍的な美の対象になるかどうかが変わってくるだけで、69億人が「は?なにこれ?」って思うものでも、たった1人が、「う、美しい・・・。」って思ったら、それは芸術。

そこの線引なんか出来ないんですね。

あるのは好き嫌いだけです。

よって、私からすれば非常に不快ですが、今回の作品も「芸術である」って言われたら何も言うことはありません。

そして、表現の自由について。

それがどれだけ誰かを傷つけるものであっても、表現の自由というのは守られます。

「残念ながら」って思うこともありますが、表現することは止められるべきではない。

ただ、そこには必ず、「責任」がついて回ります。

「お前なんか死ね。」っていう表現を止めることは出来ませんが、それによって他者を傷つけたならば、そこに対する責任はきっちりと取らなければならないわけです。

で、それに対する政治家の介入ですが、これはダメですね。

税金を投入しているものなので、全く何も口を出すな、とは言いませんが、まあ、口を出したらダメでしょうね。法に触れるものでもない限り。

それを認めると、とめどなく権力の介入が許されることになり、本当にろくでもない結果になります。


総括しますとねえ、今回の問題はとにかく、監督である津田大介さんの「センスのなさ」によるものだと思うんですね。

津田さんは元々、非常に左巻きの思想を提示していて、今回の展示もすぐに「左側の人間である津田の運動を税金を投入してやっている」って風に捉えられてしまいました。

日韓関係が非常に微妙な時に、わざわざ、問題を起こすような展示をしたことと、それならそれで、なぜに、「右巻きの人も納得する展示」をしなかったのか?ってこと。

顔を燃やす写真ならば、なぜ、ヒトラーや、トランプや、韓国の大統領や金正恩や習近平ではなかったのか?

そして、脅迫されて、なぜにすぐに引っ込めたのか?(津田さんを特定しているわけではなく、会場に来る客を含めたテロ予告なので、これはまあ、しょうがないところが多いですが)

と、書きましたが、学校のプールの底の部分を切り取って、垂直に立てる作品とかっていう、大変素晴らしいものもあるので、つくづく残念な事件でした。




脅迫した人間が悪いのは確かですが、原因を作ったセンスのない運動と、「脅迫に負けて表現を引っ込めた」という非常に良くない前例を作ってしまうことになりました。

「表現の不自由」っていうコンセプトは、大変、面白いものだと思います。

相当な覚悟を持って、ありとあらゆる多角的で多方面の、「排除されてしまっている表現」なんかを公正に近い形で集めたものだったら、もっと評価されていてもおかしくなかったでしょうね。

でも、普段から特定の思想を表現している人が、パブリックな芸術祭でパブリックなカネを使って、特定の思想を表現してしまったというところが、致命的にセンスがない。

という、雑感でした。

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