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大久保利通の死に様~”ギャップがある男”のかっこよすぎる最後~

 大久保利通と聞いて、何となく顔が浮かんできますか?中々難しいと思います。人によっては、同時代に活躍した板垣退助の顔を思い浮かべる人もいるかもしれません。筆者もそうでした。

 筆者にとって、大久保利通の印象は、”コワモテおじさん”です。

 有司専制とか、初代内務卿とか、”コワモテ”な字面が続き、日本のためなら時には冷酷な判断も下す、そんな印象です。中学生の頃は、そんな印象すらなく、沢山出てくる明治時代の偉い人の一人くらいの印象しかありませんでしたが。



 そうなんです。明治時代っていうのは、とにかく沢山の人が出てきて、それを覚えるのに苦労します。西郷隆盛、坂本竜馬、伊藤博文とかならまだしも、山県有朋、大久保利通、大隈重信とか登場人物が多すぎるし、それぞれがやったことまで覚えなくてはならないわけです。

 しかし、日本史を暗記科目とだけとらえてると、いつまでたっても面白味を感じられません。本筋をとらえましょう。



 実は、大久保利通は、『史観宰相論』という本の中でこう書かれています。

「大久保は明治全期を通じての大宰相であり、大政治家だった。伊藤も大隈も、大久保の各々の面を継承している。伊藤は内政と外交に、初期の大隈は財政に、山県は軍隊と警察に、大久保路線のそれぞれを分担し実践した」(1)


 つまり、明治という物語の本筋には、大久保利通がいたと言っても過言ではないわけです。

 そんな彼の人生を、死に様から見ていきたいと思います。


大久保利通の肖像


板垣退助の肖像 ②



 大久保の死は、紀尾井坂の変とも言われ、明治11年5月14日に発生しました。大久保は49歳という年齢で亡くなります。

 「その日の早朝、大久保は参朝(=明治天皇に謁見すること)のために二頭立ての馬車で東京の裏霞ヶ関の自宅を出、途中の紀尾井坂で島田一郎ら六人の若者に切り殺された」(2)ということです。6人の人間に取り囲まれ、切り殺されたということですから、大久保の死体の凄惨さは相当なものでありました。

 もう少し丁寧に死に様を記述していくと、

書類を読んでいた大久保は、二頭立ての馬車の異変に気が付いた時には、島田に右腕を刺され負傷しました。

 しかし、「待て」と一喝し、いつものように書類を御用箱に仕舞い、その御用箱を抱えたまま、扉を開けて、島田らと対面しました。

 そして、島田らとのもみ合いの後、仲間に、めった斬りにされた。」(A)

ということです。





 大久保は死ぬ直前まである書類を読み、負傷しながらも、それを御用箱にしまったということですから、相当に大切な書類であったと言うことが出来そうですね。この書類が何であったのかは、後々語っていきます。

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