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108_七尾旅人「billion voices」

(前回からの続き)

そこには鱒寿司という名前で登録された、彼女のクリエイターのページがnote上に存在している。僕は不思議な気持ちになった。おそらく最近登録したばかりなのか、プロフィールの欄には素っ気なく「富山在住の主婦。星新一が好き」の一文しか書いてない。僕が星新一を譲った彼女であることはやはり間違いないだろう。

ページを下にスクロールしていくと、2、3個ほど記事が並んでいる。表題の付け方や書き出しからして、おそらく彼女が書いた物語に違いない。マウスを操作する僕の指は微かに震えている。心臓の鼓動は必要以上に高まっていた。

彼女が僕に読んでほしいと言っていた物語。この3ヶ月、僕の心をとらえて離さなかった彼女が書いた物語。僕は今、この物語を読むべきなのか、それとも読まずにおくべきなのか。僕はただページを見つめている。そのほんのごくわずかの時間にいろんな思いが交錯する。

記事をクリックしようとするところで、僕は思い直して止めた。なんとなくこれはフェアじゃないな、と思ったからだ。素知らぬ顔をして、彼女の物語を覗き見するようなことは、今はしたくなかった。それに読んだ後、どんな気持ちになるのかも想像がつかなかったし、そういう意味では読む勇気がなかったのかも知れない。

ただひとつ、何か僕の胸の中に、言葉にできないつっかえたものが残っていた。どうしても得体の知れないその何かをなんとかして捕まえたかった。僕は一旦パソコンの前から離れ、ソファの上に寝っ転がった。ぼっーっと天井を眺めながら、早くなった自分の心臓の鼓動を聞いていた。

彼女は今、物語を書き始めている。彼女は小学生の時に、星新一を教えてもらった同級生の男の子に、自分の書いた物語を見せることができなかった。彼女の頭の中に物語はたくさんあったのに、何度も何度も書き直して、最終的に形にすることはできなかった。彼女は大人になっても、それがずっと引っかかっていたという。

彼女は今となってはもうその男の子に物語を見せられないから、代わりに僕に物語を見てほしい、ということなのかもしれない。シンプルに考えればそうだし、それは僕にとっても願ってもないことだ。今、このnote上であっても別にいいだろう。単にそれだけのことだ。しかし、それだけではなぜか僕の中のもやもやが取れない。果たして僕は、本当に彼女の物語を読みたいと思っているのだろうか。肝心な部分はもっと違うところにある気がする。

彼女と話したとき、僕は彼女に強く惹かれた。星新一が好きな美しい女性だったということももちろんあるが、それ以上に僕の心の中を深く通底する部分があった。自分と彼女は似ている、おそらく自分と同じものを求めている、のだと。今となっては、彼女がどこまでそう感じたかは知れないところだが、少なくとも自分はそう感じた。

おそらく彼女は、その男の子や僕に物語を届けたいんじゃない。本当はあの時、物語を書き上げられなかった彼女自身に対して、物語を届けてあげたいのではないだろうか。心のままに、内側に埋没していた物語を外側へ解き放って、それを彼女自身の目で読みたいのではないか。

それは僕も同じだ。星新一のような物語をずっと書きたかった。だから、誰に読んでもらいたいものなのかよくわからない物語を、これまで意味もないくらいたくさん書いてきた。しかし、それは全ていつでも自分自身に届けるために書いてきた物語だったのだ。そうだ、本当に僕が読みたかったのは、いつだって自分の物語なのだ。

書こう、僕は僕の物語を。

彼女や顔のわからぬ誰かのためではなく、紛れもなく自分自身のために。今なら、彼女はきちんと彼女の物語の結末を迎えられるに違いない。そして、僕もそうすべきだ。無機質で空っぽになっていた自分の心の中を、僕の物語で満たすんだ。僕は静かに目を閉じた。

Rollin' Rollin' /七尾旅人 × やけのはら

その瞬間、僕は寝転がっていたソファから、宇宙の真ん中の無重力の空間に放り出され、ブワッと自分の身体が浮き上がったような感覚に陥った。体の奥底から手や指の先にかけて、普段と違うなめらかで火のようにあたたかいエネルギーが流れ出し、ジワジワと溢れ出てくるのを感じている。

頭の後ろの方から、今まで自分が作ってきた有象無象の僕の物語の登場人物、動物や宇宙人や博士や未来や過去から来た人たちが、ゾロゾロと列をなしてやってきた。それぞれが明滅する光に似て、現れては消えるように、無限に重なり合いながら、多層的に僕に語りかけてきた。僕は、起きているのか寝ているのか、半ばぼーっとした意識の中で、白昼夢でも見ているのだろうかとも思った。僕は両手をお腹の上に組んでリラックスしながら、周囲にそう言った光景が続くのをただ自分の心のままに任せておいた。

いろんな言葉が溢れていた。これまで自分が経験した、いろんな感情や希望や不条理や無関心が、僕の中のあらゆる物語と折り合い、そして重なりあっていく。不意に、僕の後ろの暗い方から子供の時の僕がやってきて、大人の僕に駆け寄ってきた。

子供の時の僕はすっと今の僕の手の中に、輝くなにかを握り込ませると、目の前からフッと消えた。それは鍵だった。異国的な彫刻をほどこされた神秘的で象徴的な鍵。鍵は僕の手の中にあり、もうこの鍵に合う錠前を探し続ける必要などない。そんな不思議な確信が僕の中にあった。

僕は静かに目を開ける。確かな感触があったように思えたが、当然、僕の手の中に鍵はない。短い夢のような無意識の世界から目覚めると、僕の頭の中はこれまでにないほどスッキリしている。3ヶ月前からずっとあったもやもやは、もう消え失せていた。僕はソファからスっと立ち上がって、再びパソコンの前に座った。そして、迷いなくnoteのトップページから、クリエイターの登録画面を開いた。

カタカタカタ。
いいや、名前とプロフィールなんぞ適当で。とりあえず、物語が書ければ、なんでもいいのだ。
カタカタカタ。
僕は投稿ボタンを押して、無心になってキーボードを打ちはじめた。
カタカタカタ。
物語を書き始めると、さっきと同じように机に座っている僕のいる場所が、広大で無限の宇宙のど真ん中になっていた。僕は気にしない。殺風景だった僕の部屋の中で、空っぽだったあの本棚は、まるでひとつの生き物のように息を吹き返して、鯨のように大きく呼吸しながら僕の傍にいる。輝く星々とともに、椅子の下を月よりも巨大な彗星が尾を引いて流れていく。僕の右向かいには、宇宙船に乗って未来からやって来た人たちが、興味深そうに僕の作業風景を眺めている。左向かいにはあのアイコンのままの鱒寿司が短編集を読んでいた。

僕は気にせず、キーボードを打ち続ける。

カタカタカタ。カタカタカタ。カタカタカタ。

(おわり)


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