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071_Polygon Window「Surfing On Waves」

僕はあてどもなく森の中を彷徨っていた。深い深い森の中を、足を棒にして歩き続ける。喉も無性に乾いている。何か飲み物が欲しい。今までこれほどまでに乾いたことがないってくらい、自分の体が急速に縮みあがっていて、全身で水分を欲している。

なんなんだろう、何を探しているのだろう。地面の枯れ木を踏み損ねて、足に引っ掛かり擦り傷ができていた。しかし僕は気にしない。木々が風に揺れる音だけであたりは静寂に包まれてる。綺麗な若木が出ていて、若々しい緑が目に映える。

このままこの先を進み続けてもいいのだろうか、幸いあたりはまだ暗くなる気配はない。僕は歩き続けながら、今朝、彼女と交わした会話を頭の中で、動画のようにもう一度再生していた。ただずっと同じ内容だけがリピートされる。だから、足を止めると、頭の中がそれだけに占領されてしまう。だから、ただ今は歩き続けるしかなかった。そうだ、僕は止まるわけにはいかない。

「あなたの子供は産めないわ」
「え」
「だから、産めない。私、一人で生きることにしたから」
「いや、ごめん、君の言ってる意味がわからないよ。それと、文脈が掴めないのもある。今まで、僕が君に子供を産んで欲しいなんて伝えていたっけ」

彼女との会話はいつもこのように突拍子もなく、会話の背景や文脈がよくわからないまま展開されていく。僕はいつも彼女の言葉に対してきちんとした注釈をつけるべく、彼女の同意を得て丁寧に補足していく。この夏、軽井沢の僕の父の別荘に二人で遊びに来ていた。こんな別荘を日本全国に持っているくらい、僕の家は裕福で、子供の頃から何不自由のない暮らしをさせてもらっていた。

貧しい家の子供が進学を諦めて働きに出ているニュースなどを見るたび、僕は子供ながらにこの家に生まれてきてよかったなどと思ったものだ。なんと嫌味で浅ましい人間なのだろうか、不意に自分に対して例えきれないような嫌悪感と罪悪感も抱く時もある、しかしそれもあくまで人並みにだが。

家には優秀な家庭教師が付いていて、静かに勉強ができる部屋や環境を与えられていた。僕は学生時代に特に何かすごく打ち込んで頑張ったとか苦労したという思いもなく、僕と同じく裕福な子弟の多くいる私立大学を出て、給与の安定していて異常に仕事のつまらないインフラ企業に就職した。そして自分が生きることに対して、特段なんの疑問もない生活というものを送っている。そうだ、自分にとって人生というものはそういうものなのだ。再生ボタンを押せば淡々と流れていく、途中で早送りしたり、巻き戻しされるようなことはなく、一時停止をしてふと立ち止まって、己が身の上を考えるようなことはなかった。

彼女は保母さんをしていた。職業柄だろうか、あくまで一般的に言って、僕に比べてもおそらく給料は安い。はした金のような金額を稼いでも、同居している母親にむしり取られる。彼女は、仕事を転々とするようなろくでもない父親と強欲な母親の元で、子供の頃から貧しい家庭で育っていた。彼女の家庭の話を聞く限りにおいては、その両親はドストエフスキーだの峻厳で冷徹なロシア文学に出てくるような悲惨な農奴の家の惨状のようで、彼女の両親は彼女にとって害悪にしかならない存在だということがわかる。ただ、彼女はそれを特段気にする素振りはない。

どんなに悲惨な家庭環境や労働環境であっても、常に凛とした存在として彼女は立っていた。僕は彼女から人の悪口や己が身の上の愚痴などはこれまで聞いたことはない。常に整然とした心持ちで、投げやりになることも自らを蔑むこともなく、さもそれが当然だというように、自分の目の前の人生の困難に敢然と整々と立ち向かっているようだった。己の人生を放擲せしめない、何かの太い手綱のようなものを彼女は自分の手でしっかりと握りしめている。それは側から見ていても、優雅に水上をボートを漕いでいるようで清々しいものだった。(しかし、オールを漕いでボートを速く真っ直ぐに進ませることは、側から見ている以上に相当な鍛錬がいることだろう)そこに、僕は惹かれた。

しかし、おそらく彼女の存在は、これまで僕の人生の登場人物の中であまりにも異質だった。それは彼女から見ても、お互い様であったかもしれない。僕は、例えば彼女のような、僕の人生の範疇というものに収まらない人たちを見るたび、いつしかこういう考えが浮かんでいた。おそらく生まれる前のポイントが足りなかったのだろう、と。僕はたぶん生まれる前の前世と呼ばれる段階では相当なポイントを貯めた上でこの人生を迎えているから、そんなに生きていくのに困ることはない。

たぶん、彼女を含めておおかたの人は、生まれる前に十分にポイントを貯められない状態で、この世界に産み落とされてしまっているのだろうと安易に考えていた。人によってはそれを運命だとか、前世の因縁とかカルマだと呼ぶのだろうが、僕は定数的に勘定のできるポイント制で捉えていた。見る限り、彼女はどうしたってポイントが足りていない。僕のポイントを分けてあげるべきだろうか。そんな考えが頭をもたげはじめていた。目の前に軽井沢の別荘の森を眺められるウッドデッキで二人腰掛けて優雅に朝のコーヒーを飲みながら、僕はそんなことを考えている。そして彼女は不意に言葉を僕にぶつける。

「ずっと、考えていたの。あなたの子供を産むべきか。私、子供が好きだから、たぶん子供は私の人生の一部になると思っているから」
「それは、そうなんだろうね。でも、僕らまだ結婚もしていないのに、いろんなものをすっ飛ばしていやしないかい」
「そうね、結婚もしていなかったわね。ただ、やっぱりあなたはあなたの人生の中で、物事の始末をつけるべきだと思ったの。その中に、私はいないのだと」
「いない?住む世界が違うってことかい。それは気にしなくていいって前から言っているじゃないか」
「そうじゃない、同じ場所には一緒にいる。でも、あなたはあなたの人生に目と耳を向いているし、私は私の人生に目と耳を向けている。あなたはあなた、私は私、それぞれの人生の階段を登っていかなければいけないわ。でもたぶん、その時、私の隣にあなたは存在しないの」
「そんな、急になんなんだい、決めつけないで。ていうか、言っている意味がわからないよ。もうちょっとだけ、冷静になろう。君はいつも突拍子もないことを言って、僕を混乱させるから」

だが、違う。自分でもわかっていた。彼女の言っている意味が。そして、彼女は十二分に冷静であって、そうではないのは自分だということも。彼女はこれまでの二人の在り方を冷静に入念に蟻の子も見逃さないほど微細に分析して検討に検討を重ねた結果、そういう結論を出したことは明白だった。僕の知る限り、彼女はいつも聡明で機を見るに敏であり、これまでふざけた別れ話など切り出すような女性ではない。

「狭き門から入れ。」という言葉が浮かんだ。しかし、二人がお互いに寄りかかったままでは、どうしてもくぐれない人生の門がどうしてもあるということだろうか。そして、彼女は決して僕に寄りかかるつもりはない。僕は彼女をどうしたいのか。

「ほかの人たちだったら、これをもって一巻の書物を書きあげることもできただろう。だが、わたしがここに物語る話は、わたしがそうした生活を生きんがために全力をつくし、そして、わたしの精根がそれに傾けつくされたところのものなのだ」

僕はジッドの『狭き門』の冒頭の一節を思い出した。僕の好きな本だった。この本の主人公のように、僕は相手に自分の精魂のすべてを傾けた結果として、最後の結末を迎えたわけではない。僕はただ安穏とした場所でくつろぎながら、彼女に安易にポイントなどを振り分けようかなどと、浅ましい考えに耽溺していたに過ぎない。彼女の人生の始末を一緒につけられる覚悟もなければ、腹を決められているわけでもない。

凛として僕を見つめる彼女。僕はどうしても彼女の目を正面から見ることができない。どうしようもなくなって、僕は思わず、森に逃げ出した。そして彼女の元に、帰ることができなかった。


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