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059_Mogwai「Happy songs for Happy People」

(前回からの続き)

結婚式の前にお互いの両親の顔合わせをしたのだが、あらかじめ先方の両親には、父は昔から人馴染みのできない人であることを伝えていた。酒の飲まない父というのは借りてきた猫のように、空虚でうつろな存在でしかない。酒を取ったら今の父には何も残っていないのだ。だが幸いにも、父と会って話した感じでは、率直で素直な人なのだという印象を先方は持ってくれたようだった。それはある意味間違いではなかった。

父は酒は飲んでも、声は荒げたりはするが、暴力を振るうようなことなどは一切なかった。それは昔から一貫していて、父は結局のところ、本質的に人を騙したり出し抜いたり傷付けるようなことのできる人ではなかった。翻って、それはすなわち人の言外の意図を見抜いたり、自分を客観的に捉えるようなメタ認知することもできないという点において、アスペルガーの特徴のようなものとも言える。

しかし、そこからしばらくすると、父のアルコール依存症の度合いが目に見えるほど悪くなってきた。山男で元々足腰が非常に強かった父も、酒のせいかすっかり体力も衰えて肉が削げた顔をしていた。酒飲みの特徴で、酒ばかり飲んで、しっかりとご飯を食べないせいだった。それでも、僕のあげた杖を突いて、よちよち歩きで近くの酒屋に酒を買いに行くのだった。父にはお金を持たせないようにしようと、母親と僕はお金や財布、通帳などは足の悪い父が上がれない2階の部屋に置いておくようにしたが、それも焼石に水でしかない。どこからかお金を見つけ出して買いに行っていた。

酒屋に行って、うちの父親が来ても、酒を売らないでくれといったことを頼みもした。断酒会などにも、母親が連れていったみたいだが、断酒会とはそもそも酒をやめようと思った人がそれを継続するために心情を共有する場であり、そもそも酒をやめるつもりのない父のような人間にはあまり意味がなかった。何よりそういった対処療法でしかなく、根本的な治療が必要であることから、父を二人でなんとか説得し、試しにアルコール依存症者用の入院施設に2週間ほど入ってみたりもしてみたが、退院した次の日には普通に酒を飲んでいた。酒を止めるつもりのないアルコール依存症患者を治療することは不可能なのだ。

僕は世に出回る酒が憎らしくてしょうがなかった。美味しそうに生ビールを飲み干すCMなどを見てしまえば、酒をやめようと葛藤している依存症者でも、酒を飲んだ時の快楽が脳内にフラッシュバックを起こすという。麻薬は犯罪だから刑務所に入れられて強制的に遮断されることになろうが、酒は日本全国どこでも売っているし、依存症者に売ってはならないといった特段の制限もない。依存させるものについてあえて最低限の管理だけし、それを牛耳っているものが利を得ている日本の社会を憎んだ。

うちは酒に苦しめられたが、それがギャンブルやパチンコ、スマホゲームと言った分野で、依存症者とそれに苦しむ家族も無数に存在するのだろう。そして、それを提供することによって巨利を得る政府と企業という構図がある。依存するのはあくまで個人の問題であって、あれだけCMしたり安売りしても、提供する側にはなんの責任も落ち度もない、そんな顔をしている。

そんなことを繰り返すうちに、ある日、仕事中に母親から急に電話がかかってきた。
「お父さんが血を吐いた。洗面器にいっぱいになるほどの量で…」
母親は動転していた。長年のアルコールの過剰摂取で食道内に血栓ができており、それがある日破裂した。元来、体が丈夫だった父が今まで内科的な症状でここまで深刻な症状になったのはそれがはじめてだった。父は救急車でICUに運ばれ、緊急手術をした。医者には助からない可能性もあると言われた。幸い、手術は成功し、父の意識も戻った。だが、お酒をやめない限り、血栓が再びできて破裂する可能性がある。その時には、体力も相当に弱っているから助かる見込みはないかもしれない、ということだった。酒に対して、もう父の体が耐えられなくなってきている、カウントダウンが始まっていたのだ。

入院中も付き添っている間、早く家に帰りたい、酒を飲みたいとこんな状態でも酒飲みらしく駄々をこねる父の相手をしていた。母と交代で病院に泊まり込むため、僕らも疲れが重なり、疲弊していく。なぜこの人は酒を飲むのだろう。酒のことしか考えられない人間なんだろうか。元から父はこういう人間だったのだろうか。窓際社員でも我慢して定年までしっかり働いて、やっとこれから好きなことができるというのに。散々社会に自分をすり減らされた結果として、最終的に父には酒を飲むことしか残されたものはなかった、ということなのだろうか。父も最後は酒飲んで体を壊して死ぬのが望みだとでもいうのだろうか、父の人生とは?
父に対する色々な混濁した感情がない混ぜとなって、僕の心は重く、どこまでも深く哀しくてしょうがなかった。

一度、僕と父だけで家にいる時、父が僕の目を盗んで酒を買いに行こうとしているところを止めようとして、僕と父は揉み合いになった。当然、僕の方が力が強いから、どうやっても父を行かせることはない。ただ、僕はただ酒のことし頭のない非力な父親の体をそうやって押し止めている自分と父親の存在が悲しくてしょうがなかった。
「なんで、酒飲ませてくれんのよ」
「ダメやって。つか、なんで酒飲まないけんのよ。」
僕と揉み合いつつ、父は理屈の通じない駄々っ子のようなことを言う。そして力ではもうどうしようもないことを悟ったのか、急にしゅんと座り込んで大人しくなった。その目はやはり、どこまでも空虚でうつろな人形のようだった。僕の姿を見てはない、この人は。僕はこの人の息子なのに。砂漠で風蝕された古い建物のように、心も体も父はあらゆるものがひどく傷んでいるのだ。
「いい加減にしろよ」
僕はもう我慢がならなかった。怒りで感情がコントロールできなくなって、どうしようもなく自己破壊的な気持ちになった。なぜ、ここまでならなければいけなかったのか。いろんなものと抗っていた。自分と父と、父のその向こうにあるものに。しかし、怒りは自らも害する毒だった。それでも構わなかった。

「死ねよ、なあ、死ね」
「酒なんか飲むやつは死んじまえ、なあ死んでくれよ」

父は顔を上げない。父に言い放った呪詛の言葉は、言った途端に自分の胸にも同様に突き刺さる。己の口から虚空に放たてしまった言葉はもう戻らない。これまで父の無遠慮さや無神経さに結果的に傷つくことはあったとはいえ、父は積極的に自分を傷つけたことはなかった。しかし、今、自分ははじめて父に刃を突き立ててしまったような気になった。カラマーゾフの3兄弟のうちの次男イワンのように、直接的に自分が父ヒョードルに手を下したわけではないにせよ、文字通りの父殺しの原罪を負った気持ちになった。父は何も言わず、相変わらずうつろな目をしてすごすごと自室に帰った。

そして、この怒りの言葉が文字通りの毒となってじわじわ自分の心を蝕んでいた。たびたび夢に見るばかりでもなく、普段仕事をしたり、妻と過ごしたり、父とは関係ない時間を過ごしているときでさえも、あらゆる時にこの父との場面がフラッシュバックするようになった。映画やドラマで似たような場面に出くわした時も同様だ。
「死ね、死んじまえ」
僕はずっと、憤怒の表情で空虚な器だけになった父を、象徴的に罵り傷つけ続けていルのだった。そして、自らの毒によって自分自身も苦しめ続けた。僕は父の死を願って本人に死ねと告げる、なんてひどい息子だろう、父もなりたくてああなったわけじゃないのに。酒を飲みたく飲んでいるわけじゃないんだ、酒を飲まざるを得ないところまで追い込まれたのだろう、あらゆるものに。それなのに、息子である僕は父に死ねという。酒を飲むことが望みであるならば、飲ましてやればいいじゃないか、それが家族や息子の務めだろう、そうだろうか、そうなのだろうか。

僕は依存症者家族の参加する自助団体のミーティングにも参加した。アルコール依存症は、酒を飲み依存する本人と酒を提供する側であるその家族において生じる病気なのだった。家族の病気であるということを告げられた時、自分の家族という場に横たわる病理について、なんとも業の深さを感じざるを得なかった。

アルコール依存症者である本人が注目されがちだが、その本人と正常な家族の関係を構築できないことによって家族の心にも歪みが生まれ蝕まれていく。そのように、自分と似たような境遇を持つ人もいっぱいいるのだということも知った。そのグループのミーティングはただ参加者が自らの境遇や体験を共有するだけ。解決方法を提示するようなものではない。それでも、必ずこういった場が何かの変化を促すきっかけになるという。そのミーティングを行っていた教会にはこのような祈りの言葉がかけられていた。

神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

血栓のこともあり、父親はそれから入退院を繰り返すようになったが、のらりくらりと酒を飲んでは、余生を生き永らえていた。どんどんと体力も無くなっていったせいか、自分で外に酒を買いに行く力も無くなっていた。酒だけは飲むが、まともにご飯も食べていない父の体は果たしてどうやって動いているのだろう。間違いなく体はどんどん死に向かっていっているのに、しかし、どこか父は穏やかな顔になっていたような気がした。

そんなある日、母親から電話がかかってきた。(僕は毎回、母親からの電話が怖くてしょうがなかったが、そこはどうしようもない。)
父親が血を吐いて倒れて、意識も無いという。再び救急車で運ばれていった。僕が駆けつけた時には、少し意識が戻ったような感じがして、ううーと唸っていた。僕が帰ってきたを父に告げると少し反応したような気がした。担当医は僕らに、今回は手術するようなことはない、何かあったら呼んでくださいと端的に告げた。それはすなわち、父にはもう施しうる術がないということを表していた。

父は酸素マスクで苦しそうに息をし、唸ることも無くなった。やがて小便も出なくなり、父の背中を拭こうとしたところ、壊死したように皮膚がただれていた。父はひたすらか弱い呼吸を繰り返すだけでしかなく、心臓の鼓動も不確かになっていく。どうしようもないくらい、確実に父の体は死に向かっていた。

そんな中においてもやはり、静かに父の死を願っている自分がいた。もうこれ以上、父の面倒を見るのは勘弁だ。これで終わりにしよう。このまま、安らかに逝って欲しい。ひどい息子だと言われても厭わない、アルコール依存症者の家族としては、依存症者との関係の終わりを迎えるにあたって、本当にこれ以外の率直で正直な感情なぞはなかったはずだ。

そして、同時に今でも「死ね」と父親に告げる自分とも深く葛藤していた。その毒は、今でも自分の身中にずっと残り続けているのだ。そうだ、自分は本心から父を傷つけるつもりはなかった。父の心根は自分は知っている。ただ、自分と父とをめぐるあらゆる象徴的なものすべてに耐えようのない怒りを覚えていて、結果的にそれが父親に対して死ねという言葉になってしまったに過ぎない。それは文字通り、父と僕の間の業のなせるものだった。

昔、歩くのが好きだった父親は、僕の手を引いてよくいろんなところを連れまわされた。僕は父親から自分の好きなウルトラマンの人形でも買ってくれるかもしれないと思ってついて行くんだが、結果としてウルトラマンの人形などは買ってもらえず、何か全然別のまったく自分の喜ばないものを代わりにもらった覚えがある。僕はこれじゃない、と言って泣いて、それを見た父は心底困った顔をしていた。父は決して僕を傷つけたり騙そうとしているのではなくて、純粋に僕の心がわからないだけなのだった。

呼吸が段々と弱まり、死に向かう父の傍で、ひとり最後に僕は父に許しを乞うた。自分にはそうするしかなかった。
「あの時は、死ねなんて言ってまって、申し訳なかった。ごめん、許してくれ、この通りだ」
僕は静かに語り、父に頭を下げる。語りかけても、当然父の意識などはないし、父の耳に入っているかどうかもわからない。しかし、そう伝えた僕はあらゆるものがバターのように溶けていったような気分になった。許しは相手のためでもない、紛れもなく自分のためであった。

そして、父は死んだ。

自分は喪主として、淡々と葬式を済ませた。


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