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008_Steve Reich「Early Works」

春、桜の季節もあっという間に過ぎて、日が長くなった。夕刻になって、少し日が落ちてきたくらいに、心地よいピアノのメロディが隣の部屋から響いてくる。いつものように、姉がピアノを弾いているのだろう。姉は時にああやって一心不乱にピアノを弾くことがある。子供の頃から熱心にピアノを習ったきたせいか、自分の心を落ち着かせる目的で弾くんだそうだ。でも、最近はあまりなかった。久しぶりの音色だ。

そうか、今日の音色はこんな感じか。だいたいその日のピアノの曲調とかで、姉のコンディションとかがわかる気がする。似たような曲を弾いていても、微妙に緩急の付け方やスピードで変化がある。自分も子供の頃から、姉の横で一番彼女のピアノを聴いてきたのだから、そこらへんの微妙な匙加減もわかるのだ。

こういう曲の展開をするときは、機嫌がいい時ということかな。不思議だ。言ってしまえば、僕はピアノで彼女の感情を測っているのだ。姉と僕はそこまで仲良しこよしでもなければ、いつもコミュニケーションやスキンシップを取り合うような間柄ではない。お互い思春期を挟み、どちらかと言えば、若干他人行儀な側面がある。というか、なんとなくだが、父母含めうちの家族自体がそこまでいかにも「家族」というような、ぬめっとしたウェットな質感を持っていないせいなんだとも言える。皆が皆、自分の感情の整理の仕方を知っているんだ。

姉はあれだけ幼少時から真剣にピアノを打ち込みはしたものの、音大には行かなかった。「だって音大なんか行っても、お金稼げないじゃない。」あっけらかんとそう答えた。3年前に国立大学を卒業し、都内のITの中堅企業に就職した今でも、この埼玉の自宅から通勤している。

僕はこれから就活を控えた大学3年生だ。姉からはいつも「頼むから、ニートにならないようにね。弟がニートとかマジ恥ずかしいから」などと、冗談半分に脅かされている。「はいはい」何の気無しに僕も軽く応じるのだが、もちろんこれからの就活に全く不安を抱えていないわけではない。

「心をニュートラルの位置に持ってこなきゃいけないの。それをやるのに、私はピアノが一番いいってこと。やっぱり昔からずっと弾いているからさ。落ち着くんだよね、鍵盤触っていると。」

「アンタもそうでしょ?ほら、なんか一人でずっと壁打ちやってるんじゃない。あれって別に楽しくてやっている訳じゃないんでしょ。」

「ああ、まあ確かにね。」

ときに、なんでピアノを弾いてるのか、と言う話題になり、彼女はさらっとこう答えた。何ということはない。僕も、休みの日、暇を見つけては近くの川辺の空き地のスペースでテニスの壁打ちをしたりしている。そこに特段の理由はない。テニスは中学から続けているが、別に格別上手いわけでもない。息を吸うのと同じくらいに、彼女はピアノを弾く。僕もひたすら壁打ちを続けている。

彼女の言う通り、僕もこの壁打ちを趣味として楽しみを見出しているわけではないようだ。「作業」といった方が正しい気がする。「作業」は何か考えてやるものではない。生きていればいろんな煩わしいことに心を乱される。ゼミの宿題、バイトのシフト、友達との旅行の計画、彼女との今後の方向性、明日の天気、そしてこれからの就職活動、そこから一歩踏み込んだ自分の「将来」とやら。

「将来」。これが自分にとって、今一番心のざわつくワードだ。そりゃ、将来に不安のない奴なんていないよな、大金持ちの子供でもない限りは。好きなことやって、自由に生きていたい、というのはただの都合のいい願望でしかない。じゃあ自分の好きなことはなんだ、ってなった時に僕は、ひたすらこのボールの壁打ちを続けている。

ギャンブルとかスマホゲームする奴よりかは、よっぽど健康的だろう。でも生産的ではないし、意味はないことは自分でよくわかっている。そして、姉もひたすらにピアノを弾き続けている。僕も姉も、この俗世間から一旦切り離されて、それぞれの場所で作業をして、心を安らかにしたいのだろうか。

姉は今、結婚を考えている彼氏というものがいるらしい。社会人2年目くらいで知り合った別の業界の人。「異業種交流会」なる、立派なお題目の付いた、まあただの合コンで出会ったのだ。ここ1年くらいはおめかししては、いそいそとデートに出かけていくのを見た。玄関でヒールを履く姉の背中を、僕はリビングから見送っていたのだが、ここ最近、そういった様子が見られない。

「最近、忙しそうだね」なんとなしに、僕が声をかける。

「うん、まあ。でも、今は仕事も面白いの」そう、なんとなしにボソッと姉はこぼしていた。

姉のピアノはいろいろな音色を奏で、家中にメロディが跳ね回る。僕の壁打ちも、いろいろな方向にボールが跳ね返っていく。ただ、二人の心はピアノやボールのように、思うがままに跳躍してはいかない。ただただ、静かでありたいだけなのだ。世間の雑音に振り回されないように、姉は鍵盤を触り続け、僕はラケットを振り続ける。

不意に、ピアノの音色が止まった。あれ?弾き出したら、1時間は軽く弾いているのにな、今日はどうしたんだろう。しばらくして、姉が僕の部屋にやってきた。

「今夜、お父さんもお母さんも、親戚の法事行っちゃってるんだよね。」「そうだよ。」「ご飯めんどくさいから、どっか食べに行かない?」いつもこういうときはお互い適当に食べているのに、姉が僕をメシに誘うのなんてなんか珍しい。

「いいよ。どこ行く?」僕はいそいそと準備した。と言っても髪を整えるのが面倒なのでサクッと帽子を被り、財布とケータイをズボンのポケットに突っ込んだだけだが。姉はほぼノーメイクだ。

「あそこ行こ、春日。」「うん。」春日というのは、チャーハンの美味しい子供の頃から通っている近くの町中華だ。なんの気兼ねもなく行ける場所。歩いて5分。行きがてらは、親が何時に帰ってくるか、とか他愛のない話をした。

「別れた。彼氏と。」姉は、おかわりした生ビールを口に含んだ後に、いつものようにあっけらかんと、そう呟いた。

「え、マジ?」僕はなるべく感情を交えないようにそう答えた。「そうなんだ、まあ良かったんじゃない。」餃子を口に放り込んで、さもなんでもなさそうに、僕はそう続けた。(本当は結構、動揺しているのだが。)

「うん、まあね。最近会えてなかったしね。結構、お互い仕事あって忙しかったし。」姉はまたジョッキを掲げて、生ビールを口に流し込む。ゴクゴクと心地の良い音とともに、姉の喉が上下する。首元が美しい。

うん、そうか、あのピアノの音色は吹っ切れたってことだったわけね。それはそれで安心した僕がいた。





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