*16 新境地
「今週末もまたウイスキーを飲むのか」と、共にプレッツェルの成形をしていたアンドレが尋ねて来たのは先週の土曜日の事であった。私は多分飲むだろうと答え、それから少し酒の話をした。彼は専らビールを好み、ケーゲルンの集まりがある時などは十本の瓶くらいは空にするんだと、純正なバイエルン人の血を惜しげも無く見せて来た。またこの辺りの地ビールでナペカというビールをよく飲むらしく、序に勧めて貰ったのでその日の仕事帰りにスーパーへ寄ってそんな名前のビールを探していると、私が頭の中に書き留めておいたNapecaという商標は間違いで、Naabeckerという名前のビールだと判明した。私は一人マスクの下で自嘲しながらNaabeckerのビールを一本手提げ袋に入れた。
今週の月曜日に出勤すると私はアンドレに、勧められたビールを飲んだ事を伝えた。彼は自然の流れで、それで、と私の感想を促して来たので、私もまた自然の流れで美味しかったと答えた。それに続いて「...hast du gefunden?」と聞こえたので、頭の疑問詞こそ分からなかったが、まあ恐らく何処で見付けたんだという質問だと思った私は、私が立ち寄ったスーパーの名前を答えて、それでまた各々作業に戻った。
例によって生地とバターを折り込んでいた私は、手や足ほど忙しくない頭の中で先週土曜日の彼との会話を回想してみた。その時彼が、Naabeckerはこの辺りなら何処でも見付かると言う様な事を言っていたのを思い出して、それから今度はつい先投げ掛けられたばかりの疑問詞不明の質問を同時に思い起こしてみた。するとひょっとして私が脳内で疑問詞を補った「Wo hast du gefunden?」という場所を探る様な文章は間違いで、「Wie hast du gefunden?」という感想を求める文章が正しい形であった様に思えて来た。今こうしてもしかしがった所で、今更彼の背中を突っついて先の質問はこういう意味でしたか、と無邪気に聞けるほど子供染みれなかった私は、そんな心配や恥ずかしさを大人しくバターと生地の間に挟み込んで見えなくした。
仕事も終盤に差しかかる朝の九時頃、私はせっせとペストリー類の成形をしていた。夜中の内に折り込んでおいた赤恥は御陰でその頃にはすっかり忘れられたまま、気付かぬ間にパン・オ・ショコラになっていた。私が一人作業をしていると、ルーカスがケーキを乗せた皿を私に差し出して来た。少々崩れたような見た目をしていた事から製菓の方で出た余りだろうと思った。私は勧められるがままにその内から一つ手に取ると、傍に居たアンドレがそれはキャロットケーキだと教えてくれた。私はドイツに来てからキャロットケーキを見掛ける事はあっても、まだ食べた事が無かった。パウンドケーキの類であるそれは一口齧っただけで腹が膨れる程食べ応えがあった。何の気無しに手に取って口を付けたものの、食べきって仕事に戻るまで随分と時間を要した。キャロットと聞いていても、人参らしさは口の中の何処にも見当たらず、こう評してしまうとキャロットケーキの確固たるアイデンティティを傷付けかねないが、青臭さも橙臭さも決してない基本のパウンドケーキと殆ど変わらずに美味しく食べられた。
私が口を一杯にしている内にルーカスが、これはシルビアから君へのプレゼントだ。君は飢えに瀕しているように痩せているから彼女が心配している、と私の体型を揶揄する様な冗句を言って来た。私はその冗談を理解した上で何とか返したかったが、口の中がキャロットケーキで埋まっていた為に、それは助かる、とその冗談に乗り込まんとする一歩を踏み出すのが精一杯で、そうこうしている内にルーカスはさっさと自分の作業に戻って行ってしまった。こうした不完全燃焼は日常茶飯事である。
また木曜日には普段より始業が早かった私がその分だけ早く着替えを済まし、工房の皆に挨拶をしながら帰ろうとしているその際になってシルビアが擦れ違い様に、あら、折角今君の為にシーターを空けたのにもう帰っちゃうなんてどういう積かしら、と普段私と彼女の間で成されるシーターの使用順云々の遣り取りを引き合いに出した冗談を言って来た。今でこそ私は解ったように冗談を文字に書き上げているが、皆への挨拶をする頭でいた私の耳と脳は、冗談を言われた瞬間には彼女の早口を捉える事が出来ず、それでも冗談だと分かった上で聞き直すのは冗談礼儀に反するものとしてへらへらと笑うばかりで気の利いた事の一つも返せずに済ましてしまった。こういった不完全燃焼も日常茶飯事である。
私は返り際の思わぬ一撃に、血の代わりに悔しさを心に滲ませて何とも遣る瀬無い心地のままとぼとぼと出口へ向かった。差し詰め不完全燃焼続きで一酸化炭素中毒にでも陥ったのだろう。裏口から職場を出ようとした私は、しかし後ろからじゃあねと言って来たトルコの血を持つイザベラの声に何とか膝を崩さずに済んだ。ちょうど前日に大型食器洗浄機の前でその機械の動きの止まるのを待っていた彼女とバイエルン方言の難しさについて嘆き合った所だった私は、何とも言えない安心感をそこに見出した後、今週はもう顔を合わさない彼女に良い週末をと言って職場を後にした。
一度一酸化炭素が体内に入ると忽ち弱気になる性質の私は、これまでと然程変わらぬ振る舞いで工房にあったにもかかわらず、今週はやけに仕事中の沈黙が多かったように思えてならなかった。人と言葉を交わした私も当然いながら、沈まりただ黙々と仕事をしていた寡黙で面白くない男の背中ばかりが記憶に浮かぶのである。いや、事実として私は昔から仕事中の口数は極めて少ない方ではあるが、どうも今週に限っては妙にその沈黙が鼓膜に張り付いて煩かった。私語と仕事は相まみえぬものであるから私は寡黙に集中するんだ、と詰張主張が出来ればどれほど楽だろうか。それが出来ずに蛆々としている心の根底には、冗談を冗談で返せない鬱積が蠢いているのであろう。まあしかし一朝一夕にどうこう出来る話ではないから、この週末に窓を開けて換気がてら深呼吸をして大量の酸素を体に吸い込んでやればせめて中毒症状は取り除けるだろう。
そう言えば今週は火曜日に少し体調を崩していたんだと思い出した。月曜日に幼馴染と久しぶりに画面越しに乾杯をした事による単なる二日酔いであるから心配に及ばないのであるが、異様に寒さが沁みた火曜の帰り道に本屋に寄ってレシピ本を買って帰った。菓子やケーキを中心としたレシピ本である。以前バタークリームを食べたくなったからと言ってケーキを作った時に、装飾を施す為のアイデアを持ち合わせていない事に気付いた私はケーキについても学びたくなった。ドイツのケーキにはフランスや日本のケーキの様な華はまるで無いが、その代わりに家庭的な素朴さがある。パンと同じくケーキの断面にも歴史の地層が私には見えるのであるが、それが誇りに見えるか埃に見えるかは案外人によってはっきり分かれるらしかった。斯くして私はその肉厚のレシピ本をぺらぺらと捲っていくうちに新境地へ足を踏み入れている様で沸々とした心持になっていた。
具合の悪かった火曜日は早いうちにもう体を横にして布団に包まった。病人の様な汗が出て、それで仕事へ出掛ける夜中までぐっすり眠った。目が覚めると体は頗る健康であった。体が健康だと心も健康である。機嫌の良かった私はシルビアやアンドレに製菓のレシピ本を買った話をした。製菓職人であるシルビアには前日からケーキの話やその為の本を買うんだという話をしていたから、何だ彼だと話し込んだ。こうしてみると黙ってばかりではなさそうで安心した。安心した私は週末を迎えてレシピ本を開いてはまた景気良くずんずんと冒険に出掛け、見知らぬ土地の甘い空気を来週に備えて腹一杯に吸い込んだ。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。