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*26 転がる石には苔が生えぬ

 何処となく浮かない気分の週末を切り抜けた後の月曜日の事であった。朝八時から始まった授業を態々(わざわざ)共同キッチンのテーブルに立てたパソコンを覗き込んで受けていると手元のスマートフォンに着信があった。知らない番号である。私の頭の中には外国人局だとか年金機構だとかの小難しい電話かもしれないという予感が働いて、あと五分で午前の休憩に入ろうかという授業を画面に流したまま電話に応えた。電話の相手は、とあるパン屋であった。

 先週の内に一件パン屋から面接への招待をして貰った所であるが、それとはまた別のオーガニックのパン屋であった。実を言うと先週の内に六軒のあらゆるパン屋に願書だとか履歴書を送りつけていたのである。一年半前にも転職を考えて同じように幾つかのパン屋に履歴書を送った事があったのだが、その時には一件足りと返答が無かったので、今度はそれでは困るからと入念に少しでも惹かれるパン屋があれば所在地など構わず早速履歴書を送った。それだから中には私が今住む場所から電車で五時間も走らなければならない所もある。どのみち十月には引越しを余儀なくされる身であるからさして問題では無いのであるが、その代わりオーガニックや全粒粉を専門に扱うパン屋であるとか薪窯を使うパン屋であるとか、私がまだ何か新しい経験を積めそうなパン屋を厳選した。


 月曜日受け取ったのはその内二軒目となるオーガニックのパン屋からの電話であった。この店に関してはインターネットでも求人をしていなかったのであるが、それを承知の上で駄目元で願書を送っておいたような、無理だろうという前提がありながら私の中では第一候補に位置付けているパン屋であった。それだから電話口に出て面接へ前向きな言葉を投げられた時は驚いた。しかしこの電話は序章に過ぎず、それから立て続けに各パン屋から連絡を受け、最終的には六軒全てのパン屋から前向きな言葉を戴いたわけである。事前に聞いていた話や私の過去の経験がまるで嘘のように思われた。これほどの反応が返って来るとは想定外だったので、今度はその中から一つを選り取ってその他を断る練習が必要になるなとその時咄嗟に思いを巡らせたのだが、そんな事よりこれで試験が終わった後の七月末から八月の頭に掛けて怒涛の様に面接の日取りが決まった。所謂(いわゆる)嬉しい誤算である。


 試験を終え迎える七月最後の週には、これまでも何かある度に訪れていたレーゲンスブルク(※1)という隣町に三回面接に訪れる。現段階では本命とも言える二軒のオーガニックのパン屋があるのもこの街である。それから翌週には今住む町から電車で五時間を要する所にあるヴュルツブルク(※2)という街で一軒、その後連続してアウグスブルク(※3)という街でも二軒面接を受けるのであるが、アウグスブルクへ行くにも今の下宿から電車で三時間と掛かる。この三つの面接が幸い連日になるのでいっそヴュルツブルクからそのままアウグスブルクへ走って、夏の小旅行でも兼ねようかと考えている。相変わらず貧乏学生であるからバカンスの空気を満足に吸うわけにはいくまいが、本来の目的が面接なのであるからおまけと考えれば十分である。私は旅行しても太陽が照ってさえいれば満足出来てしまう程、金の掛からない、その代わりつまらない男であるという自負があるから平気である。

 同居人が言うには、面接に招待をされるという事はほとんど採用されたも同然だとの事である。私の履歴書や志願文書の何処にそんな魔力が備わっていたんだかてんで見当もつかないが、何処で働きたいかは別として、それだけの色々なパン屋へ行って話を聞けるだけでも貴重な経験になるに違いない。何処へ行っても新しく学べる事があるに違いないのでそういう意味では気を楽に持っていて良さそうである。

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 週の頭にそんな事があったものだから、これは吉兆で今週は嘸(さぞ)かし良い事が起こるのだろうと呑気な事を考えていたのであるが、それ以降これと言って目立った吉事は無く、ただ淡々とパソコンの前に座って授業を受けていた。気付けば試験までもう一週間と無いのである。

 その授業であるが、製パン科の授業の時と違ってどうも手応えが得難いままここまで来てしまっている。パンの話は想像がし易いとか過去に少しなぞっているとかそう言った要因があって、私は知識として吸収する際にもその感触を感じつつであったのが、今度の教科はどうもそういった確かな感触に欠けるように思う。

 マイスターを志す者であるなら、青少年労働法だとか職業訓練規定であるとかを基盤に見習い生を教育できなければならい。そう言った目的の為に授業が進められていく。法律が難しいだとか心得が難しいだとかそういった障害は感じないのであるが、何となく知識の吸収をしようとする際にこれまで通りの手応えを感じられずに、つるつると表面を滑って行ってしまうような感覚なのである。学びきれていないというよりも手応えがないというのが正しそうなのであるが、そうは言っても怠けているという訳ではなく後一週間とない時間で最後の追い上げをしていこうと考えている所である。それから八月末から始まる経営学科もこのように手応えのするするとしたものであるかもしれないという不必要な懸念が脳内を過ってみたりもするので、それについてはいつもの悪い癖であるからまあいっその事気の済むまで怯えてみたら良かろうと思っている。


 ところで私は月曜日にスマートフォンへの着信を確認した際、外国人局などを頭に思い浮かべていたのであるが、これはつい先日その外国人局から送られてきた通達に「移民法の施行」について私を招集する旨の内容が載っており、ところが指定された訪問日が来週の月曜日の午前中で、その時間では授業があるから都合が悪いので変更を請おうという目的が頭の中にぷかぷかと浮かんでいた事が原因である。


 パン屋との電話を終えると授業はすでに休憩に移っていたので、その足で私は外国人局に電話をした。女の職員が出た。私は指定された訪問日では都合が悪いから変えてくれというのと、訪問の際に持参の必要な物はあるかという二点を質問した。女は一度、それでは翌週にしましょう、と言ったので、それなら試験も終わっているから大丈夫だと私も応じたのであるが、少しすると女は私に少し待つように言ったかと思うと、そのまま保留音の裏側に隠れて行ってしまった。スマートフォンを耳の近くでふらふらとさせながら二三分待っていると、女は再度顔を覗かせるなり、訪問日の変更は出来ませんと言ってきた。

 私がそれでは困ると言うと、あなたがドイツに残れるかどうかの大事な話だから、などと言う恐ろしい脅し文句を振り翳して来たので、私はそれ以上の抵抗力を持てずにいたどころか、膝を崩しかねない程の重力を一身に感じた。続けて彼女は、あなたが授業に参加できない時間、外国人局に訪れていたという証明書を渡すから安心してと言ってきたので、結局訪問は来週の月曜日に据え置く形となった。

 しかし恐ろしい言葉であった。どうも役所だとか何某機構から受け取る肩肘張らずには読めないような通達には心臓を小さくしてしまう。その上電話口であれほど露骨な脅し文句を聞いてしまっては意思に反してあれこれ考えざるを得ない頭である。まあいくら記憶を辿っても、母国への強制送還をされかねないような悪事を働いた覚えも無ければ、滞在許可証も二〇二三年までの分を持っているので難しい話を聞かされる事はあっても最悪の結末を聞かされる事は無いだろうと踏んでいる。考え過ぎるなと言い聞かせてみてもどうせ聞く耳を持たないので、これも満足するまで不安がっていたら良いだろう。放任主義が世の風潮には似合う筈である。


 分かりやすい希望と不安を手にした一週間であったが、数えてみると希望の方が不安よりも何倍と多かったので週の後半には不安は随分と薄まっていた。そんなものである。そんなものであるにも拘らず直面した際には腹を括って覚悟を決める。そうやって社会を生きるのであるから疲弊して当然である。堪らなくなって社会を干渉主義と揶揄したところで尚更私の不適合さを助長させてしまいそうであるから、下らない弱音はこれくらいにしておく事にする。


(※1)レーゲンスブルク:南ドイツ・バイエルン州に位置する街。下宿から電車で三十分。
(※2)ヴュルツブルク:南ドイツ・バイエルン州四番目に大きい街。
(※3)アウグスブルク:南ドイツ・バイエルン州三番目に大きい街。

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