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ドイツパン修行録~マイスター学校編~

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製パン経験の全く無かった元宮大工の男がパンの本場ドイツに渡り、国家資格である製パンマイスターを目指す物語のマイスター学校編。 田舎町に移り住み、通い始めたマイスター学校。真っ新な…
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#海外生活

*29 マイスターブリーフ

 今週は片時も休まず心をそわそわとさせながら過ごした。厳密に言えば週の頭頃はまだそれほど落ち着かないでも無かった。それが週も後半に差し掛かるにつれてどんどんと大きくなっていった。理由は他でもない。マイスターブリーフの授与式が金曜日に予定されていたからである。  まず始めに正直を申し上げておきたい。マイスターブリーフ授与式の招待状が手元に届いた時の私は、出席しないという選択も厭わないとする心持であった。大変光栄な式典である事は私にも十二分に理解出来ていたのだが、如何せん人の

*2 パン工房の外で

 コロナウイルスの勢いが留まるところを知らない。週中にいよいよ緊急事態宣言が出されるというニュースが流れたかと思えば、その前日には過去最多の六〇〇〇人もの新規感染者が日本全国で見られたというニュースも入ってきた。  水際対策の強化や二月に予定されているワクチン接種などの尽力を伺える朗報も見られるが、自粛要請に応じない飲食店は店名を公表するというイジメ紛いの手段を恥ずかしげもなく発表してみたり、未だにオリンピック開催へ目を爛々とさせている官僚がいたりと、どうしても拭えない不安と

*3 酸いも甘いも

 すっかり雪に覆われたミュンヘンになおこれでもかと吹き荒れる細かい吹雪の中を、人通りの少なそうな真っさらな道に足跡をつけながら私は保険会社を目指して突き進んでいた。雪を踏んだ時のくっくっと鳴る音に地元の雪国を駆けた幼少期を思い出し、まるで真逆の状況に生きる現在と照らし合わせ何故か親のような心持ちになった。  予約をしていなければ入れない保険会社の入り口には鍵が掛けられていた。ガラス扉にベタベタと貼られた注意書きに一通り目を通した後、呼び鈴のボタンを押した。ドイツに来たばかり

*5 おわりはじまり

 ドイツに来てから五年間世話になったパン屋をとうとう辞めた。気付けば前職の宮大工であった四年を越え、暦で見てももう肩書はパン職人たるべきはずである。振り返ろうとすると想像以上に文字数が嵩みそうなので、今回ばかりは覚悟を持って読み進めていただきたい。  去年の春頃に企てた時点ではその年の七月まででとっくに辞めているはずだったのだが、言わずもがなその計画を変更せざるを得ない状況を迎え、そうして年の明けたこの一月末に照準を合わせて来た。一日一日指折り数えながら遥か先の事のように思

*33 井の中の蛙大海を夢に見る

 誕生日を境に世界ががらりと変わる事などある筈も無いとは解っていながら、それでいて何かに期待している自分がいたのであるが、これは何も胡坐(あぐら)を掻いてただじっと待っていれば今に心地の良い風が吹くんだからそれまで退嬰(たいえい)を謳歌しようじゃないかという他力本願な態度を肯(うべな)いたいわけではなく、私が漕ぎ出した船の上に私が立てた帆を孕ませるような追い風が吹くのを期待しているのに他ならなかった。喩え長閑(のどか)な水面を撫でる風さえ吹かなかったとしても、だからと言って甲

*32 ギフト

 ドイツ電鉄のストライキが又あると言うから、月曜日は夜中の十二時に目を覚まして以降、一時間置きに目を覚ましては電車の運行状況を確認する為に立ち上がってパソコンの前へ行き、それで又ベッドに潜って眠るというのを三時まで繰り返した。スマートフォンがあれば立ち上がる手間も省けたのにとは思ったが、かと言ってスマートフォンの無い生活にもすっかり慣れ始めていた。電車はと言うとインターネットサイトに、随時確認して下さいと言う注意書きは表示されていたけれども、運休ですとは断言されていないまま遂

*31 愛、ときどき、哀

 朝の六時前に出勤すると更衣室に直行し着替えを済ませ、そこから工房へ行くにはまず製菓の作業場を通過するのでそこでアンナと挨拶がてら少々話をする。今は専ら部屋探しの話が中心になるが、そう言えば今週も半ばに一人パイ生地を折り込んでいる私の元に近付いて来たかと思えば、先週に彼女が見付けてくれた二件の部屋の内、片方がどうも彼女の知人の管轄にあったようで、近い内に合同見学の予定があるから早めに連絡してみたらと助言をくれた。私は助言通りにその日中に連絡を入れ、翌日には内見に伺った。その結

*30 プログレス/エンブレイス

 先週から愈々(いよいよ)働き始めたとは云え、そう簡単に新しい仕事場や生活に慣れるものでもない。土日を家で休みさて明日からまた仕事だと思うや否や、忽ち又異国の地へ向かう前の不安に襲われた。たった一週間働いたくらいで既に我が物顔で過ごせると思う事自体が烏滸(おこ)がましいのであるが、兎に角私は自分の中に渦を作る陰気を払拭し景気を付ける為に月曜の朝には白飯と納豆と味噌汁を食う事にした。何の派手さも無い並びのようであるが事ドイツにおいては豪勢な食事である。納豆なんかは、先週の金曜日

*29 嵐の後には凪が来る

 さて今日から働かんとしていたその日、外は早朝四時から雨がしとしとと降っていた。旅行や何か大事な時には必ずと言っていい程雨を降らせてきた私にとって、これは至極当然かつ吉兆の如き出来事に思われた。かつて初めて日本へ一時帰国しようとしていた日、朝からあまりにも天気が良かったので嫌な予感がするなと思っていたら、空港で財布を置き忘れ飛行機を逃すという惨事があった。それを思えば安心する為の材料にもなりうる。何せ旅行を楽しみにしていたあまりスペインに雹を降らせる程の雨男である、きっとこれ

*28 チャリオット

 先週の内に山ほど応募した求人の内で有難い事に唯一面接の機会を設けてくれたドイツ郵便を目指して、この街に住んで五ヶ月が経とうとするもののまだ一度も通る機会を持たなかった道を歩いていた。私が急遽仕事を探さなければならなくなった先週の月曜日からちょうど一週間が経ち、また残された時間も一週間であった。  面接の機会が貰えたとは言え、郵便局を目指す私は決して安心感など持ち得ないどころか、その郵便配達の職務内容が果たして私がドイツに残る為に課せられた条件を満たしているのかどうかという