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ゲンバノミライ(仮)第44話 空調設備の岩井さん

美しい空気は美しい配管から流れていく。名言とかではない。本当にそうだと思っている。

岩井美咲は、空調設備工事会社の技術者として、多くの建築物などを手掛けてきた。

空気は、温度や湿度、清浄度などいろいろな要素で管理されている。浄化して適切な温度に調整した空気が部屋に届き、部屋の中の空気を吸い込むことで、コンクリートなどで覆われた室内が快適な状態に保つのだ。そのために、天井裏や屋上、壁の裏側などにダクトが張り巡らされている。

岩井は、手掛けた現場ですべてが仕上がった時に、最後にもう一度、配管たちを見渡す。
真っ直ぐに通ったダクトのすっきりとしたライン。きゅっと曲がったエルボ。ダクト径がシュッと狭まっていくシャープな感じ。曲がりくねっているフレキシブルダクトの艶めかしい姿。この中を、快適な空間を維持するための空気が通り抜けていく。

店舗でむき出しにしているケースはあるものの、一般利用者の目に付かないよう隠れていることが一般的だ。目立たないから悔しいとなどは思ったことがない。こんな美しい姿を見られないなんて一般の人は可哀想。そんな気持ちの方が大きい。

今回は、あの災害で甚大な被害を受けた海辺の街での復興工事だ。復興住宅に続いて、行政施設や体育館、商業施設、住宅などが入る複合施設で施工を続けている。

「今回の案件は厳しいですね」
部下の古賀翼が話し掛けてきた。
「さすがにこのタイミングで、これだけの設計変更となるとなかなか大変よね。でも、手が付けられる段階でシステムを入れることになって良かったわ。復興の基盤になる施設だからこそ、最新の安全と安心をお渡ししたいよね」

岩井たちの会社は、建築の本体部分、いわゆる躯体工事が終わったところから、空調機器を据え付けて、空気を入れ換えるダクトで各部屋などと結ぶ。あまり望ましいことではないが、工事では突発的な事態が発生して作業が後ろへとずれこみがちだ。躯体工事でトラブルがあれば、設備の作業は始まるタイミングが遅れる。そうしたしわ寄せで、設備工事の工期がタイトになってしまうことが、この業界では長年の懸案事項だ。

抜本的に改善しようとDX(デジタルトランスフォーメーション)が取り入れられている。今回の工事は、この街の復興を一手に担うコーポレーティッド・ジョイントベンチャー(CJV)が、デジタルツインを本格的に導入している。施工の前に3Dデータ上で実際の建物を造り上げ、準備不足や手戻りが生じないよう事前に施工計画や作業手順を詰めていく取り組みだ。3Dデータは、完成後の維持管理にも利用される。そのおかげで、今回の現場は予定通りに進んでいた。

だが、結果的に大きな変更に見舞われた。感染症の蔓延が原因だ。

空気の循環を担う岩井らの役割がにわかに注目を浴びるようになった。いろいろなトライアルが各地で行われていた。

理想は、ウイルスの感染を防ぐような完全な浄化だが、そこまでの技術は開発されていない。

次善策として取り入れられたのが、吸気ダクト内でのウイルス濃度測定を核にしたシステムだった。ダクト内の一部を極小化して高性能フィルターを設置して、通過する空気中のウイルスを測定する。危険な感染症のウイルスを一定量検知した場合にはアラートを発信する。赤外線による殺菌装置が自動的に稼働するとともに、ビル管理者による消毒も実施され、感染拡大防止を図る。

岩井の企業が、大手医療機器メーカーとの共同開発した。両社のオフィスで試験導入し、一定程度の有効性が確認できていた。その成果を踏まえ、技術開発特区である復興エリアで実証実験としての導入が認められたのだ。

複合施設内で多くの人が通る場所を測定箇所に選び、ダクトと測定機器を設置することになった。

プライバシー保護の観点から、個人を特定するような仕組みとの連動は認められていない。サーモグラフィーで体温を測るエントランス口部や顔認証による入退管理を行うエリアなどは避ける必要があった。天井が高い場所など大きな空間ではウイルスが希釈されすぎるため、廊下などが望ましいとされたが、十分な知見が得られていないため、いろいろなケースを試す必要があった。

空調設備の工事がある程度進んだタイミングで実証実験の話が浮上してきたため、施工完了箇所をやり直すような状況も生まれていた。

「作った先から、更新工事をやるようなものですよ」
本社から話が来た時には古賀が憤慨した。老朽化したビルでは、天井部分をいったん壊して設備やダクトを交換することがある。まさにそうした状況が生まれていた。
「いいじゃないの。建物の供用が開始されていたら、利用者に迷惑がかかるけれど、今だったら工事の手順を入れ替えればなんとでも対応できるでしょう」
「まあ、そうなんですが」

「今回の取り組みは、先進事例になっていくわ。
実験が成功すれば、既存の建物にこうしたシステムを入れていく工事が増えるはず。その時に、当初の空調と入れ替えた後の空調にどういう差が出てくるか、実例を通じて把握しておくべきだと思うのよ」
「もしかして、わざわざ、あの場所に入れることにしたんですか?」

「分かった?」
「岩井さんは、面倒なことに首を突っ込みたがるところがありますよね。
あーあ。また巻き込まれちゃいましたか」

「面倒くさいことじゃないわ。現場って、やってみないと分からないことがたくさんあるじゃない。技研や設計本部でいくらシミュレーションしても、ああでもないとか言いながら作業員さんと一緒に工事をした実証には絶対にかなわないわ」

本社からの当初の提案は、これから施工する箇所への導入だった。現場のコストや効率を考えるとその方が無駄はない。しかし、感染症対応が一時的な問題にとどまらない可能性が高い現状では、新設だけではなく既存施設にも導入が進むと考える方が自然だ。改修や更新工事を前提に知見を重ねた方が、トータルではメリットがあると会社を説得した。

本当にこだわっていたのは設置する場所だった。CJVに見せてもらった人流シミュレーションを見ると、一般利用者と建物管理者らの大部分が通行する場所は限定される。これから施工する場所を測定箇所にすると、どうしても捕捉率が減る。最適な場所とは言いがたいのだ。
この施設は、この街の復興のカギを握る施設となる。少々の手戻りがあったとしても、ベターではなくベストを目指したいのだ。

「僕は、ちょっと違うって思うんです」
「違うって、どういうこと」
「息を吹きかければ感染の有無が分かるじゃないですか。あれを入り口でみんなにやってもらうのが合理的ですよ」

それは、大きな議論になっている点だった。感染症の拡大が加速する中で、世界各国は検査体制を即座に整備していった。感染者を問答無用に隔離することで、大規模感染を封じ込めた事例もあった。強権的な仕組みは、極めて迅速に効果を発揮した。良くも悪くも、揺るぎようのない事実だった。

この国は、検査体制を拡充すると何度も何度もリーダーが言っていたが、遅々として進まない状況が続いた。緊急事態という言葉で注意が呼び掛けられたが、昼間であれば飲酒を伴うどんちゃん騒ぎであってもとがめられなかった。都会では、座席が全て埋まっている電車での通勤が続けられていた。
夜間の外出禁止や余暇としての海外旅行の禁止などを含めたロックダウン(都市封鎖)を実施している国がある中で、非常に緩い対策で、煮え切らない状況が続いていた。だが、万人単位で日々感染者が増加する国がある一方で、この国ではそこまでの感染爆発には至っていなかった。

新規感染がずっとくすぶり続けている状況は改善されていない。だが、民主主義や自由を根底から覆すような強権の発動も免れている。

どうすべきか。それは各個人の置かれている環境や職業、居住地などによって、変わってしまう。もちろん、最も大きく作用するのは各々のアイデンティティーに他ならない。そうなのだが、「本当はこう思うけれど現状ではそうした選択は難しい」という矛盾する状況が有象無象に発生していた。

「感染者を差別してはいけません」とメディアで声高に訴える人物がいたとする。
その人物が子どもからこう聞かれたら、どうするだろうか。
「感染したからって会えないのは、おばあちゃんが可愛そう。私は若くて重症化しないから、つきっきりで介護してくるね」

この人物は、「頼むよ」と言うかもしれない。
おばあちゃんを、彼氏に置き換えてみた場合は、どうだろうか。
さらに、つながりのない社会的弱者に置き換えても、判断は同じだろうか。

何が正解なのか。

その正解は、人によって、時によって、大きく揺らぐ。

人類は、今までもそうした課題に直面してきたし、感染症以外の問題でも、どうような構図は多々存在する。
だが、地域や経済状況に関わらず同列に災厄が襲うという状況は、今まで誰も経験してこなかったことだ。これまでの災害や戦禍は、高みの見物でいられる安全地帯があった。だが、グローバル化時代の感染症に、そうした安全地帯は存在しない。

効率を考えれば、古賀の言う通りに感染者を特定して隔離する方が得策だ。
それは岩井にも十分に分かっている。
入り口に検温器と吸気型検査システムを置いて、感染が疑われる場合にアラートを出して入館を拒み、医療機関に即座に通報して、救急車両が駆けつける。そんなのは技術的には十分に可能だ。

国会議員や有識者からも、そうした対応を求める声が実際に上がっていた。だが人権問題とも密接に絡むため結論は出ていない。

岩井らの会社は、やんわりをアラートを出す仕組みとして、今回のシステムを考えた。あくまで感染に注意するぼんやりとした情報を発信する程度に過ぎない。それでも賛否が渦巻いている。

「古賀君の言う通りなんだけど、私くらいの年になると、白と黒って切り分けない方がいいんじゃないかな、って思うこともあるんだよね」
「え~。そう言いますけど、仕事だと、すぐに駄目出ししますよね。こんな計画じゃ現場はうまく回らないって」
こういう話になると、古賀は痛いところを突いてくるのが上手だ。
「確かにそうだけど…。でも、現場とは違うわよ」

「お言葉ですが、僕は仕事でも普段の生活でも根底はつながって同じように思います。それって間違いですかね」
「間違っていないわ。私もそう思う。
そうねえ、現場と生活の違いってなんだろう」

「うーん。答えはないんだけどね。
現場って、完成させるのがミッションよね。いろいろトラブルがあったとしても、完成という到達点が揺るがなければ、その手段は臨機応変に変えていけば良いと思うのよ。
でも、感染症の問題って、到達点が良く分からない気がするの」

「撲滅じゃないんですか」
「そうよね。でも、ウイルスって、人間がいるから感染して拡大する訳でしょ。究極的には、全人類が滅亡したらウイルスの拡大は止まるわ。一番簡単かつ確実な方法かもね。でも、それって正解かしら」
「それは不正解ですよ」
「だとしたら、感染した人は問答無用に隔離して、別世界で暮らしてもらうのは」
「そんなひどいことやっちゃ駄目でしょう」

「考え方はいろいろだけど、ごまかしごまかししながら感染しないよう気をつけることができて、もしも感染したとしても、静かに暮らすことができていければ。感染した人も、そうじゃない人も、お互いが一定の許容範囲の中で重なりながら生きていくのがいいんじゃないかなって。

そんなことを思うのよね。
少なくとも、この感染症が世界中に広がる前までは、そうやってやんわりとやっていた訳じゃない」

「まあ、そうなんですよね」

「私たちが今やってる仕事は、そういうトライアルの小さな一つのように思うの。
私、自分の仕事が大事だって今までも思っていたけど、今回のことがあって、もっともっと貢献する場面があるはずって思ったんだよね。逆に言えば、まだまだ貢献が足りないってこと」

目の前の古賀は、釈然としない様子が表情から見て取れる。
当然だ。自分だって、モヤモヤしているのだから。

岩井が手掛ける空調設備の仕事は、安全・安心で快適な生活を支えてきた。その根っこは、感染症の問題が起きる前も起きた後も変わらない。ただ、今回の感染症にとどまらず、同じようなことが繰り返されると警告されている中で、空調設備はもっと先頭に立って、社会を変えていくべきだと思う。

自分の中にある秘めたる野望だ。
まだ、そんな大それたことを口にする機会はない。
この現場で小さな光が見えてきたら、もっと、そんな議論がしたい。

*フィクションです

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