2極化する世界のどっちで生きるかを選んだら、来年は自己肯定感と向き合うという目標も決まった。
先日、イーグルズゲートのワークショップに参加してきた。今、全体的に「破壊と再生、自己変容、生まれ変わる、不要なものを手放す、自己肯定感を高める」などの流れが起きているみたい。
なるほど確かに、先月の私は、検査に引っ掛かったり、スマホを水没させてたりなんかして、データとお金が元気よく羽ばたいていったし、ここ数日はサロンの洗濯機の限界をひしひしと感じている。どうせならこの際、流れに乗って、今年最後のクローゼットの中などの断捨離もしよう。
次の話題は、今よく耳にする2極化の話。このことは、結構前から教わってきたし、その為に意識を変えてきたけど、ここへ来て改めて話を聞くと受け取り方もまた変わってきたことにも気づく。
2極化とは、善と悪、光と闇、勝ち負けなどの2極に分かれているんじゃなくて、「2極が存在する世界」と「ニュートラルな調和された世界」の2つのことを意味している。
超ざっくり言うと、後者は「うん、たしかに善も悪も存在するよね。この世界で私は自分がしっくりくる(ベストな)方を選択しよう」という感じで、前者は「私の意見は正しい。もう一つ(または、自分以外)の考え方や言動は間違っている」という感じ。自分(たち)の正しさを相手にゴリ押しして、相手が謝るまで許さないぞという感じだ。
大きな流れとしてはニュートラルな世界に向かっているけれど、ありとあらゆる歴史の中で争い、勝ち組と負け組といった価値観が染みついてきた私たちがその波に乗ろうとすると、散々続けてきた古いエネルギーが引き戻そうとする力も強く感じられて、今、個人間〜世界規模まで、「ああ、そうか…」と考えさせられる様なことが色々起きている。まさに時代の過渡期だ。
善悪や勝ち負け、依存と支配といったテーマで自分を正当化させ、争ってきたことをやめることは、私の2023年を通じたテーマでもあった。
大晦日に書いていた文章↓
1年前が数年前に感じる。懐かしいな。
私はたぶん、ここ10年位は自分の意識にがっつり向き合ってきた。「被害者を卒業するぞー!」をスローガンに掲げてきたけど、被害者には色んな種類があること、意識を深く掘り下げていくことで「私は間違ってない、相手が悪い」と、都合よく正当化する気持ちがあることも認識することが出来るようになって、その度に丁寧に統合をしていった。
変わりたいのに変われないという葛藤や、分かりたいけど実際は分かったつもりなだけだったといったような勘違いも起きるんだけど、そんな行ったり来たりの時期って「そう言うことをされるor言われる筋合いはない、争ってやる」と、意欲的に加害者の立場になりたがっている自分とも向き合ったりした。
時に、人は自分の正義を貫き通す必要があるけど、私のケースを俯瞰してみると、殆どが、表面的に人あたりがよさそうに見えて、初期の段階で人の愛情や優しさや親切心を疑ったり、相手からの気持ちを端から拒否して、ぶ厚い壁をつくりながらも相手に合わせていることが多かった(被害妄想強めのやばいヤツですね…笑)。
それでもなんとか、被害者加害者の2極で争い合う世界から大きく卒業する時。「あー、もう自分と争うことも、人と争うことも、なんだか疲れちゃったなあ」という気持ちで、私は、ただただ脱力した。
そうだ、リラックスってこんな感じだったわ。しばらく争う世界にいたから、そりゃあんな風にガッチガチに力むことしか出来なかったよな。
とは言っても、今でももちろん身近な人間関係やインターネットのコメントなどで沢山の争いを目にする。今は、状況に突っ込み過ぎず、その時に自分が出来る最善を尽くしたり、そっとその場所を立ち去ることにしている。
時間がかかったけど「住む世界を変える」ということが、少しずつ分かってきた。
被害者と加害者の世界線を抜けていくと、「イラつかないの?落ち込まないの?」と聞かれることが起きても、自分のなにかの意識の表れだという地点から内観をしたり、現実に起きていることに対しての感情反応を選べるようになってくる。「あ、また統合するためのヒントを教えてもらったんだなー」と感じるようになるんですよね。まあ、そうは言ってもまだ統合する感情反応や意識は沢山あるけれども。
ちなみに、2023年の元旦に争わないという目標を決めたんだけど、その翌日に、速攻でめっちゃ怒る出来事が起きた。内容はもう忘れちゃったんだけど(許したり統合すると小さなことは思い出せなくなっちゃうんですよね)。
そこから、事ある毎に「YOUはもう争わないって決めたんだよね?本当に出来るのかな?こんなこと言われても〜?こんなことされても〜?」というお試しのような出来事のオンパレードだった。
感情がぐわっと揺れても、その一瞬一瞬の選択をすぐに「イラッとしない、戦わない、もう全部許そう」という方向へ変えていって、争いの土俵から降り続けた1年間を過ごして、意識は大分変わったなと思う。
そして、もはや終わりそうな2024年は、「わくわくする感じがしたら行動する」がテーマだった。友だちと雪解けの金沢へ弾丸旅行に行って、久々に白山比咩神社を訪れたり、三合方位取りに桜の美しい時に千葉へ一人旅をして、姪&甥っ子と美しい自然に癒される沖縄家族旅行も行ったし、広島へはお礼参りのために厳島神社へ行き、ライブに初めて参加したりして浄化の一人旅を楽しんだ。簡単な手術もしたし、コロナにかかって嗅覚障害を体験して、サロンのインテリアを変える大幅なリニューアルも出来た、充実した1年だった。
ただ、ワークショップの帰り道に、充実の1年間の裏にひっそりと存在している「ある意識」をスルーしている感じがしてる様な気がしないでもないことに、気づいた。
「誰かに譲ってあげたり遠慮することは、一見いいことに見えるけど、もし本当は欲しいのに遠慮しているなら、それは自己肯定感の低さのあらわれだよ」という内容の時に、僅かに私の心が揺れたことがきっかけだった。前の先生の時にも指摘されていたポイントなんだけど、私の自己肯定感の低さって、「がんばってます、最近いい感じなんですよ、私」という意識のうしろで控えめに存在しているので、自分でも意識的に捉えないと逃がしちゃう意識なんですよね。
日常で受け身な部分が多く、おっとりとしているところもあり、セラピストという仕事でも、相手の体調に気を配ったり心に寄り添うことを意識しているので、はっきりとしたリードをすることが、そもそもあんまりない私。
もし今、自分の想像出来る枠を越えた先の未知の世界で、今まで体験したことのないくらいの喜びや楽しみを受けとれる権利が目の前にあったとして、「YOUはこれを受けとる価値が自分にあると思う?(あるならこの権利を丸ごと渡すよ、という意味の質問)」と聞かれたら、「まあ、受けとれたら嬉しいですけど…」と濁してしまいそう。っていうか絶対そう言うと思う。
受けとった途端に何かを要求されるのでは?なにかの罠かな?幻みたいな一瞬の出来事で終わるのでは…?実は人生の未知の部分に興味があるのに、素直に「欲しい」というひと言が、怖れがあると言えない。さらに「私なんて受けとっていいはずがない」「人から妬まれたりするのは嫌だ」「(求めすぎるからダメなんだという意識から)そんなに欲しくないのかも…?」といった意識も持っていたら、さらにブレーキがかかる。
それに、「自分の欲しいものを望めばみんな手に入ってハッピーになっていい」じゃなくて、「誰かがハッピーで豊かだったりしたら、それ以外の人たちは、不幸で豊かさとは遠い人が必ず出てくる。誰かの犠牲の上に幸せはあるんだ」という世界線にいるような感じもするんだよなあ…。
やっと秋めいて肌寒くなった夜に歩きながら、2024年は、たぶん自分の予想できる範囲内だったとはいえ、沢山の幸せを感じる体験が出来たり、しっかり休むことも出来た充電期間だったなあと、感謝の気持ちでいっぱいになった。まるで来年のためのような1年だった。
そして、温かく満ちた気持ちで、2025年は自分の枠を越えていきたいなと思った。
前の年の10月から次の年の新しいエネルギーが流れ始めているらしいのだけど、ここ数年は、バッタバタで年末まで駆け抜けて、年始は燃え尽きてぐったりしていたので、正直、振り返ったり計画をたてる余裕がなかった。
今年は早めに2025年のことをイメージしてみよう。手帳も買いに行かなくちゃ。