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ベトナム志士義人伝シリーズ⑭ ~仏領インドシナ トンキン・ハノイ城下投毒事件(1908年)~

ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note

 以前投稿した『クオン・デ 革命の生涯』(1944,1957)』、第5章『一時日本を離れる』の中で、ベトナム国のクオン・デ候は、このように語っていました。⇩

 「私が日本に渡航して来てからというもの、ほぼ毎日の様にひっきりなしにベトナム人学生が国を脱出して日本へ留学して来ました。
 1907‐1908年の頃には、東京のベトナム人留学生の数は二百人を超え(中略)、祖国に伝わって殊更に大きな影響を与えたことで、海外宣伝や国内活動が一つの革命運動の輪となり日増しに広がって行ったのです。
 そうして、1908年4月に『南圻抗税事件』、5月には『城下投毒事件』と、抗仏運動を背景にした重大事件がベトナム国内で連続して起きました。フランス政府は、それら一連の事件の首謀者は日本に居るベトナム人革命分子とその宣伝活動に依るものだと断定して、あらゆる手段を講じて妨害を開始したのです
。」
          『クオン・デ 革命の生涯』より

 植民地政府が課す重税と恐怖支配の厳重な管理下に置かれていたベトナムでしたが、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)やクオン・デ候の起こした愛国出洋運動に呼応して続々と出国する青年志士=東遊(ドン・ズー)留学生らの姿を見た市民たちは、それまでただ服従し悲運を嘆いていた日々を止め、とうとう国内で起ち上がりました。

 先ず、1908年4月に『南圻抗税事件』(詳細はこちら⇒ベトナム志士義人伝シリーズ⑥ ~ベトナム義民による抗租税事件(1908年)~)が発生しましたが、『ヴェトナム亡国史 他』編者の長岡新次郎先生解説には、この辺の詳細が書いてあります。⇩

 「このころ(=1909年1月頃)より、日本官辺では、ようやく本気にクオン・デの所在を調べ始めた。(中略)
 フランス政府が積極的にヴェトナム人の動静についての調査を依頼して来たのは、当時インドシナの政情が不安定であったことによる。
 1908年2月から5月にかけて、
広南(クアンナム)・広義(クアンガイ)など中部ヴェトナムにおいて、税金の納入を拒否する示威運動が燎原の火の様にひろがり、フランス官憲がこれを弾圧するや、一層殺気を帯び、農民の蜂起にまで発展する有様で、フランス軍と一般民衆の衝突が各所に起こり、血が流された。
 この物情騒然とした中で、今度は5月27日夜8時、ハノイのフランス軍兵舎で、80人の兵士が食中毒で動けなくなった。これは独立運動の急進分子が投毒したもので、混乱の隙に一挙に蜂起する計画であったが、内通する者があったため、事は頓挫した。」
        
『ヴェトナム亡国史 他』より

 この2つの事件が連続発生したことで、フランスの弾圧は一層強化され、その影響は日本に居る東遊(ドン・ズー)運動留学生にも及びました。
 『日仏協約』を楯にしたフランスからの要求を呑んだ日本政府が、東京同文書院や振武学校で学んでいたベトナム人留学生達へ解散命令を発し、最終的にクオン・デ候らへも国外退去命令を出したのが1909年頃です。

 この『北部投毒事件』に関しては、『ベトナム義烈史』中の『7、北圻河内(バッキ・ハノイ)城で義に殉じたる諸烈士の事略』章で大方の内容を知る事ができます。

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 フランスは、我がベトナムを占拠すると、身体強健の壮者を習兵(傭兵)に募った。鉄砲を担がせ薬莢を腰に、血戦場に駆り立てて我が同胞を惨殺させた。つまり、ベトナム傭兵をフランス人の肉の盾に仕立てた。

 ここに述べる烈士諸君は、身は傭兵でありながら、心は賊に汚されず、隠忍こころざしを内に秘め蓄えていた。そして、戌申の年(1908)の5月29日、事変が起きた。

 阮到平(グエン・チ・ビン)君、阮文義(グエン・バン・ギア)君等4人は、習兵や軍営のベトナム人炊夫たちと隠れて連絡をとり、秘密に集団を組織していた。組織の目的は勿論、打倒フランスとベトナム恢復。

 2日前の27日、彼等は白馬寺に集結。血判の誓い、蹶起の日を決めた。炊夫が料理に毒を投じ、毒に当たってフランス兵が斃れた隙を突いて兵器庫に入り武器を奪う。フランス総督府に進撃、かねて打ち合わせの黄花探(ホアン・ホア・タム=デ・タム)将軍が兵を繰り出し、城中城外挟撃の態勢をつくる作戦手筈だった。

 決行の日、兵舎のフランス士官士卒は毒にあたった。だが、毒の分量が足りず斃れなかったのだ。事は発覚し、阮君らは捕えられた。首謀者として死刑とされた者は5人、阮君らと炊夫頭ハイ・ヒエン君。また、連座した者で死刑11人、流刑懲役60余人。

 敵の血を一滴も流し得ず、我が義民烈士10数人の首が一時に刎ねられた。
 この惨事に、胸ふるわせて慟哭せぬ者があろうか。もしも一時間ちがえていたら、兵器庫は手に入り、総督府へ進軍し、一陣の嵐を起こし得ただろうに。

 けれど、彼等が成し遂げなかった志を、まだ20万余の我がベトナム習兵はもっているのだ。あの世で殉難諸烈士の魂は、その時を待っている。
 その時が来たらば必ずや、慰められ欣びあうだろうことを思いつつ、ここに事変を略記する。

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 『習兵=傭兵』とは、以前投稿したこちらの記事⇒ ベトナム独立運動家・潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の『訓練生(くんれんせい)詩』に書いたフランス軍に所属する『ベトナム人訓練兵』のことです。
  
 卒業しても働き口がない。けれど、毎年増税する人頭税(=住民税)は容赦なく若者へ圧し掛かります。それに加えて、村には粗悪酒と阿片(あへん)の強制割当購入があり、生活必需品も嗜好品も、あらゆる物品が課税対象の仏領インドシナにおいては、どんな職種にでも就いて家族のため働かなければなりません。そんな状況下では、彼等の多くは仕方なくフランス国軍が募集する習兵(=傭兵)になりました。ベトナム人同胞の反乱や蜂起が各地で起これば、第一線に投入されて最新兵器を使い同族同胞殺しを行なったのです。
 あらためて考えて、西洋植民地主義とは、なんと惨い政策であることか。。。

 この『北部ハノイ城下投毒事件』は、一人のフランス将校も殺す事が出来なかったのに比べ、ベトナム人は多数処刑された。表面上、失敗の結果に終わった一見地味な事件に思えます。
 しかし実際この事件は、真底からフランスを戦慄させました。
 なぜなら、河静(ハ・ティン)省の志士潘廷逢(ファン・ディン・フン)死後、各地勤皇党の勢いも漸く鎮静化し一安心していた仏印政府にとって、今度は味方の筈の傭兵軍団に寝首を搔かれるという物騒な事態が発生した。これはフランスにとって非常事態の再来を告げた事件となりました。

 この直後から、フランスは、東遊(ドン・ズー)運動=海外ベトナム人テロリストの温床だと仏・日・仏印三か国で同時キャンペーンを張り、密偵を大増員して捕縛包囲網を張り巡らし、送金妨害、出国者の指名手配、国内大弾圧。そして日本へは『日仏協約』締結で、ベトナム人留学生解散・国外退去を迫った訳です。
 ここまでフランスが徹底的にベトナム人の抗仏運動潰滅に躍起となって取り掛かった理由は、ベトナム勤王志士らの頑強な抵抗に四苦八苦した数十年前の悪夢があった為でした。(詳細はこちら⇒「安南民族運動史」(2) 〜勤王志士による攘夷決起〜 (再)

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潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の『訓練生(くんれんせい)詩』に、こんな一節があります。⇩

 ” 君は一つの家系の者だ 君は一つの家の者だ
  お婆さんに前掛けを掛けてあげながら
  お婆さんの首を絞めている ”

 政府の課す苛酷な税金の支払いに追い立てられ、やむなく傭兵の職を得る。しかし、向かう戦場には自分の親や兄弟、幼なじみがいる。彼等に向かって武器を打ち込み、彼等を殺し傷つけ、やっと僅かな給金を得る。その金は、政府へ税金を支払うための金。。。
 近未来の日本の姿かも。。。😥😥

 同族相争うの愚かさ、悲惨さ。
 『7、北圻河内(バッキ・ハノイ)城で義に殉じたる諸烈士の事略』章の終わりに、『越南(ベトナム)義烈史』著者の鄧搏鵬(ダン・バン・ドアン)氏がこんな弔詩の一節を寄せています。⇩ 

 ”煮豆燃萁痛若曹 
  豆を煮るに その萁(まめがら)を焼く 痛ましきかな我等 ”

 この詩はどうやら、中国魏(ぎ)の文人、曹植(そう・しょく)の七歩詩にかけ読まれているようです。⇩

  煮豆燃豆萁
  豆在釜中泣
  本是同根生
  相煎何太急

(豆を煮るに豆がらを燃やし 豆は釜中に在りて泣く 
 本より是れ同根に生ぜしに 相い煎ること何ぞはなはだ急なる)

 現代では、肌の色、目の色、言語、風習等々…、長い年月をかけ、地域に則して大分違ってはしまいましたけど、人種の起源は元々一つの筈だから、誰も争わない世界がいつかは来るでしょうか。😭


 

 


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