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ベトナム志士義人伝シリーズ⑨ ~潘廷逢(ファン・ディン・フン、Phan Đình Phụng)~  

ベトナム志士義人伝シリーズ|何祐子|note
ベトナム志士義人伝シリーズ⑧ 番外編 ~ベトナムを扶けた中国の人々~|何祐子|note 

「フランス人が、われわれベトナム人を縛り付けるのに用いるやり方というのは、他でもありません。一族皆殺しです。墓あばきです。
 進士潘廷逢(ファン・ディン・フン)のごときは、山に入って、義士を集めること11年、彼の父であった潘廷選(ファン・ディン・ティェン)、伯父潘廷通(ファン・ディン・トン)および彼の母の墓はすべてあばかれ、かれの子潘廷迎(ファン・ディン・ギン)は晒し首になったのです。」
            
『ベトナム亡国史』より

 ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)著書の多くに、ベトナム近代史-仏領インドシナ時代の抗仏闘争の中でも最も有名な民族英雄の一人、中部河静(ハ・ティン)省の義人潘廷逢(ファン・ディン・フン)が書かれています。
 現在ベトナム各都市にその名を冠した通りがありますので、名前を聞いたことがあるという日本人の方も多いと思います。
 潘佩珠やクオン・デ候らより少し前、1885年に第7代咸宜(ハム・ギ)帝の詔に応じて義軍を率い、最期まで抵抗を続けた、進士(=科挙最終合格者)称号を持った義将でした。
 
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 潘廷逢は書生であった頃から、すでに小事に拘泥せぬ度量豊かな風格があり、時代の風潮とは相容れなかった。
 
 廷試に首席で合格し御史に補せられたが、当時は、権力を持った姦臣が国政に当たり、国王の廃位さえほしいままにしていたので、朝廷はひっそり静まりかえっていた。そんな中で、潘廷逢だけが上奏してきびしく弾劾し、その正義を貫こうとするはげしい気概は、酷刑をも怖れぬようであった。

 勤王の詔が下った時、潘廷逢は丁度母の喪に服していたが、喪服を着たまま詔に応じ、河静(ハ・ティン)省香渓(フン・ケー)に山砦を築いてフランス軍の堡塁を攻め、諸省の義軍を統率した。フランス側は、甘言と賄賂で誘い出そうとしたが果たせずに、潘廷逢の家族を捕らえ、先祖の墓をあばいた。子弟が泣きながらこのことを告げたとき、彼はこう答えた。
 「我が家門は代々国恩を受け、今国とともに苦しんでいるのだ。先祖たちも甘んじてこの屈辱に耐えてくれよう。私はただ先祖の志を達しようとするだけだ、たとえ殺されてもやめることはできぬ。」

 かくて要害に拠って兵を養い、兵糧を貯えて武器を製造し、その名声と威勢とは南北ベトナムに響き渡った。
 潘廷逢の下には、高勝(カオ・タン、Cao Thắng)や阮橙(グエン・チャイン、Nguyễn Chanh)の名将もいた。
 高勝(カオ・タン、Cao Thắng)は、敵から分捕った新式の大砲を摸倣して、これと精巧さは少しも変わらないものを造った器用な人。敵軍との合戦大小数百回、フランス軍は彼との合戦は避けたいというほど実戦にも長けた稀有の軍人だった。阮橙(グエン・チャイン、Nguyễn Chanh)は、戦局の変化に落ち着いて対処し、機をとらえるや迅速に行動し、恰も古の武将の風格があった。
 
 1888年に味方の裏切りに遭い、咸宜(ハム・ギ)帝は捕らえられてアフリカ・アルジェリアへ流刑となった。降伏する義軍もあった中で潘廷逢軍は徹底抗戦を構え、10年以上フランス軍と戦った。フランス軍大佐ゴスラン(Gosselin)は、回想記「Empire d’‘Annam(エンパイア・アンナン)」に当時の潘廷逢と彼の義軍のことを書き留めている。
 「…軍事経営の才に長け、西洋式の高度な兵隊訓練法に熟知している。兵士達は統一された軍服を着用し、1874年式銃を下げており、この銃は彼らが自分たちでしかも大量に鋳造した銃で、質はフランスのものと全く変わらない。」(Librairie Academique de Didier, Paris, 1904)

 潘廷逢軍を潰滅しようと、フランスの猟犬となった広義(クアン・ガイ)の国賊阮紳(グエン・タン)が数千人の配下の精兵を率い、数千人のフランス兵と2手に分かれて進撃してきた。ところがその頃、潘廷逢は病気が重くなって世を去っていた。敵軍は彼の亡き後の陣を襲ったが、義軍には、嘗ての部下だった高勝(カオ・タン、Cao Thắng)などの名将も既に亡く、乙未の年(1895)7月、ついに義軍は潰滅した。

 フランス人は高額の賞金を出して潘廷逢の屍体を手に入れようとしたが、かつての部下で手引きをする者はいなかった。フランス人はあまねく山中を捜し求めて、とうとう山間民族の者を使って潘廷逢の墓を見つけた。
 棺の表には、咸宜(ハム・ギ)帝から賜った『南北ベトナム経略大使、及びフランス討伐大将軍』の印壐があり、死体の手には指が一本多かった。フランス人側は死体を引きずり出して油を注いで焼き、その上灰を集めて、葬る者が出て来るのを恐れてその灰を撒き散らしてしまった。

 義軍は解散、残った義兵も屯田地を捨て山を下り、その後各地の抗仏蜂起も徐々に下火となって行った。 

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 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、続けます。
 「…そうして、フランスは11月、戦費20万元をベトナム全省の人民に賠償として請求し、ここにベトナム国は平定された。」
 
 「屈服を潔しとしなかった者、フランス人がもし彼らを山奥に逃げ込ませておいたところで、彼らは草木とともに朽ち果てるだけのことで、フランスに何の害を与えることができただろう。しかし、フランス人は最後までその毒手を緩めず、妻子を拘禁し、郷里の一族まで塁を及ぼし、その墳墓を暴いた。
 彼らが屈服しないのは彼ら自身の問題だ。しかし、可哀想に、彼らの屍骸や生き残っている家族に一体何の罪があろう。

 彼らの屍に、一体何ができるというのだろうか。黒ずんで毛髪の抜け果てた彼らのしゃれこうべが、この天地の間にまたとないような苦しみを受けるのを、両目を見開いたまま顔をそむけもせずにフランス人は、手を拍って快哉を叫んでいるのだ。」
            
 『ベトナム亡国史』より

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 「…このローマ伝来の残忍なやり口を他民族に課しているものは、ひとりフランスばかりではなく、その災厄をこうむっているのは、ひとりベトナムばかりではない」

 『ベトナム亡国史』に序文を寄せた清国の梁啓超(りょう・けいちょう)がこう言っている様に、ローマ伝来の残忍なやり方でアジア大陸を襲った西洋国家は、アジア各国を植民地にして数百年がたっていました。当時侵略を免れていたのは、日本を含む僅かな国のみ。

 アジア侵略に出遅れたフランスが、ベトナムで潘延逢(ファン・ディン・フン)軍を潰滅した1895年。それから約半世紀後に、日仏間で『松岡-アンリー協定』結び、日本軍が『仏印平和進駐』して来ました。
 
 仏印総督の承認を得て、日本当局が当時の西貢(サイゴン=現在のホーチミン市)に1942年開校した旧高専校『南洋学院』で学んだ亀山哲三氏が、後に回想録を出版しこう書いています。

 「…ベトナムに渡ってすでに2年を経た。インドでもマレーでも同様なのだろうが、白人の植民地支配の実相に触れた。民衆鎮圧のための駐屯軍、これ見よがしの刑務所と流罪監獄、釘一本、針一本も造らせない専らの収奪のみの経済政策、白人を裁けない司法制度、『愚民』を意図した文教策など…。」           『南洋学院』より 

 
 




  

 

 

 
 

 

 
 

 

 

 

 

 


  

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