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「安南民族運動史」(2) 〜勤王志士による攘夷決起〜 (再)

   ここに注意すべきことは、フランスの援軍が来る前に既に南部地方、越南人の所謂「南圻(ナンキ)」は彼等自身の手兵によって恢復していた事実である。フランス勢の到着によって中圻(チュンキ)、北圻(バッキ)即ち中北部地方の奪回は早められたことは事実に相違ないが、世人が一般に考えるように、ド・べエーヌの力によってのみ始めて反徒の征服と祖国の恢復をなし得たとは言い得ない。この政僧の援助は寧ろ志気を鼓舞するに役立ったのみであると言うべきであるから、フランスが斯くの如き些々たる援助を盾にし、嘉隆帝の友情を政略的に利用して越南帝国の国家としての成長を阻害し、遂にその国の生命を断つに至った事実は、アジアの近代史中、イギリスの印度及び支那侵略等と相並んで特に注目すべき事柄である。

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1787年に景(カイン)皇太子を連れてパリに帰ったピニョー師でしたが、目論見が外れて、本国からベトナム支援を得ることに苦労します。

 「…交趾支那(コーチシナ)との条約問題は、国際政局の混乱によって容易に解決しなかった。イギリス人は蘭仏同盟を破棄させたので、フランスの外交官連中には極東問題に頭を突っ込む閑がなかったのである。」
 そのため、
 「数年経って後、(ピニョ―・)ド・べエーヌは、コンヴェイ総督に懇願して、条約上の義務を守ってフランスの面目を保つようにと要求したが、何等の返答もないので、彼は自腹を切って遠征隊を用意し、インドでフランス仕官を募った。」
 
要するに、結局フランス本国が簡単には動いてくれなかったので自腹を切ってインドで私兵を募り、
 「ピニョ―司教はその軍勢の大将となって、西貢(サイゴン)にむかって進発、(中略)行ってみると、交趾支那国王は苦戦の末、西山党との合戦に勝ち、既に下交趾地方を平定してしまっていた。」
        
  T.E エンニス『印度支那』より

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 嘉隆帝の代には、帝の親仏感情によってフランス人は大きな政治力を持ったが、帝が没し景(カイン)皇太子も前後して世を去り、帝の第4子明命(ミン・マン)帝が帝位を継ぐと、越南の民族精神を固辞して儒教文化に生きる側近の官人と共に攘夷策を実行し、フランス伝道師は悉く国外追放された。

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 西山党に都を追われて西貢(サイゴン)、河遷(ハティン)、それから隣国のタイに逃れた阮福暎(グエン・フック・アイン)を励ましてくれたピニョ―師。幼い皇太子の景(カイン)を本国に連れて行き、援軍を要請してくれ、自腹を切ってまで援軍を連れて来てくれたピニョ―師。。。 
 「(ピニョ―の)援軍の来着により阮軍の意気益々昂り、応援軍と共に交趾支那を完全征服」します。
 更に、西山党の阮惠(グエン・フエ)死去の報を受けた阮福暎は征略軍を派兵しますが、
 「この時、阮福暎の成功の蔭にあったピニョ―は、やがて来るべき国内統一の日を見ずして、1799年10月9日数奇な一生を終えた。」
    満鉄東亜経済調査局編『南洋叢書 仏領印度支那篇』より

 とはいえ、既に情も湧き、ピニョ―に『百多禄(バダロク)』というベトナム名も与え、受けた恩を忘れなかった阮朝開祖嘉隆(ザー・ロン=阮暎)帝が健在の間、フランス人はフエ宮廷内ですこぶる勢力を持っていたと云います。
 ベトナム国内も安定したし、フランス人がフエ宮廷の中でうまくやっているようだ、、、という情報を得た仏本国はここでやっと重い腰を上げました。
 「一時は、遠征を拒絶せるフランスではあったが、阮福暎の成功を見て再び通商を開始せんとし、1817年外務大臣の後援の下にボルドーの船舶が久し振りにツーラン(ダナン)港を訪れた」
 しかしですね、1821年に仏・安南通商条約締結の任を帯びた元士官が交趾支那に着いてみると、
 「安南国の国情は意外にも180度の大転換を示していた。安南王2世明命(ミン・マン)福皎(フック・キウ)の反フランス政策が之である。」
         
『南洋叢書 仏領印度支那篇』より

 ミンマン帝は即位後、キリスト教の布教禁止、聖書の焚書、宣教師追放と厳しいキリスト教禁令を布きました。

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 その間フランスでは大革命後の動乱に暫くアジア侵略の手を緩めていたが、のち、ナポレオン3世の世になると再び攻勢に出て、恰もスペインの伝道師ディアスが殺された事件を捉え、安政5年スペインと提携して越南の要港ツーラン(ダナン)を陥れたのを切っかけに、慶応2年には交趾支那を完全に手中に入れ、明治6年にはハノイを、15年には清国の黒旗軍が越南を扶けたのを理由として清仏戦争を起こし、遂に翌16年、越南を保護国にしてしまった。かくて此のアジアの一国は事実上フランス植民地の一部となり、国名も嘗ての国辱を思い出させる「安南」に代えられた。
 ここに越南人の祖国恢復の義挙が相踵いで起こり、フランス70年の統治は、此の澎湃たる民族独立運動の波との戦いに終始して今日に至ったのである。

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 当時の帝政フランス皇帝、ナポレオン三世の発した通告(コミュニケ)をいうのがこれです。
 「フランスは当世紀初頭以来、交趾支那と接触する努力を重ね来った。残虐なる伝道師迫害により一度ならず吾人は安南王国に軍艦を派せざるを得なかった。然るに彼国政府と接触しようと努めたが何等の成果も得られなかった。皇帝政府は建策を無視することを得ず、茲に遠征隊計画を立てる。
 スペイン政府も同一の陳情を受け、喜んで遠征隊に協力するであろう。該部隊の司令官として海軍少将リゴー・ド・ジュニュイイを任命した。
     (Paris,1900)」

 嫌だって言ってるんだから、布教止めて引き上げたらいいのに、、、と、田舎の主婦は思いますが、そんなに甘い国際世界ではありません。(笑)

 1858年にフランス・スペイン連合艦隊14隻がダナン沖に出現しました。フランスのベトナム侵略が始まります。
 「1958年フランス・スペイン連合艦隊軍14隻がダナン沖に出現し港の防塁を砲撃。兵士3000人が上陸して攻撃を開始、まもなくアンハイ城下とトンハイ城を占領。翌年、2手に分かれた仏西連合軍は、南部へ移動して芹苴(カンザー)から侵入し、ドンナイ川両脇の浮塁を破壊しながら嘉定(ホーチミン市)に上陸し攻撃開始、嘉定城を占領した。」  
 「連合軍は南部都市を続々と占領し、北部は匪賊の反乱が絶えない。1862年フエ朝廷政府はとうとう連合軍に対し講和を申し込むが、1897年には美湫(ミトー)、永隆(ビンロン)省、安江(アンザン)省、河静(ハティン)省が占領下に置かれる。」 
 「1874年、両国は全22条からなる講和条約を締結。南部6省の譲渡に加えて北部主要都市や主要港の開都開港、ベトナム国内の仏人を含む全ての外国人の治外法権を認めた。」
 「フランスは清国の李鴻章(り・こうしょう)と交渉を進めて天津条約を締結(1885.4.27)。この条約で、ベトナムはフランスの保護国であると清国に明確に認めたさせた。」
               
『ベトナム史略』より
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 フランスは僅かな援助を楯に深く根を張り、国内体制を整えた後に列強に伍して来襲した為に、遂に嗣徳(トゥ・ドック)帝の治世に越南王室は主権を失うに至る。
 明治16年フランスは安南保護条約を強制的に締結し、ド・クルシイを安南統監に任命。第8代咸宜(ハム・ギ)帝に謁見を求め千名の兵を率いて首府フエに乗り込んだが、これにベトナム皇軍が夜襲を掛けて、激戦ののち越南軍は撃退されて皇帝は広治(クアン・チ)に脱出する。その後、皇帝は全国に檄を飛ばして義士の奮起を促しつつ、帝側近の部将もまた各地に転戦した。飛檄に応じて起こった勤皇の諸将士豪及び官人たちは全国到るところに蜂起して、フランスの支配に対する激しい抵抗を続けたのである。

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 第8代咸宜(ハム・ギ)帝の詔勅を報じたベトナム皇軍の夜襲場面はこれです。⇩
 「天津条約締結の年、第7代咸宣帝に謁見するフランス軍の歓待式が終わりに近づいた頃、まだ12歳だった幼帝を戴いた義軍が抗仏決起に起ち上がった。フエ城内に発砲音が鳴り響き、周辺の屋敷へ火が放たれた。翌朝フランス軍が反撃を開始した為ベトナム軍は敗走。帝は広平省へ都落ちし、ここから勤王の檄を各地へ発布。これに呼応してて、ビントゥァン省以北殆どすべての各省で続々士民が抗仏蜂起を起こしたのである。皇帝不在になった宮廷では、同慶(ドン・カイン)帝を第8代皇帝として即位させたが、各地の勤王決起は収まるどころか更に盛り上がって行った為、フランス軍は、広平省とダナンへ兵を増強したが、勤王党の反撃は衰えを見せなかった。しかし、最期は結局仲間の裏切りにより、遂に咸宣帝は捕らえられ、仏領植民地北アフリカのアルジェリアへ流刑となってしまった(1888)。この時、帝は18歳になったばかりであった。」
              
『ベトナム史略』より

 18歳の皇帝がアフリカ流刑…。植民地支配とはこういうことなのか、、、と戦慄を覚えます。
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 フランスの歴史家は此の義挙を以て匪賊の暴挙として取り扱っているが、言うまでもなくそれは歴史学の政治性を如実に示している一例に過ぎない。千年に亘る永い伝統と文化を持つ越南人のうち、特にそれらのものの護持者だった諸将など政治担当階級が抵抗したのは、外夷に抑圧される王室を復興する勤王攘夷の精神によるものであり、この義軍が上層階級が中心となって組織せられ、数年の間、勇敢に戦われたのは民衆の大なる支援があってのことと容易に推察し得る。

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神谷美保子氏著『ベトナム1945』(→ベトナム国旗の“風変りな”話 |何祐子|note)には、後のベトナム共和国初代大統領で、アメリカ政府の傀儡と言われ1963年に軍事クーデターで銃殺された呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏に関する、日本軍林中佐によるこんな回想があります。
 「…安南の民族運動を重視しなければならない。ゴー・ディン・ディエムは、日本の例えば近衛家にも相当する家柄で、王室とも関係が深いし、民族運動の核心人物にするのに適当な人物だから、匿ってやれという。」
            『ベトナム1945』より

 呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏というのは、今の若い方はご存知ない方も多くなってしまったかと思いますが、1955年に亡命先のアメリカから戻り南部に『ベトナム共和国(南ベトナム)』を建国した人です。その後、アメリカ帝国主義に抵抗するベトナム人民解放戦線へ大弾圧を加えたアメリカの傀儡政権の大悪人として、大プロパガンダが吹き荒れる中軍事クーデターに斃れたゴ・ジン・ジェム大統領のことです。
 
 戦前の日本軍は、ちゃんと呉廷家が「近衛家に相当する」と把握していたことが上記の記述から判断できますね。ミドルネームを見ると判りますが、「廷」が入っています。第8代ハム・ギ帝の詔勅を奉じて戦い、最期まで抵抗を続けた義軍の将も、潘廷逢(ファン・ディン・フン)『明(マ)号作戦』(→仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)で起こった軍事クーデター、通称「明(マ)号作戦」のこと その(1)|何祐子|note )間近に海南島に渡り日本軍と行動を共にしたハノイの元新聞記者も、武廷遺(ブ・ディン・ジー)氏。皆、ミドルネームに「廷(ディン)」が入っています。「廷臣(ディン・タン)」の「ディン」です。
 
大岩誠氏の「外夷に抑圧される王室を復興する勤王攘夷の精神によるもの」の説明の背景は、これで十分かなと思います。
 余談ですが、この「呉家」と「阮家」の関係は、9世紀遡れば主従が反対で、阮家は元々『呉朝』の臣です。これはまた別途記事にしたいと思います。。。
 しかし、この「近衛家に相当する家柄」、要するに「五摂家筆頭」に匹敵する家柄の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏「アメリカの傀儡」だとレッテル貼り、メディアの大プロパガンダに当時世界中がまんまと騙されてしまいました。
 結局、ベトナムの五摂家など殆ど潰滅状態となり現在では復興しようにもどうにもならない状態ですので、日本も常に気を付けないと怖いですよね、本当に。😵‍💫😵‍💫😵‍💫
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 フランスは此の広汎な国民主義精神の昂揚に直面し、武力を以て弾圧に狂奔する。越南人の言を借りて言えば、全く禽獣に対するがごとく傲岸な態度、徹底的な惨虐性を発揮して只々武力による弾圧にのみ没頭した。

 全く禽獣に対するが如く、徹底的な惨虐性を発揮して武力による弾圧を繰り返したことは、こちら→ ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1)|何祐子|note の記事に書きましたので、ご参考になさってください。。。


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