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東遊(ドン・ズー)運動を支えた近代ベトナムの恩人、霞山公近衛篤麿(このえ あつまろ)のこと

 明治末期に、フランス領印度支那(インドシナ)と呼ばれていたベトナムから、祖国解放・独立を志して約200名のベトナム人が日本へ渡って来た史実を日越近代史では『東遊(ドン・ズー)運動』と呼んでいます。
 その運動の先駆けとなったのが独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と、ベトナム国皇子クオン・デ候です。其々詳細はこれまでに投稿した過去記事を御一読頂ければ幸いです。
 
 当時の西洋植民地政府施政下、苛酷な課税制度と暴力による恐怖支配から祖国民族を救う為、ベトナム義士たちが命を懸けて明治日本を目指しました。
 この『同文同種』アジアからの亡命者を匿い、扶け、共に闘い、更に後にはアジア及び全世界の平和、解放を目指した戦前日本人たちの足跡も、ベトナムという視点を通して私なりに纏めてますので、御一読頂ければと思います。(⇒仏領インドシナと戦前の日本人|何祐子|note
 
 そして今日は、近代ベトナム革命の原点と云える『東遊(ドン・ズー)運動』の受け入れ先『東亜(東京)同文書院』の中心に居た『霞山公近衛篤麿(このえ あつまろ)』です。

 抗仏蜂起に使用する武器購入援助を日本に頼むべく、革命党『ベトナム光復会』密使として潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)と曽抜虎(タン・バッ・ホー)、鄧子敬(ダン・トゥ・キン)が横浜に到着したのが1905年でした。3人は、横浜に亡命中の清国保皇派の梁啓超(りょう・けいちょう)を訪ね、梁啓超から犬養毅、大隈重信、柏原文太郎そしてその縁で後に孫文(そん・ぶん)宮崎滔天(みやざき とうてん)等々の沢山の人々と出会い、交流を広げました。
 『東遊ベトナム留学生』と云っても、彼らの人物背景は様々です。郷士の子弟(私費留学生)や、国民から募った寄付金で渡航して来た革命党の党員ベトナムカトリック教会から選抜された極めて優秀な人材等々。そして、その背景には、、、

 「私と潘は、兵器入手問題は一旦棚上げし、先に人材育成へ全力を傾けることにしました。将来有望な人材の育成を目的に、ベトナム国内で海外留学生を広く呼び掛けることにしたのです。 私が記した『国民に告ぐ檄告文』と『六省普告文』がベトナムへ届くと、救国出洋、愛国運動を更に促すに効を奏したのか、日毎に日本へ渡航して来る青年が増えると同時に、国内の抗仏気勢も益々高まって行きました。 当時、日本渡航する人の大半が香港経由の為、1907年潘佩珠を香港へ派遣して、手紙往来や学費送金等の便宜を図る会社を秘かに設立、会社責任者に鄧子敬を任命しました。続けて、遊学宣伝に裴之潤(ブイ・チ・ニゥァン)を南部6省へ派遣したので、それ以降南圻地方から日本へ大勢留学して来ました。」
          『クオン・デ 革命の生涯』より

 これ⇧は、クオン・デ候自伝の第2章『日本へ』の記述です。こうして、膨れ上がった押しかけ留学(亡命)希望者の殆どを受け入れて、彼らを正規留学生として扱ってくれたのが、近衛篤麿公の『東亜同文会』の『東京同文書院』だったのです。潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、自伝書『自判』でこう述べて居ます。

 「東亜同文会の経営する東亜(東京)同文書院に入学させてもらうことに一決、(中略)東亜同文会の会長は、貴族院の有力者鍋島侯爵、学院長は細川侯爵、幹事は根津一、(中略)…諸侯は私財を投じて5教室を新たに設けてヴェトナム留学生を全部収容してくれた。」
          『自判』と『潘佩珠伝』より

 東京同文書院の創設は、「東京・落合村(新宿区下落合)の近衛邸敷地」内。同文書院側は、べトナム留学生のために「特別日本語教室」を設置してくれたそうです。
 戦後日本に於いては、『仏印平和進駐』時の内閣総理大臣近衛文麿(このえ ふみまろ)のお名前を聞くことはあっても、御父上である近衛篤麿公にまで言及することは滅多にありません。しかし、何と言っても近代ベトナム史に於ける『霞山公近衛篤麿』は、『ベトナム東遊(ドン・ズー)運動』の礎として、ベトナム革命運動の恩人として、近代日越交流史を語るに欠かせない人物だと私は密かに考えています。。。😊
 では、当時の日本で近衛篤麿公はどんな存在だったのでしょうか。

 「霞山公は、豪邁な気性と品格の高さによって国民多数の信望を集める存在だった。」
 「ロシアに対する強硬外交「対外硬」の主張は知識人、学者、軍人のみならず社会の各層、各分野に充満したが、これをリードする主力となったものは霞山公近衛篤麿を中心とする『国民同盟会』だったといってよい。」

      頭山統一著『筑前玄洋社』(1977)より

 明治33年設立の『国民同盟会』の著名メンバーには、神鞭知常、佐々友房、平岡浩太郎、工藤行幹、大竹貫一、根津一、河野主一郎、武富時敏、中江兆民、陸羯南等々。福岡の玄洋社も国民同盟会の活動を扶けた、とあります。  
 日露開戦前の日本世論は、「横暴なるロシアを膺懲せよとの主張が、国民の間に広く熱烈に叫ばれた」と云います。この対外硬路線をリードしていた『国民同盟会』は、一旦解散した後に明治36年『対露同志会』が組織され、強硬に日本政府の決意を促しました。
 国家の存亡を懸けた日露戦役。奇跡の日本勝利の報を得て、日本国中がお祭り騒ぎの中、『国民同盟会』とその中心人物近衛篤麿公への国民人気は、当時益々湧き上がったことが想像されます。。。

 「明治38年を一紀元としてかような戦が激化したのは、言うまでもなく、日露戦役における日本の大勝がベトナム人や、勿論アジアの民の総べてのものを奮起させた」
 
この様に⇧、潰滅状態だったベトナム義党を再起、再興させたのがこの『日露戦役・日本勝利』の報だったことは、先の記事(『安南民族運動史』(10) ~ベトナム人を覚醒した日露戦役-日本の勝利~)にも書いた通りです。

 こうして、西洋植民地の楔を断ち切る迄の、仏印-ベトナムの長い長い闘争の手綱を手繰り寄せてみれば、そこに、クオン・デ候ら『ベトナム光復会』の日本渡航を決心させた『日露戦役・日本勝利』があり、その後、膨れ上がった亡命希望者=東遊(ドン・ズー)留学生を全員纏めて『正規留学生』として受け入れてくれた『東亜(東京)同文書会』の存在が堂々と浮き上がります。
 抗仏義軍の潰滅から立ち上がったベトナム革命運動の黎明期へ、霞山公近衛篤麿が直接・間接に与えた影響を考えると、正に『ベトナム革命の恩人の一人』と表現しても過言でないと思うのですが、戦後日本に於いては殆ど評価・再考されていないのが残念でなりません。。。😢😢 

 けれども、当のご本人は、私の様な凡人の「残念だ」という考えなど、意にも介さないかも知れません。。。
 
 「霞山が考える外交政策の根本には、東亜保全の理想と、アジア民族解放の遠大な使命観が存在する。この霞山の主張には、通俗的意味においてではなく、その最も深く正当な意味において「臣下最高名門の貴公子」たるに相応しい鴻大な気宇が感じられる。東洋解放の理想に燃える在野志士が、大きな期待を寄せたのも無理からぬことであった。」
            
  『筑前玄洋社』より

 戦前日本に亡命していたベトナムグエン王家のクオン・デ候も、開祖嘉隆(ザー・ロン)帝直系の子孫として、当時ベトナム国民の期待を一身に背負い、日本と共に祖国とアジア諸国の奴隷解放の為にその生涯を捧げました。
それにも拘わらず、1945年の日本敗戦から今日まで、日越両国史家の間で『愚昧なベトナムの皇子』のレッテルを張られ、嘲笑され続けてきたのです。何故でしょうか。。。?
 
 「名門に生まれた者は、世人によってややもすればその力量を軽視されがちであるし、多くの場合その見方は正しいのであるが、すくなくとも霞山に関してはあてはまらないであろう。霞山においては高雅な品格と英邁剛健なる胆識が自然に融合していた希少の例といえる。彼が記した克明な日誌を通読すればその巨大な人格と精緻な識見に驚嘆することになろう。」

                 『筑前玄洋社』より

 クオン・デ候も、霞山公近衛篤麿も、超名門の生まれです。
 その人等が、後世誤った史実が伝わったり、不名誉に汚されるリスクを十分理解して活動してたとすれば、彼らは大義に生きた、それに尽きると思います。
 名誉、名声、俗慾、、、大なり小なり日々煩悩に振り回される私の様な凡人には遥か遠い未知の境地です。。。😅😅💦

 これは私見ですが、クオン・デ候は、犬養毅元首相のことを『慈父のような存在』と言ってますが、名門に生まれた責務、運命として目指した人物像と政治的スタンスは、日本の霞山公近衛篤麿ではないかと感じてます。
 クオン・デ候が、日本軍仏印進駐の前年、昭和14年(1939)にベトナム義党の大同団結を目指し結成した会派の名が、『ベトナム復国同盟会』だったことも、偶然ではなく特別な意味があると私は密かに考えています。。。

  
 

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

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