ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(2)

 ベトナム独立革命家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)は、日露戦争直後の1905年4月に日本へ到着しました。その頃日本に亡命していた中国人留学生、そして勿論沢山の日本人に助けられます。梁啓超の紹介で一番初めに面会した日本政府の要人は、犬養毅子爵と大隈重信伯(以下敬称を略します)でした。
 もう何度も白状していますが、、、元々歴史嫌いの女子だった私でも、さすがにこのお二人のお名前(だけ…)は知っていました。。この二人との面会以後は、紹介を受けた為だと思いますが、沢山の日本人の名前が潘佩珠の自伝書の中に登場します。 
 犬養毅の紹介を受けて孫文(そん・ぶん)と知合い、孫文の紹介で大陸浪人宮崎滔天とも面会します。大杉栄、堺利彦という当時社会党の領袖で幸徳秋水の同志というお二人とも知り合ってます。潘佩珠は、『自判』の序文で自身の性格について、
 「人と接するとき、もしその言の半分でも聞き取って、少しでも善が有ると思えばこれを一生忘れなかった。仲間からの忠告・痛罵に関して言えば、更に嬉しい気持ちでこれを拝聴した。」
と、謙虚に数少ない長所だとこれを挙げています。本当に、分け隔てなく付き合い易く、誰にでも好かれる人柄だったのかと想像しています。

 また、潘佩珠とベトナム国の皇子、クオン・デ候の日本渡航後、武器購入は一旦諦めて、国内にいるベトナム青年へ海外留学運動『東遊(ドン・ズー)運動』を鼓舞しましたが、そのお蔭で毎日ひっきりなしにベトナム青年が祖国を出奔し日本へ渡航して来るようになりました。総勢200人名近くのベトナム青年殆どを快く受け入れてくれたのが、当時の東亜同文会の東京同文書院でした。⇩
 「東亜同文会の経営する東亜同文書院に入学させてもらうことに一決」、「東亜同文会の会長は、貴族院の有力者鍋島侯爵、学院長は細川侯爵、幹事は根津一…」「諸侯は私財を投じて5教室を新たに設けてヴェトナム留学生を全部収容してくれ」て、ベトナム留学生のために「特別日本語教室」も設置してくれたそうです。東亜同文会は、近衛文麿氏の御父上、近衛篤麿氏が中心となり組織されました。同文会の同文書院は、元々創設は、「東京・落合村(新宿区下落合)の近衛邸敷地」(『安南王国の夢』より)内がスタートだったそうです。
 当時のベトナム人にとっては、本当に有難く、感謝しても感謝しきれない事だったと思います。潘佩珠の自伝に、歴々の幕末雄藩のお殿様の名字が、、、と、訳も無く『かっこいい・・・」と思ってしまうミーハーな私は、密かに皆さまを『仏印・オールスターズ』と呼んでいます。。。

 潘佩珠らベトナム人を援助した日本人の中でも、特に当時のベトナム留学生に感謝されて、潘佩珠が自伝でも特にページを割いた人物がいます。静岡の浅羽左喜太郎氏です。⇩
 「1867年、今の静岡県袋井市梅山(旧東浅羽村)に生まれた浅羽左喜太郎は、東京帝大医学部を卒業した後、小田原市(前羽村町屋)に浅羽医院を開業する。(中略)彼は名医であると友に、困っている人をみると見過ごせない気質で、治療費を払えない患者からはお金をとらなかった」(『安南王国の夢』より)というようなお人柄の方でした。

 『潘佩珠伝』の編者である千島・櫻井両先生の巻末解説に、「内海氏が最も感激して書いている浅羽左喜太郎記念碑に関して」とあり、内海氏が実際に1968年に静岡県浅羽村を訪ねたと書かれています。そのせいでかと思いますが、『潘佩珠伝』には、浅羽翁に関しての記述が非常によく書かれていると思いますので、以下に抜粋をさせて頂きたいと思います。⇩
 「(1908年の日本政府からのベトナム留学生解散命令で)万策尽きた潘が、(中略)忽然として救いの手が思いがけないところから伸びて来た。それは彼のいわゆる「大義侠、浅羽左喜太郎先生」の手であった。」
 「前年晩春、(中略)単身東京の丙牛軒に着いた気丈な阮泰抜(グエン・タイ・バッ=阮超のこと)は、アルバイトの口を探して苦学を始めた。ある日粗食と過労のため、街頭で行き倒れ苦しんでいるところへ、たまたまそこを通りかかった一人の紳士が、人力車から飛び降りると応急処置を施し、病人が外国の苦学生であることを知ると、多分の金を彼に惠み、所も言わず、名も告げず飄然として行ってしまった。それから約一年、(中略)阮泰抜が何心なく新聞を広げて見ていると『名医の寄行』という記事が目に入り、読んでみると、かつて自分を助けてくれた無名の紳士がこの人であることに気づいて、初めてその名前と住所を知る事が出来た。」
 「こういう不思議ないきさつが2人の間にあったので、同文書院在学中の全ヴェトナム留学生に解散命令が出ると、阮泰抜は真っ先に浅羽先生の自宅を訪ね、現状を逐一報告、「ご上京の節はぜひ一度うちの先生にもお会いください」と頼み、先生の承諾を得た。浅羽はまず同文書院に行き、阮を自分の家の書生として再入学の手続きを済ませ、学費を納めてその日は帰った。これより浅羽先生の名はヴェトナム留学生の間で大評判になった。」
 留学生の帰国費用の捻出に頭を悩ませていた潘佩珠は、阮泰抜に相談し、浅羽左喜太郎へ手紙を書きます。ずうずうしいお願いの返事を心配していると、朝に阮泰抜に持たせた手紙の返事を同日夕には受け取ります。手紙には、「まことに少ないが、家中の有り金全部かき集めてお送りするから、当座のご用にあてて下さい。今後必要の際は遠慮なくお申し越し下されたく、必ず出来るだけの御用立てはするつもりであります。」とあり、一緒に1700円という当時の大金が入っていました。
 
 「それから間もなく、追放令(国外退去命令)を受けた潘佩珠は、最後の暇乞いをするために阮泰抜を連れて国府津の浅羽邸を訪ねた。取次の女中に来意を告げると、先生は自ら玄関に出て2人を迎え握手を求め、挨拶もそこそこに潘の手を取るようにして客間に案内、歓待いたらざるなく、潘の言を借りれば「豪華な日本料理を前に鯨飲劇談尽きるところを知らなかった」という。」
 そうして、その後日本を離れた潘佩珠は、1918年に10年ぶりに日本の土を踏んだ時に、静岡を訪ねました。けれど、浅羽翁は既に故人でした。その為、潘佩珠は「深く大恩の償うに及ばざるを感じ、而して以て知己に謝するなきに愧じ、よって先生のためにその墓前に記念碑を立てることにせり」と報恩記念碑建設を思い立った」という経緯により、この記念碑は静岡の地に現在でも残されているということです。

 以上、日露戦争直後に日本へ渡航して来た、ベトナム独立運動家、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝を中心に、潘佩珠が「誠に敬服した」と書き遺した当時の市井の日本人に関する記述を拾ってみました。
 
 「ふーん、そうか、そんなことがあったんだな・・」と、現代日本人にとれば、あまり驚く様な話ではないかも知れません。しかし、私が30年位前にベトナムに行きました頃、当時本当に沢山のベトナム人からいつもこの手の話しを聞かされるので不思議に思った記憶があります。
 時間が経って理由が判ったのは、当時は沢山の人が、この潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の半生とか伝記、自伝本『自判』を読み、本を通してこの頃の日本人の道徳性を知り、こよなく愛し続けてくれていたのでした。表面には出さないけれども、ベトナム人が心の奥底で本当に敬愛する日本人像は、やはりこれなんだな、と感じる場面が今でも時々あります。

 私がクオン・デ候の伝記を翻訳・出版する事になった経緯は、ここ→クオン・デ 革命の生涯|何祐子|noteに書きましたので、宜しければお読みになって下さい。翻訳・出版許可を取る為に、クオン・デ候のご子孫、阮福(グエン・フック、Nguyễn Phước)家家族会の現在の代表 Liên Quốc氏に連絡を取りましたが、そのLiên Quốc氏は、まず私に潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)『自判』の東京駅の車夫の文章を送ってくれました。日本とベトナムの過去から続く温かい交流と、日本人は昔からこんなに素晴らしい、ということをおっしゃってくださいました。
 
 最近日本に居ますと、在日ベトナム人の犯罪や事件がやたらに多く、農家の果物や家畜の盗難、密売、小売店での万引き、大麻の栽培、密売など、ニュースで見ない日は少なくなってしまいました。その為、私はもう何年か前から少し無気力と言いますか、今の日本では真の日越交流はもう無理じゃないか、と半分諦めモードでしたが、そんな時、クオン・デ候のご子孫から、候が最後まで厚く信頼していた参謀・相棒だった潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の、日本人車夫の記述を送ってもらったことで、何となく、2人から、最後まで諦めては駄目だぞ、と言われているような気がして、それで、今回この記事を書くことにしました。

 ベトナムでいつも犯罪を犯しているだろう人が、海外出張して日本で同じ様に犯罪を犯してますね。真面目な人が日本に来て突然変異を起こし犯罪者に変身する訳はなく。田舎の家族を少しでも楽にしてあげたいと、業者に法外な金額を払って、田舎から出て来る真面目な在日ベトナム人実習生留学生にとっては迷惑且つ気の毒な話ですが、けれど、やはり一番迷惑を被るのは当然普通一般の日本人です。考えて見ますと不思議です。こういう犯罪が成立するというなら、同じパターンで、『日本人がベトナムに行き、犯罪を犯す』スキームも当然成立する筈です。けれど、ベトナムに長く住んだ私は、ベトナムに立派な裏組織ネットワークがあるので外国人に窃盗、スリ、密売のナワバリ荒らしをさせないからこのスキームはあり得ない、と理解します。すると、結論は結局『もう日本は怖くない』状態なのだ、ということが明確なのかと思います。
 近年の、過度な日本裏社会の浄化政策の結果、昔からあった日本の裏組織が弱体化すれば、外国人犯罪者にとっては天国のようです。今までもでしたしこれからも、日本の警察がこれを取り締まれるシステムがないです。せいぜい、ベトナム犯罪者へのベトナム語通訳を増やすのが関の山でしょうか。
 何が言いたいのかといいますと、やはり、昔はどうだったのか、両国の間には何があったのかと、私達一般レベルで1人1人が今こそ思い出し、認識を明確にする必要があると思うのです。日露戦争直後に日本を頼って来てくれたベトナム人達を、当時の私達日本人は、本当に親切にして助けたし、ベトナムの人もまた、それに応えてくれたし、感謝して本に書き遺し、今日まで子孫に伝え続けて来てくれました。
 それが、本来の日本とベトナムの姿であったし、これからも当然出来るはず、あるべき姿です。
 日本で犯罪をするベトナム人が大量増殖している現在の姿が、異常事態の発生中なんだと、警報を鳴らしたいと思います。
 異常現象の発生は、自然界では赤潮とかバッタの発生とかありますが、物事の発生メカニズムには全て明確な原因がありますね。
 日本で増えるベトナム犯罪者の存在により、両国人の間にお互い不安感や侮蔑感、排斥感が生じて摩擦が発生したら、一体誰が得をするのか?
 最近ずっと考えています。

ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(1)|何祐子|note

 


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