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ベトナム独立運動家と小村寿太郎(こむら じゅたろう)

 

  これまで、先の記事仏領インドシナと戦前の日本人|何祐子|noteベトナム革命家と孫文(そん・ぶん)|何祐子|noteなどなど、ベトナム独立革命家潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)ベトナム皇子クオン・デ候の自伝にお名前が挙がる日本の要人を順に取り上げてますが、今回は『小村寿太郎氏』です。。😊😊

 えっ?!、と意外に思われるかも知れませんが、小村寿太郎閣下は、日本政府がベトナム皇子クオン・デ候ら東遊(ドン・ズー)運動留学生に対して『留学生解散』と『国外退去命令』を出した時の外務大臣(第2次桂内閣1908年8月27日~1911年8月30日)でした。。😅

 小村寿太郎氏と云えば、日露戦役に全権大使としてロシアと戦後交渉を行い「ポーツマス条約」を調印した外交官として有名な方ですね。
 仏印進駐第2次近衛文麿内閣外務大臣だった松岡洋右氏は、昭和16年(1941)の著書『興亜の大業』の『第3章 大陸の先駆者満鉄』の中で、『満鉄と3先人』「児玉源太郎大将」「後藤新平伯」そして「小村寿太郎公侯爵」を挙げ、この3人の「不滅の功績を、独り満鉄社員と謂わず全日本国民は忘れることは断じて許さる可きでないことを信ずるものである。」と書いています。
 
 話をベトナムに戻しますと、日本政府の『ベトナム留学生解散令』東遊(ドン・ズー)留学生大半が帰国し、クオン・デ候も福岡門司港から上海行の船で出国し終えた1909年(明治42)12月11日、日本外務省は漢語で書かれた分厚い封書を受け取りました。

 宛名は「大日本帝国外務大臣小村寿太郎閣下」、差出人は「越南(ベトナム)の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)」

 祖国同志の期待を背に決死の覚悟で扶桑の国・日本へ遥々やって来たのに、西洋人の脅しに屈して『同文同種』のベトナム人を追い出すとは…。憤った潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が、時の外務大臣小村寿太郎へ送った書が外交史料館に残されており、後藤均平著『日本のなかのベトナム』に要約が載っています。⇩

 「本年10月に、日本国政府は越南国の王族クオンデを国外に強制追放した由、フランス人は彼を追補中との報を得た。
 クオンデとは何者ぞ。アジア黄色人種の国ベトナムの一王子である。なんの罪で強制退去させられたのか。
 …19世紀以来、白人は雷の如く稲妻の如くアジアに浸出した。(中略)かくして白人がつくる市場に集まるアジア人は牛羊も同様。このことは、数年前のカナダ、サン・フランシスコの日本人移民が受けた非人間的な処遇を見れば、今更論ずる必要はあるまい。
 かのクオンデは一個のアジア人、アジアの一国家の一皇族である。彼は、(中略)万国公法に照らしても、なんら罪を犯してはおらぬ。(中略)あらゆる犯罪に関係ない純潔無垢の人間であり、顕彰に値する人物だ。何故か。彼はアジア人として、欧州人の牛馬奴隷となるを拒否している。フランス人が彼を追補する理由は、ここにある。
 …然るに、堂々たる大日本帝国が、強国文明を自認する日本が、この罪無有功の人物を敢えて許さず、白人の傲慢を助長させる。これではわれらアジア人の権利は益々無くなり、百年後には、白人駆使の下に屏息すること疑いなく、さればこそ第一に、私はアジア人のために悲しむ。
 第二に、この度の追放処置については、大日本帝国のために悲しむ。…(中略)国力を出し惜しんでフランス人に諂った日本を、フランス人は何と見たであろう。(中略)
 …この度のクオンデ追放の処置は、故に甚だ失態だ。文明国日本の外務大臣なら、フランスに対してこのように発言すれば良いだけだ、

 ”貴国保護下にあるベトナムの民は、即ちフランスの国民だ。貴政府の治政が円満、重刑も苛酷な税金もなければ、ベトナム人の心を繋ぎ止め得るだろう。…1人クオンデを捕えても、直ぐに次のクオンデが現れよう。(中略)…貴フランス国は、本件の措置をやすんじて我が国に任せ、万事ご心慮くださるな。”
 
 小生は野蛮国の生まれだが、文明人たる貴大臣にあえて文明の大義に則りこの言を差し上げる。何か間違いがあれば教えて頂きたい。或いは閣下の怒りを買うやも知れぬ。その時は喜んで召喚に応じ法廷で争い、白洲で即刻フランスへ引き渡されたとて、もはや死も恐れませぬ。 
  大日本帝国外務大臣小村寿太郎閣下   
                越南 潘佩珠拝 」

 ベトナム人が当時置かれた状況を知れば、この無念の心情は理解できます。(⇒安南民族運動史|何祐子|note) しかし、これは物事の「上辺」、では「内実」を検証したいと思います。
 先ず、基本的にベトナム人は過ぎた出来事に”くよくよ”しない民族性で、大前提です。(長くベトナムに住んだ私は断言します。😅)
 
 小村外務大臣に抗議書を送った潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏は、犬養毅氏柏原文太郎氏の説得も空しく、大半の留学生が帰国してしまった1908年秋頃には、今後はもう日本に頼れないことを痛感します。そして早速、先の記事の通り宮崎滔天氏のアドバイスを思い出して、日本に居た中国、インド、朝鮮、フィリピンの留学生や革命党要人らと『東亜同盟会』を結成するなど活発に活動を初めたのでした。

 一方、クオン・デ候はどうでしょうか。クオン・デ候は、後の自伝インタビュー(1943)で「国外退去」についてこの様に述懐してます。

 「…伊代丸が門司港を出港したのは、1909年10月26日(明治42年)。(中略)…国際社会は、実より謀り事を優先し誰も情など持たない。…更に言えば、敵は強大な武力と狡猾な外交手段を持ってして、自己に有利な状況を作り出しているのだから、 私たちの失敗は当然の結果であり何も不思議はない」。
 
そんな状況下でも、日本政府が「頑としてフランスの手に引き渡さなかった」ことや、フランスの追捕から自分を守る為に「最善を尽くして」くれたとを日本政府に感謝しています。 
 この、「最善を尽くしてくれた」とは、何を指しているのでしょうか。

 それは、先の記事「東遊(ドン・ズー)ベトナム留学生に『お父さん』と慕われた柏原文太郎」に書いたように、「柏原文太郎氏が外務省に掛け合ってくれた旅費千円」のこと。この時柏原文太郎氏が掛け合った相手、そして裁可を出した人、、、その人こそ、小村寿太郎外務大臣ですよね。

 もう一つ、先の記事「ベトナム独立運動家が語る、ベトナム人特性とその管理の難しさについて」に、当時上海総領事代理だった松岡洋右氏が、門司港から出港したクオン・デ候一行の上海上陸顛末を分析し結論付けて外務本省宛てに報告書」を送ったと書きました。この上海上陸顛末の一部始終を上海総領事代理(=松岡洋右)に見届けさせ、調査・事後報告を送らせた、その人こそ、小村寿太郎外務大臣ですよね。。

 感傷論を先行させれば、確かに「国外退去処分」は、日本の非人道的な「裏切り」として今日まで対ベトナム自虐史観「印籠」になって来たように思います。
 しかし実際には、無計画に膨れ上がるベトナム人留学生の管理には当の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も頭を痛めており(こちら⇒ベトナム独立運動家が語る、ベトナム人特性とその管理の難しさについて )、滞在資金の困窮で自殺者まで出ていたのです。(こちらベトナム志士義人伝シリーズ④ ~陳東風(チャン・ドン・フォン,Trần Đông Phong)~ )

 確かに、極東の片隅に逃げ込んだ彼らは、又しても世界の荒波に蹴り出されました。日本政府は残酷冷徹だと、ベトナム人は一時絶望的になったでしょう。しかし、その後の諸々の出来事を整理すれば、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自身もあれが「世界(アジア各国)の同胞と連絡協力することの重要性を認識した」きっかけだと発言している様に、ショック療法を受けた彼らが覚醒し、ベトナム革命運動の転換-世界へ視野を広げる新展開に繋がった側面があるように思います。
 それが単なる偶然の産物かは、上述⇧の様な日本外務省の「表面上に於ける冷徹な退去処分の水面下での手厚い保護」という史実断片を整理すると、どうもそうだとは言い切れず、逆に全てに外務省が絡んでるなら、その時の組織トップで責任者だった小村寿太郎外務大臣が、この計画を主導した張本人ではないかとも思えます。
 同時期の、宮崎滔天氏の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏へ「世界へ目を向けろ」アドバイスも、もしかしたら偶然じゃないのかも。。。🙄🙄😊(同じ意見の方、是非お友達になって下さい。。。”絶対いないよー-!”←我が家のJKの声。。(笑)) 
 
 さて、しかしです。。。1908年(明治末)頃には他国民族へ「世界に目を向けろ!」と余裕のアドバイスをしてた日本も、時を経て昭和に同じ苦境に立ちました。
 
 「…然るに不思議にも、我が国に於いては責任ある人の間にまでこのデフィーチズム(敗北主義)が侵入して来た。(中略)…デフィーチズムは直訳すれば敗北主義であるが、私は之をお宗旨と考えている、即ち敗北宗である。敗北宗のお題目たる、平和と国際協調はまことに美しい。しかし、(中略)如何に美名麗辞を並べても、結局は我が国の名誉と、利益とを犠牲にして譲り退くのである。…ただ退却あるを知って進取を欲せない、それが敗北宗の正音である。」

 この文章⇧は、松岡洋右氏著の「興亜の大業」(昭和16年)の「満州事変の意義」項です。
 兎に角、「満州事変前の日本には、ゾッとするような恐るべきデフィーチズム(敗北主義)」と、「御下がりの好きな思想家が多い、彼等は英米追従でなければドイツ崇拝」だったと言うのです。
 ええと、💦💦「西洋の御下がり思想」って。。。もしかして、カーボン○○とか、SDG△△、LG▢▢みたいなヤツ。。。??(笑)🤣🤣

 満州事変前(1908年頃から既に20年以上経過)の日本は、「譲歩・退却のみの外交」に「西洋の御下がり思想」が蔓延し、社会全体が鬱屈・屏息状態にあった。満州事変は「欧米追従、若しくは敗北主義に対する日本精神の発奮反撃」で、これで瀕死の日本精神が蘇ったのだと言います。。。

 私は田舎の普通の主婦なので、今日も明日も明後日も、昨日と変わらず平凡で何事もなく過ぎ去って欲しいのが小さな願いですけど、やはり個人と違い社会なんかは、衣食住が足りると途端に弛緩が始まり、文化・芸術に刺激を追い求め、勤勉で切磋琢磨だった事など忘れ去る。社会風紀が乱れても、自浄作用は簡単に発動せず、やはり何か大きな外的ショックが社会に与えられて初めて人々の眼が醒めるのが常なんでしょうか。。
 でも、、、外的ショック怖い。嫌だなぁ。。(笑)😭😭
 
 
 
 


 

 

 

 
 
  
 

 

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