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ベトナム独立運動家が語る、ベトナム人特性とその管理の難しさについて

 先日、仏領インドシナ時代のフランス植民地政府が抱えていた、土着民ベトナム人の管理の実態と失敗を、戦前の古書から抜粋して纏めた記事を投稿しました。(→フランスの仏印植民地運営の失敗から見るベトナム人社員を管理する難しさ|何祐子|note )
 意外にも沢山の方が読んで下さいましたので、やはり現代に於いてもベトナム駐在日本人ビジネスマンの方々は、大小あれども同じ問題を抱えているのかな、と感じました。。。😅

 日本人の方でベトナム駐在1年もすると、何となくベトナム人の中に明らかに3つのグループがあることが判ってきますね。北部人と中部人と南部人のグループです。海外では日本人も東北や九州出身の方達などは、同郷出身者で集まったりとても仲が良さそうで関東県出身の私には羨ましかったです。
 しかしです、ベトナム人の北部人・中部人・南部人の愛郷心といいますか他郷融和性の低さと言うものは、日本人の比ではない様に思います。この融和性の低さは、外国人管理者にとっては常に頭痛の種ですが、実は同じ様にベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)も、クオン・デ候と共に起こした出洋愛国運動『東遊(ドン・ズー)運動』でベトナム全土から日本に集まって来た学生の管理に頭を悩ませ、地域特性を分析したりしている面白い記述がありますので今日はそれをご紹介したいと思います。

 まずその前に、ベトナム史を少しおさらいしたいと思います。
 先の記事にも書きましたが、ベトナム史では、1428年黎利(レ・ロイ)が明の軍隊を打ち破り開いたのが後黎朝時代。その後1533年から黎皇朝の下に北部領主鄭(チン)氏、南部領主阮氏がそれぞれの領地を治めた時代を南北朝時代。1788年に西山阮(タイソン・グエン)党の反乱で黎家は潰滅、西山阮朝時代開始。その後、西山阮党を倒した阮福瑛(グエン・フック・アイン=阮朝開祖嘉隆(ザー・ロン)帝)が1802年に南北再統一、阮(グエン)朝を開きました。

 1533-1802年ですから、約260年位ですね。かなり長い期間南北で別々の領主の下に施政が行われてことになりますが、鎖国していた訳でもなく往来は普通に行われていたと思います。しかし、西洋からやって来た侵略者フランスは、北・中・南を完全に分断しました。

 「フランスは清国の李鴻章(り・こう・しょう)と交渉を進めて天津条約を締結(1885.4.27)。この条約で、ベトナムはフランスの保護国であると清国に明確に認めさせた。
 この頃、ベトナムは完全に3つに分断された。長い間一つの文化、歴史、風習、言語を代々受け継いできたが、分断された南圻(ナムキ)、中圻(チュンキ)、北圻(バッキ)の3圻地方でそれぞれ異なった政策、法律が施行され、他所へ行くには通行許可証を必要とし、恰も独立した別国のようになってしまったのである。」

     チャン・チョン・キム氏編『ベトナム史略』より
 
 これ以後のフランスは、ベトナム義軍制圧のため、現地雇用したベトナム人兵を派兵し、同族同士で殺し合いをさせるという極めて悪虐な方法を使いました。これは、その後のインドシナ戦争(ベトナム戦争)(1945-1975)へ続く民族間対立抗争に繫がります。

 さて本題ですが、明治期に日本にやって来たベトナム人留学生たちのことです。
 続々と来日するベトナムの若者を、政治家の犬養毅氏や柏原文太郎氏の斡旋により『東京同文書院』で引き受けてもらえることが決まります。
 人数が増えた学生の放課後の取り締まり目的の為に『ベトナム公憲会』を組織したり、1907年5月頃には、一人残らず入学先も下宿先も決まりました。一週間の内2,3日は、同文書院の教官丹波中佐が学生を野外へ連れ出し軍事演習にも余念がなく。。。けれど、順風満帆なはずの潘佩珠の心には、このころ2つの悩みを抱えていたと言います。

 「1は、如何にして学生全体を更に一体化させるか。2は、如何にして財政的な後援を継続させるか。」
 「学生に関する悩みであるが、3圻の人士たちは、お互いもうかなり以前から殆ど接触がなかった上、気質も習慣もこのように全く異なっている。

 南圻人は、性質が純だが、気短で挫け易い。物質面への執着傾向が強い。
 中圻人は、忠実・勇敢を重んじ、冒険好き。元来の態度は粗笨で、己の感情を周囲に融合しない。
 北圻人は、文飾に偏りすぎる。誠実さは極く少ない。」

 
 このように、それぞれの地方人の特性を分析してます。。なんとも、ベトナムに長く住んだ日本人なら、言い得て妙だな、と思わずにんまりしてしまうのではないでしょうか。。。😅😅😅 私は、いつも潘佩珠の分析力には脱帽し、多分物凄いナイーブな人だったのかと想像しています。

 潘佩珠伝』の著者、内海三八郎氏も、ご著書の中で自身の所感をこう述べています。
 「筆者の長年の観察では、南部人はさしづめ日本なら経済観念の発達した関西人というところであろう。これは昔王家が南部へ進出した当時、明末の残党3千人を利用、彼らをカンボジア領の南部に送り込み(1679年)、メコンデルタの防備と開拓をさせているところへ、明、清人が引き続いて後から入ってきた為、彼らの勢力が強大となり、南部人は物心両面において彼ら中国人の影響を直接強く受けた為であろう。中部は、古来チャンパ人(インドネシア系)の血が連綿として残っていた為ではないだろうか。北部は、2千年来中国人の圧迫を受けて生活して来たので、自衛上彼等はこのように育てられてきたのだろう。」

 戦前戦後と、長い期間インドシナビジネスに携わった内海氏の分析も流石に鋭いものがあります。この原稿を書き上げた時期は1983年頃かと想定しますが、その頃の様子も所感に伝えています。
 「南北人の確執は、全国が共産党の統治下に入った今日でもなお続いているらしい。ボートピープルが後を絶たないのはその証拠ではないだろうか。」
 
フランス統治時代から、ベトナム義軍制圧に現地雇用のベトナム兵を起用したフランス悪政に始まり、アメリカが参戦して泥沼化したベトナム戦争という南北内戦が1975年まで続きました。
 本当に大変な苦しみを味わって来た民族だと、改めて思います。 

 上⇧の、「昔王家が南部へ進出した当時、明末の残党3千人を利用、彼らをカンボジア領の南部に送り込み(1679年)」の部分は、陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『ベトナム史略』に同じ史実が載っています。

 「南北統一前の南朝時代に特筆すべき出来事がある。清に亡ぼされた明の軍人、広西の楊彦迪や、広東の陳上川らが清への士官を嫌い、船50隻で3千人を引き連れて帰化を申し入れ、ベトナム南部へ移住した(1679年)。現在のビエンホア辺りを中心に土地開拓に励み、土着化していった中華系移民の彼等のことを、今でも「明郷(ミン・フゥン)人」と呼ぶ。」
         『畿外候-クオンデ候 祖国解放に捧げた生涯』より

 折角安住の地を得た明人末裔の彼等に、数百年を経て今度はフランスという国難が襲いました。潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)やクオン・デ候の結成した抗仏党の活動費は、後援に財政豊かなこの明郷人(中華系帰化人)の存在が大きかったことは、以前に『ベトナム志士義人伝』朱書同(チュ・トゥ・ドン)の記事にも書いた通りです。 

 結局、「どの地方出身者にも優秀な者がいるが、実際別々の地方から来た学生らを一つに纏めるのは容易なことではない。人を感化し得ない己のあまりの不徳さに恥じ入るばかりだった。」と、潘佩珠は書いています。
 彼ほどの人物でも、3地方から集まった学生を簡単にはコントロール出来なかったようです。 

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)が頭を悩ませた3圻人の融合は、改善せぬまま続いていたのでしょうか、約1年後の1908年5月、ゲアン省からの留学生、陳東風君が自殺をしてしまいます。そのことは、「ベトナム志士義人伝シリーズ」に詳しく書きましたので、宜しければお読みになって下さい。
 潘佩珠は、自伝書『自判』の中でこの自殺理由に詳しくは触れていません。中部の大富豪家の子息だった陳東風君は、実家から仕送りが届かないことを苦にし遺書を残して自殺したこと、そして、「3圻地方の全学生が集まり、葬式を執り行った」とだけ書き遺してます。

 以上、潘佩珠の「ベトナムの3圻地方人の特性と彼等を纏める難しさ」を吐露した文章をご紹介しました。

 もう一つ、ベトナム人行動分析として大変興味深い戦前の記述がありますのでご紹介したいと思います。

 それは、日本政府から「国外退去命令」をうけたクオン・デ候一行が、1909年10月26日に門司港を出港し上海に上陸した時のことです。この時の日本外務省や現地商社を巻き込んでのドタバタ珍騒動の顛末はクオン・デ候が自伝の中で詳述しています。
 この時上海で、たった一人冷静沈着に状況分析をし、見事にベトナム人の行動心理を読みあてた人物がいます。当時上海総領事代理として勤務していた松岡洋右氏です。

 「…ところが柏原文太郎一派の者は、上海の古川鉱業会社支店長の萩野元太郎、同店員神津助太郎、東亜同文書院一派の者たちにクオン・デ保護を依頼していたので、彼らの間で、クオン・デを上海に上陸させ、身柄を隠す計画があった。このような情報を得た松岡は、もし邦人がこのような行為をするようなことでもあれば、小面倒なことが起こるかもしれぬと考えて、動静監視の方針を一変して、こんどはクオン・デの保護を依頼された者たちに断じて事に関与しないように注意する。しかし、(中略)すでに(5日)午前10時ごろ、クオン・デ一行3名は、突然舢板(サンパン)にのって上陸した後であった。」 
 「そこで松岡洋右は、直ちに関係者に対し取り調べを開始する。そのうち、午前11時に上陸したうちの一名が突然古川鉱業会社支店へ、そして午後2時頃にもう一名も上海総領事館に逃げ込んで来た。先の1名が言うことには、”自分は2人に遅れて上陸したが、直ちに日本に引き返したい。学校に在学したい。”と言い、総領事館に来たもう一名は、”上陸後、探偵の尾行を恐れて3人各自別行動をとり、自分はようやく当館を探し当ててきた。もし(クオンデ)が仏警察官に囚われたら自殺する。”と言う。しかし、この2名は、言うことを言うと間もなく、クオン・デの行方を捜しに行くと言ったり、或いは買い物に行くと言って立ち去り戻ってこなかったという。」

 
そこで松岡洋右は、「この一件に関して分析し結論付けて外務本省宛てに報告書」を送ったそうです。

「1、当地には、二百人前後のベトナム人が在住していること。
 2、クオン・デらが上陸の際、悠々「ゾック」製行李一個を携帯したこと。
 3、クオン・デに随行して上陸した従者の1人が日本総領事館に逃げ込んだのが、伊予丸を去って約3時間も後のことであること。
 4、上海在住者ですら容易に探し当てられない様な所にある古川支店に、案内無しに辿り着いたというのは不思議であること。
 5、探偵が尾行している形跡があるというのに、大切な主人を捨てて逃げだすというのも不思議であること。
 6、古川支店に逃げ込んだ従者が死生の巷に身を置きながら、買い物のため出て行きたいといって立ち去って、そのまま帰ってこないこと。 」

 「これらを総合して、この事件は事前に上海在住のヴェトナム人などと十分の打ち合わせがあり、クオン・デは上陸後、直ちにヴェトナム人の間で匿われ、従者は日本官民の意向、態度を探ろうとして古川支店や総領事館に逃げ込むという芝居を打ったのではないかと観測し、さらに、もしそうだとすれば、ヴェトナム人としてはあまりにも大胆過ぎ(中略)日本人が秘密に関係しているのではないかと推論している。 」
         
『ベトナム亡国史 他』の長岡新次郎氏解説より

 ベトナムに長く住んだ私から見ますと、「あー、あるなぁ、これは。。」と思えますが、ベトナム人を良く知らない日本人ですと、彼らの行動の真の意図など全然理解出来ないと思います。クオン・デ候自伝『クオン・デ 革命の生涯』を読めば判りますが、この時、古川工業上海支店と在上海日本総領事館に逃げ込んだというベトナム人は両方ともベトナム革命党の上海拠点の人間で、クオン・デ候の同行人ではありませんでした。多分、日本側の動きを偵察に来ただけだと思います。

 しかし、この⇧松岡洋右氏の素早い状況判断と、素晴らしい分析力。。。当時まだ29歳の若き外交官でしたが、周囲から「他にずば抜けた頭脳明晰」と評されただけあるなぁ、、と本当に驚きました。14歳で渡米し、現地の小学校で学びオレゴン州立大学を卒業したという、当時としては異色の経歴を持つ松岡洋右氏ならではの外交力の面目躍如ここにあり、という感じがしましたです。。。(暇人主婦に誉められても・・・かもですけど。😅)

 そして、ここで最後はやはり当時のベトナム随一の教育者、歴史家、儒教研究家であった陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の「ベトナム人特性に関する考察」『ベトナム史略』から抜粋します。

 「知性と精神に関して言うと、勿論ベトナム人にも良い所と悪い所がある。大雑把に言えば頭脳明晰で理解に早く、手先が器用。多くの人が聡明で記憶力に優れ、勉強熱心である。」
 「学識を重んじ、礼儀と道徳を大切にする。「仁、義、礼、知、信」の5道を生活上の指針にしている。しかしながら、もちろん俗物的な所も多く、時に狡猾で反目し嘲笑し合う。通常は臆病、或いは怖がりで平和を好むが、いざ戦闘となれば勇敢で規律を守る
。」

 なるほど、、と思わず納得。。。😅😅😅

 「ベトナム人によく見られる傾向としては、浅薄、挑戦好き。辛抱強くなく、自慢多し。外見を装飾したり、肩書や名声を得ることを好む。占い好きで博打に目がない。お化け悪霊の類話を信じやすい。礼拝事をよくするが、特定の宗教へ熱心に信心するわけではない。傲慢でほらを吹く。」

 やはり、、、自己分析による短所は、厳しくなる傾向があるのでしょうか。。。💦💦
 しかし何と言ってもこれ⇩。私のベトナム人の夫もこれが口癖です。。。

 「しかし、仁の心を持つ故、人に対して優しく、恩義を感じる人々である。」

 
 
  

 
 

 


 
 

 

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