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ベトナム志士義人伝シリーズ③ ~朱書同(チュ・トゥ・ドン)~

 

「南の岸辺から2百余海里の沖に島がある。崑崙(コン・ロン)島という。面積わずかに方百余里。60年前までは無人島であった。岩層連なり続き、そこは海禽魚卵に満ちていた。嗣徳(トゥ・ドック)年間にフランス人は、この島を流刑の地と定め、重犯を送って苦役させたのである。」

 『越南義烈史』にこう書かれた流刑島、崑崙島(=現在のコンダオ島)。フランス植民地政府により多くのベトナム人が流され、そこで絶命しました。当初、この島は盗賊の幽閉地、重労働者の地として、人々は怖れ慄いていたといいます。
 けれども、フランスに反抗した罪で多くの義人が流されていくようになると、島内の様子は変わって行ったそうです。
 「近頃十数年来、ここは一変して、志士仁人、英雄豪傑の、まことに結構な堂宅となった。いやしくも血の気のある志士、崑崙に行けぬのを恥じるという有様、いやはや奇観である。」

 「吾が同志の横禍をつらつら見れば、最も重い死刑の次は無期徒刑、その徒刑者を最もにぎわした宮殿こそが、この崑崙島」
 こう表現された流刑島に、阮誠(グエン・タイン)と共に流され、絶食し命を絶ったのが、朱書同(チュ・トゥ・ドン)氏です。
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 朱書同の先祖は、明人である。
 すじを立てて清国に仕えず、海を渡って広南に移り住んだ。3代目の時、ベトナム国籍を取った。すなわち広南省のディンバン府の明郷(ミン・フゥン)が本拠地である。
 父が遺した豊かな遺産を、惜し気もなく義援金に散らした。妻子がなじっても何食わぬ顔。フランス人が広南省に腰を据えると、勤皇党へ義金を出し、南盛(阮誠)とは刎頸の中となった。
 阮誠を訪ねた潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)に引き合わされた朱書同は、
 「私は老いて無能だから、仕事は勤まらぬ。だが、諸君の義挙に援助をいたそう。はや落ちぶれた家なれど、工面して贈り申す。」
 そうして、一行の日本行きの際には、田地屋敷を抵当に入れて350元をひねり出し、渡航費を助けたのだ。
 このことを知ったベトナム人の密偵が、フランス公使に密告した。それを恨みに思っていたフランスは、1908年の「抗租事件」の時に煽動罪で逮捕され、訊問にも口を割らない朱書同は、崑崙島に流されたのだった。

 拘監獄の相部屋は、阮誠(グエン・タイン)だった。
 二人は一日中対座って過ごした。阮誠は飲食談笑平時の通り、怒る顔せずおそるる色なし。けれど、朱書同は違った。平生よく食べよく飲む人だったが、酒を止め、飯も絶った。面会の家の者に差し入れさせたのは、清水を一日に数壺で、正座して水を啜り、啜り終わればフランス人を痛罵した。口が乾けば水壺を引き寄せて、喉を潤してまたフランス人とフランスの狗ども(=ベトナム人の密偵のこと)を怒り罵倒しつづけた。
 阮誠(グエン・タイン)は、それを見て笑うと、朱書同は喰ってかかった。
 「あんたは平生、気は一世を掩うなどとぬかしおって、入獄したら婦女子と変わらん。どうして骨無し腑抜けになった?」
 しかし、阮誠は笑うだけだった。
 米も漿(しょう)も口に入れずに十余日、ののしりながら獄中で亡くなった。時に52歳。

種固非吾矧是仇 (種族は固より越族ならずとも仇族ならんや)
先人排満我排欧 (先祖は満人を拒み 我は欧人を拒む)
袛今沱海濤声怒 (まさに今 沱海の波声怒れるは)
想像當年罵賊囚 (思うに当年 賊を罵りし囚(きみ)がため)

     ~獄中で朱書同が作った詩から抜粋~

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