#20

自分自身が人から良く思われてるなんて思ったことが一度もない。
必ず『この人は私のこと、××って思ってるな・・・』ってネガティブに考えてしまう。その結果、少しよそよそしく話をしてしまうし、本音なんかは絶対に誰にも話せなかったりする。#19で書いたけれども、"本当の自分"が分からなくなる理由の一つだと思う。私は"人に嫌われたくない"って気持ちが人一倍強いんだと感じる。だから自分の悪いところやダメなところは人前では出してはいけないって気持ちが強くて常に気を張ってしまっている。そうして嫌われないためには、人に合わせるのが一番手っ取り早い。その時々で合わせることが多くて結局自分が分からなくなる。
人間は誰しもが仮面を持っているのは知っているけれども、その他人が持っている別側面が凄く怖い。"自分が悪く言われているんじゃないか"、"あの時、あの発言や行動は失敗だった"、"あの人が求めてたのはこっちの行動だったんじゃないか"、そんなネガティブな思考に埋め尽くされている。

それに付随する形で、他人の視線が凄く怖い。
"優しい目"や"慈しみのある視線"なんていうのを聞いたことがあるけれども、そんなもの一度も感じたことがない。常に感じるのは、見定められているような視線、ランク付けされているような視線、そんなものばっかりで気が滅入ってしまう。
会社に入社した時はまさにこの"視線が怖い"という状態が長く続いていて精神的に相当参っていた。人に会う事が怖かったし、誰かと話しをすることも怖かった。だから、会社の飲み会もあんまり行かなかったし、土日も家にいるか喫茶店でコーヒー飲みながらずっと本を読んでいたりしていた。
1人でいることは、時には寂しさが溢れてくるけれども、他人の視線を恐れなくて良いという安心感がありすごくリラックスできた。
この時は毎週のように土日は実家近くのスーパー銭湯に行って過ごしていた。いる人は全員知らない人だから視線が合ってもそんなに怖くないし、何考えているか分からないけれどもそれが自分に向くことがほとんどないからだ。あのスーパー銭湯が無かったら、どうなっていたか分からない。

このままじゃ流石にダメだと思い、自分が好きなものである銭湯関係のイベントに初めて行った。記憶が間違っていなければ、『ザっくりととのうサウナ入門』の銭湯好きのオフ会が最初だった思う。そこで、自分と同じように銭湯が好きな人達と沢山お話をして、笑って、すごくほっとしたのを覚えている。そこから、日程と自分の体力や精神力が合えば銭湯やサウナのイベントにちょっとずつ顔を出すようになって、仲良くなった方が沢山いる。
そうすると、昔のような人が怖いと言った感情や、視線が怖いということがだいぶ薄れて行った。
もちろん今も、"人の見定めるような視線"や"疑いの視線"なんかは勝手に感じ取ってしまって怖いし、人が持つ別側面に怯えてしまうこともあるけれども随分と減った。
他人にどう思われていても自分は自分じゃないかって言うことが分かってきた。"好きなことは好き"、"嫌いなことは嫌い"っていうことはTPOをきちんとわきまえていれば何も悪い事ではないし、はっきりという事を恐れることは何もないんだなと学んだ。特に"好きなことを好き"ということは何も怖くないし、むしろ同じ"好き"を持っている人達と話すことは楽しいし、活力も貰える。だから、前に踏み出すきっかけだった銭湯好きのオフ会には感謝してもしきれない。

最近は、会社でも他人の視線の恐怖は少しずつであるけれども解消されてきている。でも、やっぱり自分のダメなところを見せることはとてもじゃないけれどもできない。それはこれから時間をかけて解消していくことになるんだと今は思っている。
とある友達から「いつかなんでも全部話せる異性が現れたら、その人ときっと付き合って結婚するんじゃないかな」って言われたことを書きながら思い出した。友人も含め、そんななんでも話せる人なんて中々出会えるものでもない。それでも、そんな奇跡のような出会いがいつかあるかもしれないってちょっと心に希望を持ちながら、今日も私は大好きな銭湯に向かっていく。

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