見出し画像

自分を見失うということ。

僕の1年間の締めくくり、大学入試の2次試験があったので、何日か前から東京に来てました。試験の話はまた後ほど結果がでてからするとして、一旦、久しぶりに東京にきて、強く思ったことがあったので、まとめてみようかなあと思い、こうやって書いてます。

相変わらず、時系列に沿った文章しかかけないので、なかなか読みにくいかなあとは思うけど、ほんの少しでいいです、ほんの少しだけ、めちゃくちゃ目見開いて最後まで1文字3秒くらいずつかけて読んでもらえると、嬉しいなあと思います。あ、はい、ほんの少しだけで大丈夫なんで、最後まで全身全霊かけてお願いします。

内容
1. 自分を見失うということ
2. するめになれ
3. "興味アンテナ" がぶっ壊れる
4. なにを選ぶかより、なぜそれを選ぶか。

1. 自分を見失うということ

お金はいつなんどきもないので、仙台から新宿まで、夜行バスで行きました。新宿に到着したのは、朝の 6時 くらい。根が田舎者なので、とにかく上見て歩いてました。その時に強く思ったのが、とにかく、自分以外全ての物や事、人の流れが早いということ。ポスター、看板、ディスプレイと、とにかく広告だらけだったり、朝っぱらからの人の多さだったり。だからとにかく、ここで自分を持ちながら生きるのは、本当に闘いだなあって、感じてました。

俺自身、もともと人の目を気にするタイプなので、とにかく周りが気になる。そうすると、目だけではなく気持ちも自分以外にいって、肝心な自分自身への関心がポッカリなくなっちゃうんです。だから、そういう僕からすると、これだけ流れが早い中、自分が動じずにいるのはもはや無理なんじゃないかとさえ思います。ほんとに、簡単に自分を見失ってしまう。

まず、「自分を見失う」 という言葉自体がありふれすぎていて、ピンとこないかもしれないので、ここでの意味を定義するとすれば、 「自分の感覚や価値観を見失う」 かなと思います。具体的に例えると、美術の時間、絵の具の色を他人に指示されるような感じです。そもそも理想の絵についてが決まってないなら、その時点では選んでもらう方が楽かもしれないです。ただ、後になってそのキャンバスの色合いが気に入らないものになっていても、それは色を決めた他人のせいじゃなくて、色の選択権を放棄し、誰かに任せた自分のせいです。

もっと抽象的にいえば、「どうしたい」 とか 「何がしたい」 とか、自分のことを聞かれた時、ほんとに自分の感覚や価値観に基づいて "選択しているか" ということです。もしかしたら、"選択させられている" 時が結構あるんじゃないかなって。

じゃあそれはどうしたらいいんだろうって考えたら、「なぜ自分を見失うのか」 というのを分解して、その原因になる感情や、きっかけを探し、自分の中で理解し、ひとつずつ確実につぶしていくしかないのかなと思いました。その原因について考えてみると、大きく2つくらい、ありました。

2. するめになれ

1つ目が、「極端化」 です。これだけじゃあ誰しもが何言ってんだってなるので、がんばって書きます。

わかりやすいところで、Instagram、想像してみてほしいです。ポストにしかり、ストーリーにしかり、Instagram自体が、基本的に人に見せることを主軸に成り立っています。だから、良い評価をもらいやすいように工夫されたもので溢れています。例えば "キレイ" 系だったら、とことん綺麗に見えるように工夫されているだろうし、"かわいい" でも "おしゃれ" でも、なんでもそうです。だから、それらは本物とは程遠かったりもするんです。

Twitterも似てるところあります。"おもしろい" 部分だけをトリミングした動画だったり、誰かの "非" だけを抜き出してもっと悪く聞こえるように変えた記事だったり。そういうものが注目されます。

それらが、ただの作られた "1部" であるとも気づかずに、その1部と自分全部を比べ、「自分って特徴ないな」 って思ってしまうんです。そういう極端なものが多すぎて、自分が大きく揺さぶられるんだと思います。

でもそれらってほとんどが、ただの "1部" であることが多いし、デザインされ、作られたものである場合がほとんどです。そして、"目立つ" と "良い" は絶対に比例しないです。まずこの時代に広がってしまってるそういう価値観から逃れないといけないです。ましてやそういう目立つものと自分の比較なんてなんの意味もない。

そんな感じで、味が濃くて美味しい部分を、さらに味付けしたようなものばかりが目に入ってくるから、なんか自分は味気ないなって思っちゃうんですよね。そんなんじゃなくて、日本食の文化みたいに、噛めば噛むほど味が、旨みがでるみたいな、時間をかけてゆっくり煮込むと本当に何からも負けない出汁がでるみたいな、そういう人を目指すのが最重要ということを、とにかく自分自身が認識するべきだと思います。するめみたいに、なりたいですね。自分で言ったけどちょっとふざけてる?いや、ふざけてません。

3. "興味アンテナ" がぶっ壊れる

そして2つ目は、僕ら消費者に "刺激を与える" 広告で溢れていることです。1つ目とだいたい同じなんですが、違うところは、1つ目の発信源が "個人" だったのに対して、これは企業とか、個人事業主とか、そういうもっと公共的、正式的なものです。この原因を簡単に言えば、目に映るものが刺激的すぎて、自分の内面と向き合うのをおろそかにしてしまう、ということです。

インターネットがまだインフラ化してなかった時代といえば、情報源はテレビ、新聞、看板、雑誌などで、それらはほとんど、"浴びる" 広告が多い感じがします。それに対して、インターネット上では、"浴びる" ことなんてほとんどなくなり、"選ぶ" 事がスタンダードになりました。そうなると、見てもらう側は "選んでもらおう" とします。いままでは勝手に見てくれていたのに、そうしないと見てもらえなくなってしまったからです。

そうするとやっぱり、例えばマスメディアだって目立つものを探し、報道するし、もっと言ってしまうと、誇張とか主観を混ぜてしまったりもしてます。本来事実だけを報道するべきが、それに対する感情をも 付加価値だ〜とかいってつけたりしてます。マスメディアだって競合があるからしょうがないのかなとも思うけど、まあ、なんだかなあ、とは思ってしまいます。例としてマスメディアをあげたけど、マスメディアですらこうなってるなら、そりゃあ企業の広告とか、インターネット上の他の広告はそんなもんじゃないです。

そして広告のプロ達 (デザイナー) が、そうやって見る側の僕達を刺激して、目を引かせようとしているから、僕達はどんどんそういうものに目を奪われるんです。だからほとんどの広告がそういう路線になって闘うようになって、消費者を刺激しようとする広告で溢れてきました。

そういうものに囲まれている時、なんていうんだろう、僕ら一人一人が持ってる 「興味アンテナ」 みたいなものが壊れてしまうんです。好きでもないのに好きと思ってしまったり、嫌いじゃないのに毛嫌いしたり。はたして、その 「興味アンテナ」 、君のはまだ死んでないかいってことなんです。広告は僕らを刺激するようにつくるから、僕らの感情や感覚が麻痺して、頻繁にしかも大きく揺さぶられるようになってしまいました。本来、たまーに感情が揺さぶられる瞬間があるから健康的なわけであって、常にぼこぼこ外から殴られてたら痛いです。だから、自分を見失うんじゃないかなって、思います。

これに対しては、見ないことはもはやできないです。本当に時代の流れであって、つくる側じゃない人達がどうこうできることではない気がしてます。外から入ってくるものが刺激的すぎて、自分の内面と向き合う時間が減ってるから、興味アンテナがぶっ壊れるんだよなあって思ってます。

4. なにを選ぶかより、なぜそれを選ぶか。

原因と、ちょっとした (超曖昧な) 解決策 (の糸口) を書いたけど、結局なにを意識するべきなのかっていうのが大切。大切なんですが、そこがまだ不確かです。まあまず "確か" になることがあるのかって話は置いておきます。ただ、仮説として、外と内の繋ぎ目の部分を、敏感に感じ取ろうとすることは、おそらく、良いアプローチかなって考えてます。つまり、何か外からの情報に対して、自分の中で 「良い!」 とか、「悪い!」 とか、「これがいい!」 とか、そういう反応や選択があった時、なぜ自分はそう思ったのか?それを選んだのか?という部分をできるだけ明確に考えるということです。

普段スマホをずっと触ってると、自分の内面と向き合う暇もないほど、刺激的なものがどんどん流れてきます。だから、もしこういうことを考える時は、スマホを家に置いて散歩するとか、スマホ持たずに友達と遊んだり、旅行したりとかすると、最高なんじゃないかなって思います。なにをするにしてもスマホを触ってると、なんか、その時間、その空間を純粋に楽しめてなかったりして、まじでもったいないです。だから、スマホから離れた状態で、上で言った内面と外面の繋ぎ目について、じっくり考えるのがいいんじゃないかなって思います。

そうすることで、自分は何かを選ぶ時、実はこんな基準が一貫してたんだなって気づけて、結果的に自分の価値観を理解し、興味アンテナも狂うことなく過ごせるんじゃないかなと思います。自分と自分以外の繋ぎ目を確実に理解していくことができれば、イメージの中で自分がどんどん型どられていくし、外との干渉も減ります。そうしていけば、上で書いたような、自分の人生において 「色を選ばせられる」 ことも、比較的少なくなっていく感じがしてます。何を選ぶか、よりも、なぜそれを選ぶのか、を考えるべきです。自分の感情の変化に敏感であろう。

長くなったけど、最後まで読んでくれた人がいたなら、ほんとに嬉しいです。よかったら 「これ、なんで?」 とか、「これは違うと思う」 とか、「しゃしゃんな」 とか、意見もらえるともっと嬉しいです。ありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?