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やめます

 突然、すべてが嫌になった。そんな気がしたが、実はそれは突然ではなく、私はずっとぼんやりとすべてが嫌で、すべてが嫌だったんだということに、ようやく気がついた、というのが正確かもしれない。いや、正確じゃないかもしれないけれど、そんなことはどうだってよかった。私は、私をやめるのだから。

 すべてが嫌になった私は、嫌なことはみんなやめてやろうと決めた。すべてが嫌なのだから、すべてをやめなければならない。手っ取り早い方法は、さくっとこの命を絶ってしまうことだろうが、少し考えてそれは却下した。ひとつひとつ、流れが止まる瞬間を実感しながらやめていきたいと思った。最初に生きることをやめてしまえば、生の中にあったり生の脇腹に付随していたりする細々とした複雑なあれこれについては、なんだかわからないままうやむやにやめることになってしまう。それじゃだめなのだ。それに、もしそんなやめかたをしてしまっては、私はすべてをやめた私がどうなっているかを確かめることができなくなってしまう。できるなら、自分を見つめることは一番最後にやめようと思った。

 では、なにからやめるのが適当か。生よりも小さいサイズのものからやめていかなくては。まずは、嫌だという気持ちはあるものの、やめるのに勇気が必要なものをやめるのがいいかもしれない。断捨離では、最初に思い切ったものを捨てるとその後の動きに弾みがつきやすいのだ、とこの前見るつもりもない昼のテレビでやっていた。
 私はハッとなってテレビを捨てた。他なる力に流される人生を断ち切ろうとしているのに、見るつもりのなかった昼のテレビを参考にしてしまう自分が嫌になったのだ。
 テレビをやめたところで、特に私はなにも変わらなかった。テレビの登場で人々の生活は大きく変わったというが、その変化は不可逆的なもので、もはやテレビがなくなっても私たちの生活はなにも変わらない、ということか。あるいは、世界中のテレビが全部なくなれば少しはなにかが変わるのかしら。気になったが、自分のこともやめきれていないのに他人のなにかをやめさせる余裕などあるはずがないのだから、とりあえず気にするのをやめた。

 テレビを捨てた弾みで、家中のいろいろなものを捨てていった。家はきれいになっていったが、途中から自分はなにかをやめているのではなく、ただ断捨離をしているだけだということに気がつき、捨てるのをやめた。そのとき、自分がしようとしていることの途方のなさを思い知った。
 私は、やめる、ということをしようとしてしまっている。究極には、私はそのこともやめなくてはならないはずだ。やめることすらやめるためには、やめたいと思うことすらやめるためには、やめたいと思うことすらやめようと思うことすらやめるためには・・・・・・とにかく嫌なことをすべてやめ尽くす地点へ到達するのを目標に励むしかないか。それも、やめることへの執着の芽生えぬように。いや。問題はそんなに単純ではない。私がなにかをやめようと思ったとき、即座にやめることをやめる力も働かなくてはならないのではないか。それとも、そういう思いこそが「やめることへの執着」に他ならず、その執着をこそやめなくてはならないのか。

 堂々巡りにも似た私の思考は、言葉で考えることをやめ、思考は私の身体の上に粘度のように塗り盛られていった。思考の塑像はみるみる膨れ上がり、なんだかそれは宇宙のように見えてきた。宇宙の膨張はあらゆる事物を呑み込んで、また、あらゆる事物も宇宙のように膨らみ他の宇宙を呑み込んで、すべては境界を持つことをやめた。なんだか、嫌なものがほとんどひとりでに、すさまじい勢いでやめられていくような感覚がしてきた。やめられていくひとつひとつにおいて、やめたという実感もしっかり伴って。これが三昧というやつか、私は現代のブッダになったのだ。
 と、みっちり人が詰め込まれた箱に切れ目が生じ、次々に人が外に押し出されはじめた。後ろから押されながら、私もなんとか箱を出る。人々は巨大なひとつの塊のような姿をとるのをやめ、個々の姿を取り戻し、それぞれの職場へ黙々と歩いて行く。改札を出た途端、ビルの壁に反射した太陽光が目を刺した。
 今日も、嫌だなあと思いながらも職場が近づいていく。今日も、宇宙のことなどもう忘れていた。

〈了〉

おねがい

今「やめます!」という劇を作っていて、そのためのアンケートを実施しています。質問は「あなたが一番やめたいもの(こと)はなんですか?」です。

ひと単語またはひとことから回答いただけるので、もしよかったら協力くださるととてもうれしいです。アンケートは匿名での回答です。200名くらいの回答が集まると最高です。今のところ87名の方に回答いただいています。

回答いただいた内容や集計結果は、7月18日に上演する劇に使用させていただく場合があります。回答はおひとり1回でお願いします。


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