ヒールの高さ
カッ…………カッ……
朝の東京の喧騒のど真ん中。ゴールデンウィークも明けて暑くなってきた新宿駅には半袖の人もちらほらいる。
社会人二年目。最初はかっこいいと思っていたヒールがアスファルトを叩く音も今では喧騒に飲まれたひとつの音になってしまった。
憧れたOLの姿はもうそこになかった。ぎっしり詰まったエスカレーターは上からスーツ、スーツ、スーツ……モノクロの流れに逆らわないように私も味気ないスーツを着るようになった。
エスカレーターを降りて人の流れに身を任せて歩いていく。集団と集団が交差した。日体大の集団行動より高い精度で交わしていく。
ひとりの女の子にぶつかった。派手な髪色、派手なネイル、派手なワンピースに小さなバッグ。学生時代のバカな友達にそっくりだった。
「ごめんなさい」
小さく頭を下げてまた歩き始める。なんだかふわふわする。
「まだ学生なんじゃないか。これから大学に向かって友達と講義を受けるんじゃないか。」
そんなことが頭をよぎる。1年かそこらじゃまだ学生気分は抜けない。こんなんだから上司に怒られるんだ。
「社会人になったんだ」
少し汚れたパンプスを見つめて私は呟いた。肩書きを忘れない為に。
駅を出て屋根が無くなった。梅雨入り前のいやらしい日差しが降り注いだ。
「っつ……」
あまりの暑さと眩しさに目を細めた。
今日もまた一日が始まる。そう思うと心が重たくもたれかかってきた。
「もうすぐ後輩ができるんだからね」
煙たい居酒屋で先輩に言われた。そんなこと私に言われたところでどうしようもない。
「しっかりしなさい」と言いたいのはわかる。でも、しっかりするわけがなかった。
「これ、明後日までにやっといて」
「終わったらこっち手伝って」
指示を受ける。それをこなす。そんな毎日だ。昨日も今日も明日も。
「なんか意見ないの?」
大人たちから突然聞かれる。
「ではこうしてみては……」
「うーん。それは違うかな」
何を言っても断られる。かといって……
「特に、ありません」
「もう少し考えた方がいいよ」
どうしたいんだ。意見を言えば突っぱねられて、何も言わなければ怒られる。
ただ1年経った。1年耐えた。今ならわかるよ。
言われたことをやればいい。形の上で聞いてくるけど誰も私の意見なんか求めてない。それが大人だ。
人間関係なんかいくつになっても変わらない。いい距離を保って揉めないように、怒らせないように。
私はふと立ち止まって、空を見上げた。真っ青な空に真っ白な雲が浮かんでいる。それを見て随分小さい頃を思い出した。
家の近くの河川敷で母親と同じように空を見上げていた。
「あれはぞうさんで、こっちはサンタさん!それであれは……んー、お魚さんかな!」
「そうだね。お魚さんかもしれないね」
真っ白な雲がいろんなものに見えた。動物に見えたり、人に見えたり。
「大人になったらあの雲に手が届くかな?」
「いい子にしてれば届くかもね」
それがどうだろう。大人になっていろんなことを知ったからか、雲は雲だ。他の何にも見えなくなってしまった。
あの頃は何になりたかったんだろうか。どんな夢を見てたんだろうか。
思い出そうとしても思い出せない。それはきっと折り合いをつけたことを思い出したくないからだ。
足が痛い。つま先は詰まってるし、かかとは靴擦れしてるし。でも、大人はみんな履いている。なれると思っていた。私にとって大人の象徴だった。
でも違った。我慢してるだけだった。大人になったんだ、これくらいはもう我慢できる。
ヒールを脱いで裸足になりたい。どこか遠くに行ってみたい。きっとその方が楽だから。
でもできない。しない。大人だから。大人になったんだからこのヒールで歩くんだ。例え歩きにくくたって。
いっそ踵を返してさっきの何もわかってない大学生に説教してやろうかと思った。「人生ってのはなぁ……」
いや、あほらしい。やめよう。大人になったんだから。
おかしいな。大人になったらなんでも手が届くと思っていた。いつかあの空に手が届くと思っていた。
でも勘違いだった。手が届かないものができた。大人になったのにな、
ヒールの高さの分だけ。
〈完〉
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