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【全人類に告ぐ】生きる目的は「死」と向き合うことで見えてくる

【超訳】むやみに死を恐れる必要はない。むしろ、人生が有限であることの恩恵を最大限享受し、人生の意義と目的を見つめ直すべきである。


「死」とは何か  イェール大学で23年連続の人気講義
自作まとめシート

年間3万人近い人が命を断つ日本。不慮の事故、いじめ、パワハラなど亡くなる動機や原因も様々ある。しかし、「人はいつか死ぬ」という事実は、誰にも平等な機会だ。しかし、死は本当に恐ろしいことであり、絶対悪なのだろうか?読了後、死の恐怖に怯えるのは、正しい認識をしていないことにあると感じた。人は得たいのしれないものに恐怖を感じる。しかし、その正体が何なのかという自己認識をできれば不用意に恐れることはない。そういった意味でも死に向き合うことは、生きることを逆説的に捉えなおせる貴重な機会になるはずだ。

私が死んだのはいつか

身体機能をB機能、それ以外の機能をP機能とした場合、人が死ぬのはいつのか?PとBが同時に停止した場合、もちろんそれは人の死である。人の死をどう定義するかは、D(人格説:人格が喪失したときに死亡する説)なのか、C(身体説:機能を果たせないときに死亡する説)で定義が分かれる。さらに人格同一説を採用するなら人格が存在するというのはどこから定義されるのか?つまり、私たちが「人間である」という期間は思ったよりかなり短いということだ。そして「臓器移植は正当化できるのか?」という問題も、死の定義をどちらに置くかにより、いつ死ぬのかの判断基準が変わってくることを理解すべきである。

死はどうして悪いのか?

「残された人にとって悪い」「死ぬプロセスや悲しい思いが悪い」「自分という存在がなくなることが悪い」という見解がある中で「生きていればもっといい機会に恵まれたかもしれない」(剥奪説の考え方)がある。一方で、エピクロスのような考え方も存在する。「死は私にとって悪いはずがない。私は生きているからだ。死は私が死んでいる時に悪いはずがない。なぜなら、その時点で私はもう存在しないのだから」エピクロスの主張は次のような解釈がみえてくる。
(A)ある人にとって何かが悪いことでありうるのは、その人が存在しているときだけだ。
(B)ある人が死んでしまえば、その人は存在しない。
(C)死は本人にとって悪いということはありえない。
かりに「非存在が悪」であるならば、矛盾が生じる。存在可能な人間を悪とした場合、「存在しえたけれど、存在することのない人間」の数の計算式は以下の通り。「女性35億人×女性一人あたり30年×1年あたり卵子12個×男性35億人×男性一人あたり50年×1年あたり365日×1日あたり精子4000万個=およそ3×10の33乗(人)」

不死は人間にとっての最善なのか?

不死であっても「必ず健康である」ことや「貧困にあえがない」ということが伴うことを前提されている。そして、どんなに魅力的な活動であっても未来永遠に終わりがない、解放されることがなく、やり続けることになるという考え方であればどうだろうか?素晴らしい夢もたちまち悪夢に変わるかもしれない。電極をつけてそのような快楽を実現できる装置や手術があったとして、それは恩恵ではなくむしろ、身の毛のよだつような罰にすらみえてくくるとも思えないだろうか?結局、何かを達成しているようで何も達成していない(実績がない)。私たちが望むのは永遠の生ではなく、自分が望むだけ生きられること、人生が提供しうる良いことの享受にあるといえそうだ。

いずれ死ぬ。私たちは人生で何をなすべきか

恐るべきは不死ではなく、人生を台無しにすることだ。必ず死ぬという運命がやっかいなのは、やり直しを試みる時間はものすごく短い。過ちを改めるのための時間は限られている。人生は何もしないには長すぎるが、何かをするには短すぎる。だからこそ、どんな目標、目的に価値があるのかというmことが最も疑問であり、重要な疑問だ。私たちにとれる最高の戦略とは何か?大小の目標を織り交ぜることだ。生きているということで何かを得られるということ保証を得る。人生は良いものである。どんな考え方であれ、「自分の人生をできるだけ価値あるものにしようとすることは理にかなっている」ということは共通している。

人生は質と量どちらが重要なのか?

左と右の2つの人生があったとした場合、自分はどちらを選びたいか?大半の人は左を選ぶはずだ。ところが境遇の良さという観点だけをとると右側の人生の方が望ましい。境遇の良さの量の合計は少ないが、左側の人生が素晴らしいとするなら、人生は質の重みが存在することになる。しかし、寿命が短くになるにつれ、人生の順調さは逓減するかもしれないし、不慮の事故や病気で突然亡くなることがあるかもしれない。そして、自分の寿命がいつ終わるのかというのは誰にも予測できない。そして、それをもし知ってしまうとしたら、その重荷に耐えることはできないかもしれない。だからこそ、「明日死ぬかもしれないと思って今日を生きる」ことは今必要なことだ。

生きることは苦しみであるという考えから始めてみる

東洋哲学は、人生は生きることは苦役であり、マイナスという前提から始まっている。良いものへの執着から自分を解放し、それらを失った痛手から自分を解放し、痛みを最小限にする。自分が存在しなければ何一つ失うこともない。死を自分が消滅するから恐ろしいと考えるのであれば、自己がなければ消滅することもない。人生は苦しみであるという前提にたつ仏教を始めとした東洋哲学には学ぶところも大きい。

死を恐れるのは不適切な対応だ

私たちがあまりに早く死んでしまう可能性が高いことは悲しみであるが、これまで生きてきたのはまさに信じられない幸運である。その悲しみの感情は相殺されて然るべきだ。生き続けることのほうが必ず幸せだということにはならない。それは生きているほうが良いとはもう言えない時点をどこで特定するかによって判断は変わる。しかし、一番大切なのは、生死にまつわる事実について自ら考え、必要以上に恐れたり幻想を抱いたりせずに死に向き合うことである。

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