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エンタメ異人伝 VOL.15 小口久雄

取材関連はやめてくれって言っていたんだよ


生涯現役を口にする小口氏

小口 今日のテーマは「生涯現役」だから。

黒川――こだわってますね(笑)。(昔の写真を見ながら)これ小口さんですか? こんなにやせてました?

小口 やせてたんだよ。見てくれクロちゃん(※)、僕の赤ちゃんの頃の顔
を。(※ 小口さんからはセガ時代から、私はこの呼び名のまま)

写真を追加しました。おそらく30代前半の小口氏

黒川――あ、かわいいですねえ~。

小口 かわいいだろ。でも、オッサンにかわいいって言われてもな。

幼少期自宅近くで撮影

黒川――かわいいのが、こうなるのか(笑)。いやあ、人に歴史ありですね。

小口 面倒くさいから、取材関連はやめてって、ずっと言ってたんだよな。

黒川――ありがとうございます、今日はよろしくお願いします。長野県岡谷市のご出身と聞いていますけども、幼少期の頃に影響を受けたものはありますか?

小口 振り返ると、子供の頃からゲームばっかりしてた。いわゆるデパートの上のゲームセンターとか。あと、僕が小学校ぐらいの頃に第1次ボーリングブームがあって、ウチのオヤジとオフクロもやってたんけど、それに僕も毎回ついていってたのを覚えてる。ボーリング場にゲームが併設されてるんだよ。それで、親がボーリングをしてる間、ずうっとゲームをやってた。当時はまだビデオゲームなんてなかったけどね。

黒川――その頃って、どんなゲームをやられていました?

小口 セガでいったら魚雷戦のゲームとか、分かる?

――『ペリスコープ』(注1)ですよね。

注1:潜水艦の潜望鏡をのぞきながら魚雷を発射し、航行する敵の戦艦を撃沈していくゲーム。発売されたのは1966年で現存する筐体はないと言われている。

当時はクレーンゲームの景品にタバコとか入っていたんだよ

小口 そう、『ペリスコープ』。それと、いわゆるクレーンゲーム。下向きのヤツね(注2)。当時って1ゲーム10円、20円で、小学生だから親からお小遣いを200円とかもらうじゃない。で、親がボーリングしたりデパートで買い物したりしている間、その決まった小遣いで遊ばないといけないわけ。

注2:初期のクレーンゲームはアイスクリームの冷蔵ボックスのような形をしていて、景品を上から見下ろしながらプレイするようになっていた。

黒川――そうでしょうね。

小口 それで、当時はクレーンゲームの景品にタバコとか入っていたんだよ。朝日(※タバコ銘柄)とかエコー(※タバコ銘柄)とかね。確か、朝日が40円ぐらいだったんだけど、それを取るとゲームセンターの管理人のおじさんが30円とかで買い取ってくれるんだよ。それを使って、また遊ぶっていう。

黒川――そんなシステムがあったんだ。すごいことやっていましたね。

小口 その当時はまだ当局もそういうことにうるさくなかったから。しかも、朝日はパッケージにセロファンが付いてないから取りやすかったんだよ。

黒川――そうか、滑らないんだ。

小口 そう。それを知ってたからは朝日ばっかり狙ってた。あと、昔のアーケードゲームってリプレイできただろ(注3)。しかも、1回までとかなかったんで、永久リプレイっていうか、上手かったら何度でも遊べるんだよ。それで、ずうっとやってた記憶がある。まあ、長く遊んでいたいからね。小遣いなくなったら親のところ戻らなきゃなんないし。

注3:当時のエレメカには一定以上のスコアを出したり、特定の条件をクリアしたりすると再度プレイできるようになるものがけっこうあった。

黒川――じゃあ、そこでひとりで遊んでた感じですか。ゲームの世界に浸ったのが、同年代の子供より早い感じですよね。

小口 あんなにゲームセンターに行っていたのは同級生ではいないんじゃない? 普通はゲームセンターなんて行っちゃダメって親が言うし。でも、ウチはけっこう放任主義っていうか、親が割とそういう育て方をしていたんで、それが今に繋がっているのかもしれない。

小学校時代

黒川――ちなみに、ご実家は何をされていたんでしょうか。差し支えなければ教えてもらえますか?

小口 サラリーマン。

黒川――サラリーマン家庭だったんですか。でも、ずいぶん自由に育ちましたね。

小口 そうだね、自由だったね。今でも部下には仕事を強制しないやり方をしてるけど、それは自分がそういう育てられ方をしたからかな。仕事だからできる限り本人の好きにやってもらった方がいいと僕は思ってるわけよ。なので、やりたいことを聞いてインプットして、その人に合うような仕事をやらせるようにしてる。クロちゃんはよく知ってるよな。

小学校時代 自宅にて

みんながその気になって喜ばせようと思わないと、いいものはできない

黒川――それは僕も正直感じています。

小口 そういえばこの前、菅野顕二君(注4)に言われた。

――『クレイジータクシー』(注5)開発者の。

小口 うん。「あれは小口さんがいたから、やれたってことが最近分かりました」って、やっと感謝された。

注4:セガで開発プロデュースを務めるクリエイター。AM3研やヒットメーカー時代に『トップスケーター』、『クレイジータクシー』シリーズなどの人気作を手がけた。そのほかの代表作は『恐竜キング』、『ガンダムコンクエスト』など。

注5:菅野顕二氏が手がけた1993年発売のレーシングゲーム。タクシードライバーとなって客を目的地まで連れていくというもので、早く到着するためならどこを突っ走ってもいいというタイトル通りのクレイジーぶりが話題を呼び、スマッシュヒットとなった。

黒川――このあとでもう1回触れますけど、小口さんは人を育てたり伸ばしたりする……もちろん、ご自身の才能もありますけど、むしろそうやって人のやりたいことを生かす人なんだろうなと僕はずっと思っていて。まさにそこがルーツなんだろうと思っているんですよね。

小口 結局、ゲームづくりってチームだから。やっぱり、みんながその気になって喜ばせようと思わないと、いいものはできないんで。そのためのひと手間ってあるじゃない。「ええっ、そんなところに隠してんの?」みたいなさ。そういったゲームのストーリーなんかと関係ないところで、なんかフフッて笑うものとかがあると「このゲームいいじゃん」ってなるわけで。そういうのが遊びだからけっこう大事かなって。

黒川――なるほど。いいこと言いますね。

小口 なんなら10回くらい講演してもいいよ。

黒川――ハハハハ、ぜひお願いしますよ。ちょっと戻りますけど、小口さんのエンタテインメント感を作る上で、他に影響されたものってあるんですか。

小口 なんだろうね、エンタテインメント感……なんだろうなあ……。

黒川――たとえばですが、仮面ライダーとかウルトラマンとか。テレビってひとつの娯楽だったじゃないですか。小口さんの中では、あまりメモリーとしてないですか?

小口 記憶はあるんだよ、『巨人の星』は絶対見てたとかさ。ドリフターズとかも見ていたけど、それが今にどうこうっていうのはあまりない。

人に喜んでもらえるという気持ちがクリエイティブのルーツ


黒川――やっぱりルーツはエレメカであったり……。

小口 というより、それ(エンタテインメント感)を作ったのは自分の人間性じゃない? 僕は人が困っているところを見るのはイヤだし、みんなにはハッピーになってもらいたい。これについてはホントは2時間ぐらいかけてしゃべりたいんだけど簡単に言うね。人間は本質的に楽しくなりたいっていうのがあって。それで、自分の今の仕事はエンタメコンテンツなんで、ゲームだったりパチンコ・パチスロだったりを通して楽しくさせてあげたいっていう気持ちだけなのね。

黒川――ああ~なるほど。

小口 喜んでもらえたら買ってもらえる、インカムが入る。で、自分の仕事がうまくいく。お客さんに喜んでもらって社員も売上が上がって、みんなハッピーっていうのが一番いいでしょ。僕はそういう育てられ方をされたからね。人に迷惑かけちゃいけないとかさ。僕自身も色んなゲームで遊んでハマッたものもたくさんあったけど、自分の創るゲームに直接影響したものってないんだよね。研究したり、参考にはしたけど。“作品”っていうほどのものじゃなくて、遊び道具くらいの感覚なんで。

黒川――よくわかりました。つまり、人に対して何ができるか、人がどうしたら喜んでくれるかみたいなところが、小口さんのクリエイティブのルーツなんですね。ちなみに、中学、高校時代はどんな感じだったんですか。

当時はバスケのほうがカッコよくて女の子にモテたんだよ


小口 中学はバスケットボール部、高校はフォークソング部。

黒川――まずバスケですが、何かを見て影響を受けたとかあったんですか?

小口 最初は野球部に入ったんだけど、いまいちカッコよくなくて。野球部はケツバットとかあって、なんで意味もなくバットでケツを叩かれなきゃいけないんだと。

黒川――それはイヤですね。

小口 それに、その当時はバスケのほうがカッコよくて女の子にモテたんだよ。なんかバスケってスマートじゃない。女の子たちが体育館の窓から見ていたりとかしてたし。

黒川――つまり、カッコいいからバスケ部に入った?

小口 そう、カッコいいから。以上!

黒川――以上って(苦笑)。

小口 高校のフォークソング部も同じ。その時フォークブームがあって吉田拓郎、井上陽水、ガロとか、その辺が出てきて。で、僕もカッコよくなろうと。全部そんな感じ。カッコいいから、ハハハハハ。

黒川――なるほど。それは分かる気がします。そのあと中央大学に入るじゃないですか。そのあたりの経緯を教えていただいていいですか?

「久雄、お前は役所勤めか弁護士になれ」ってよく言われてた

小口 高校は地元の諏訪清陵高校だったんだけど進学校でね。中学の成績上位3人ぐらいが行くようなところだったんで、親も期待してくれていたのか「久雄、お前は役所勤めか弁護士になれ」ってよく言われてた。「それが一番幸せだ」、「固いから」みたいな。そういうわけで進学校に入ったんだけど、ちょうどその頃に遊びとかに目覚めて。高校生になったら、すごい自由になるでしょ。

黒川――親からも勉強しろとか言われなくなりますからね。

小口 いや、言われてはいたんだけどね。ただ、さっき言ったように放任主義なんで、そんなには言われなかった。ちゃんとやることやって、人に迷惑かけんなよとは言われてたけど。あと。高校って親とかに対して「うっせえ」みたいになるじゃない。そんなわけで、高校はけっこう自由にしていたんで、どんどんどんどん学力が下がっていって。その学校は1学年275人ぐらいだったんだけど、僕の友達仲間は成績270何番とかだった。僕はまだ100番ぐらいにいたんだけどね。

黒川――そんなに悪くなってないじゃないですか。

小口 いや、やっぱりズルズル下がっていった。けど、勉強よりも友達付き合いが大事で、その連中とはなんかいつも一緒にいた。そいつらとは、いまだに付き合ってるよ。

黒川――いまだにお友達なんですか。それは素晴らしい。

小口 そういうわけで成績は落ちていったんだけど、自分は見栄っ張りだから有名大学しか受けなかったのね。そしたら、ことごとく落ちて、ちょっとまずいなと。

――いわゆる早稲田とか慶応とかを受けたんですか?

小口 そうそう。それで、浪人したの。

――それは岡谷市のままで?

小口 いや。もう、こっち(東京)に来てた。で、高校時代に一緒に遊んでた連中もみんな浪人して東京に来たんで、またそいつらとずうっと遊んでた。その結果、浪人時代にさらに偏差値が10ぐらい下がっちゃって。それまでは60ちょいあったんだけどね。

黒川――え、60もあった? じゃあ、下がっても50強だから立派なもんじゃないですか。

小口 いや、50は平均より上ってだけだから。とにかく、偏差値が10ぐらい下がって、まずいと。だけど、当時はその……今は勉強って大事だと思ってるけどね。その頃はこんなの役に立たないと思ってたわけ。みんな、そう思うでしょ?

微分積分とか、3行3列の解の公式とか開発をやってると意外と使うんだ(笑)

黒川――思う、思う。

小口 思うよね。僕もこんなのバカバカしい、これは社会に出る体裁のためだけにあるんだなとか思っていたんだよ。で、僕は理系だから微分積分とか、3行3列の解の公式とか、すごいやってたわけ。こんなもん人生で使うわけないだろとか思いながらね。でも、開発をやってると意外と使うんだ、アハハハハ。

黒川――ああ~そうなんだ。

小口 売上の分析とかする上でも微積の考え方ってやっぱり大事でさ。だから、世の中に役立たない学問はないと今は思ってるし、もっと勉強しとけばよかったなと。いまだに英会話とかやってるしね。今の仕事はグローバルだから英会話をやらないと務まらない。

黒川――いや~素晴らしいじゃないですか。

小口 でも、そのときはまだ勉学なんかいらないと思っていたから。とにかく遊びたかったんで、まず山手線の内側の大学に行こうって決めたんだよ。

黒川――ちなみに、当時はどこに住んでいたんですか?

小口 新井薬師。それで、高校時代の仲間たちと毎晩のように西武新宿線で歌舞伎町に遊びに行ってた。

「なんだこの歌舞伎町という夢の世界は」

中央大 学生時代

黒川――新宿ではどんな遊びをされていたんですか。ゲームですか、それとも麻雀とかですか?

小口 なんでもやってたね。当時はゲームセンターがすごい流行っていて、もともとゲームとかゲーム場が好きだったので、「なんだこの歌舞伎町という夢の世界は」、「24時間遊べるじゃん!」とか思って。あと高田馬場のビッグボックスとかでもよく遊んでた。高田馬場のビッグボックスの前の山水ビリヤードとか、あの辺にも毎日のようにいたなあ。

黒川――アハハハハ、なるほどね。

小口 めっちゃ楽しかった。で、予備校時代に1年間東京で生活して、絶対に山手線の内側の大学に行こうと思って。山手線の外って世田谷とか場所はいいけど遊ぶとこないでしょ。どうせ偏差値も下がっちゃったし、山手線の内側の大学って決めて。早稲田、慶応、理科大は無理。青学は受験科目に英語があって僕は英語できないからダメ。そうやって探していたら、ちょうどいいところに中大の理工学部が。あそこって水道橋じゃない。東京のど真ん中でしょ。

――でも、あそこだってそんな簡単に入れないでしょう。

小口 うん、ところがその年の試験は自分にラッキーな問題だったの。物理はほぼ満点で、その日にああ受かったと思ったもん。

一番ハマッたのが、アーケードビンゴマシン

黒川――よく受かりましたね。

小口 それで大学はたまたま中大にひっかかったんだけど……あっ、そうだ! どうしても今回言っておきたいことがあったの。今まで遊んだゲーム。ビデオゲーム、アーケードゲーム全部含めて一番ハマったのが、その当時遊びまくったアーケードビンゴマシン(注6)。

注6:1970~80年代に一世を風靡したメダルゲーム。多少ルールは複雑だが戦略性、ギャンブル性ともに非常に高く、さらにピンボールのようにテクニックがモノを言う要素もあることから高い人気を博した。詳しいルールなどを知りたい方はビンゴゲームをテーマにしたこちらのサイト「Bingo Colors ビンゴピンボール」(http://bingo.main.jp/)を参照してほしい。


黒川――それは東京に出てきたからハマったんですか?

小口 いや、田舎のデパートのメダルコーナーとかにもあったんだよ。複雑なゲームなんだけど、これがものすごく面白いの。で、浪人して東京に出てきたら、ビンゴゲームがくさるほどあるんだよ。当時はビンゴがものすごい人気でね。新宿にシグマ(注7)が運営している「ビンゴイン・サブナード」っていうビンゴだけのゲーセンがあったくらい。

注7:メダル機の輸入・開発や設置、メダルゲームセンターの運営などをしていた会社で、当時は「メダルゲームといえばシグマ」と言われた。

黒川――へえ~それは、すごいですね。

小口 もともとはアメリカで作られて一時代を作った機械なのよ。アメリカのバリー(注8)とかが作ったのを誰かが日本に輸入して。多分、真鍋(勝紀)さん(シグマの創業者)に提案して、シグマが扱うようになったんだと思う。

それで、「ビンゴ面白い!」ってなって、本当にハマった。夕方ぐらいに大学終わったら新宿サブナードのビンゴインに行って夜の12時まで。ものすごいハマるゲームなんで、オールナイトの日とそうじゃない日があるんだけど、終電近くになると常連がシグマの店員に「と・お・し! と・お・し!」ってコールしたりしてね。

注8:ピンボール機をはじめとするゲーム機器やギャンブル機などを開発していたアメリカの会社。特にピンボール機は人気で、日本にもさまざまなタイプが輸入された。

黒川――そんなことやるんだ(笑)。

小口 常連ってみんなメダルを店に預けてるじゃない。5万枚とか預けている人もいるんだけど、そういう人が「コイン3千円ずつ買うからさ、今日は通しでお願いしますよ」とか言って、店員も「分かりましたよ、もう~」みたいな。昔はお客さんとゲームセンターの一体感がすごいあったんだよね。僕もゲームセンターの店長と、ご飯を食べに行ったりとかしてたし。

黒川――いい時代だなあ。

小口 いい大人がいっぱいハマってたよね。もちろん、アミューズメントオンリーなんだよ? アミューズメントオンリーなのに、身上をつぶしたが大人いっぱいいたの。

黒川――ええっ?

小口 ホントにいっぱいいたんだよ。お客さんも弁護士だとか医者だとか、会社社長とか、ホストとか、あらゆる人達がきてた。芸能界のちょっとイケてる人たちもハマっていて、沢田研二さんとかもやってたの。で、カッコつけたい僕としては「沢田研二もやっているんだからイケてるな」って。

黒川――小口さんらしいですね(笑)。

ビンゴにハマって、ゲーム会社に入ってゲームを作ってもいいかなって思った

小口 でも、ホントに面白いんだよ。機械との勝負なの。メダルコイン1枚からでもできるんだけど、自分が入れたいだけコインを入れていいのね。そうすると、取れるコインの枚数とかが上がっていくんだけど、いつどれだけコインを入れたら、その条件が上がるかって決まってないのよ。

黒川――え、決まってないの?

小口 まったく決まってない。数枚で上がるときもあれば、何十枚入れても上がらないときがあるから無限にコインが入っちゃう。コインを3000円分……当時は1枚20円だから150枚か。巻コイン5本ぐらいを1ゲームで全部入れたりとか。だから、アミューズメントオンリーなのに一晩で20万円とか使うお客さんがいっぱいいたんだよ。僕は学生で2万円ぐらいしか財布にないから、ちっちゃい点数とかでやってたけどね。とにかく、そうやってコインをどんどん入れていくじゃない。でも、なかなか条件とか上がらないからさ、そんなときはマシンをドンっとかやったりして。

黒川――アッハハハハハハハ、やっぱりそういうこともやるんだ。

小口 店員に「これ上がんないぞ」とかブーブー言いながらね。そうしたら店員もニヤっとして「コイン買う?」みたいな。これもコミュニケーションなんだよ。で、もう上がりそうにないから、これで打つぞってなって。プランジャー(注9)は手で引っ張るんじゃなくて、こうパーンってやってボールを打ち出す強さを調節するのよ。それで、台を持って自分の入れたい穴に揺すって入れる。

注9:玉をフィールドに打ち出すための装置。

黒川――あ、それはアリなんだ。

小口 それがアリだから面白いの。だから、ビンゴ機の横は鉄板で覆われていて持てるようになってる。で、玉がクッションでハネるところを狙って揺らすと、右側に飛んだ玉を左のほうの穴に持っていったりすることができるわけ。でも、揺らしすぎるとティルト(注10)になるんだよ。なので、ティルトにならない範囲を身体で覚えてなきゃいけない。ティルトになったら、それで終わりだからね。

注10:ある程度以上の台の揺れを感知するとゲームを強制的に終了させる機能。ピンボール機などにも搭載されていた機能で、台の揺らしすぎに対抗するために導入された。

黒川――入れた分のコインが一瞬で消えちゃうんだ。

小口 そう。1回のゲームで300枚ぐらい入れることもあるからね。それがティルトになった瞬間全部終わりっていう。だから、金持ちのおっちゃんなんかがコインを入れまくって、条件とかがすごい高いゲームになると、他の客がゾロゾロ集まってくるんだよ。「おおっ!」とか「1球目打ったあ!」みたいな。それで、パチっとかいってティルトになると、何事もなかったかのようにみんな自分の台に戻っていくという(笑)。

黒川――ハハハハハハ、なるほどね。自分でコントロールできる部分があるから、ある種の中毒感が生み出されるんだ。

小口 運だけだったらこんなバカバカしいことやらないって。自分の技術が上がっていくのが楽しいから、みんなやってたんだよ。メッチャ面白いから、平気で20時間とかやってた。だから、よく腕がパンパンになってたよね。そういうすごいゲームだったの、今はもうほとんどないけどね(注11)。とにかくビンゴにハマって、その辺からゲームの会社に入ってゲームを作ってもいいかなって思うようになった。

注11:埼玉県ふじみ野市にあるゲームセンター「バイヨン(BAYON)」に設置されていて現在もプレイ可能になっている。(※取材当時)

「なんだ、この『インベーダー』ってのは・・・」


黒川――そうだったんですか。

小口 うん、だからホントはシグマに入りたかった。大学時代に新宿のコマ劇場の近くにあったシグマの店でバイトしていたこともあったし。だから、「アレ、昔いたよね」とか言われたこともあった。

黒川――それで、卒業するぐらいになって、ゲームを作る方にいこうと。

小口 やっぱりゲームが好きだったんで、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいっていうのが自分でもいっぱいあるわけよ。それなら自分で作ったほうが早いなって。親はまだ弁護士とか言っていたけどね。俺は理系なのに。

黒川――ご両親はまだ、おっしゃっていたと(笑)。

小口 ちょうどその頃に「ビンゴイン」に『インベーダーゲーム』とかが設置されるようになったのかな。確か1982年か83年ぐらい「なんだ、この『インベーダー』ってのは・・・」とか思って、ビンゴで疲れたとき息抜きにピシュンピシュンってやってた。それで、そういうゲームの知識も持つようになって。

黒川――当時は『インベーダー』とか『ギャラクシアン』の時代ですよね。それらは面白いと思ったんですか?

小口 思ったけどビンゴのほうが100倍面白いと思ってた。だから、ビンゴのゲームが何よりも作りたかった。

「今、ペンギンが人気だからペンギンのゲームで企画を考えろ」って言われた企画


黒川――やっぱりそっちなんだ。でもセガに入って最初に作られたのはテレビゲームですよね。

小口 そう、84年に入社して最初に企画したのが『どきどきペンギンランド』(注12)。当時、ペンギンが登場するサントリーのCM(注13)がメッチャ流れていたよね。バックに松田聖子の曲が流れるやつ。

注12:ペンギンのアデリーくんを操作して、ブロックに穴をあけたり岩を落として敵のシロクマを倒したりしながら、タマゴを割らないようにゴールまで運んでいくアクションパズルゲーム。1985年にセガのSG-1000やアーケード向けに発売された。

注13:1983年から放送されたサントリー「CANビール」のCMのこと。CMに登場するアニメのペンギンたちの可愛らしい姿が話題となり、CMソングとして使用された松田聖子の『SWEET MEMORIES』ともども大ヒットとなった。

黒川――ありましたね。

小口 そうそう。で、上司が企画の僕たち新人に「今、ペンギンが人気だからペンギンのゲームで企画を考えろ」って言ってきて。あの大人気だったCMに乗れと言われて、自分で企画をした最初のゲームがコレ。その次に矢木(博)さん(注14)とかと『スーパーダービー』っていうゲーセンの競馬ゲームを作って。あんまり知られてないんだけど『ワールドダービー』(注15)の前に『スーパーダービー』っていうのがあったの。で、その『スーパーダービー』の後に『ワールドビンゴ』(注16)を作ったんだよ。「小口シリーズ」「ワールドシリーズ」って呼んでるんだけどね。

小口氏が手掛けた「ワールビンゴ」の販売促進用ブロッシャー(チラシ)

注14:セガのAM製品開発本部長などを歴任。携帯型ゲーム機『ゲームギア』のほか多数のアーケード基板の開発に携わった。

注15:1988年にリリースされたセガのメダル競馬ゲーム。馬が左右に動いて走路を自由に変更できるフリートラックシステムが話題を呼んだ。

注16:1986年にリリースされたメダルゲーム。1~25の中から5つの数字が選ばれ、それらの数字が縦・横・斜めのいずれかに3つ以上並ぶとビンゴとなる。この基本ルールやメダルの投入数に応じてランダムでより有利な条件が設定されていくなど、小口氏が学生時代にハマったビンゴゲームがベースとなっている。

黒川――小口シリーズ(笑)。

小口 で、この『ワールドビンゴ』は、さっき言った僕がハマったビンゴをまんまトレースしたものなの。当時は企画も宣伝も営業もみんな一緒にやってたんで、ブロッシャー(パンフレット、チラシ類のこと)の原稿なんかも僕が自分で書いた。宣伝のアイディアも僕が出したんだよ。チラシに映ってるフランケンも僕なんだ(注17)。

注17:当時、宣伝用に作られたブロッシャーには、ドラキュラやフランケンのビニールマスクをかぶった客が『ワールドビンゴ』に興じている写真が使われていた。このフランケンのマスクをかぶっている客が若き日の小口氏だったとのこと。

黒川――(チラシの映像を見ながら)これ小口さんなの? このフランケン?

小口 これ、僕なんだよ。このコインを入れてる手も僕。(自分の手を見せながら)ほらほら、同じだろ。

黒川――ハハハハ。そうなんだあ~。

小口 それでね、このゲームはメダルを入れていってABCDのランプが点けば、有利な条件が設定されるんだけど、何枚入れたら条件が上がるかランダムで分からない。つまり、さっき言ってたビンゴゲームとゲーム性は同じなわけ。これ、売れたんだよ。

セガは第一志望じゃなかった。当時はナムコの時代だった


黒川――これを作られたのは入社何年目ですか?

小口 1986年だから2年目ぐらいだね。

黒川――すごいですね。ちょっと話が戻るんですけど、そもそもなんでセガだったんですか?

小口 いい質問だね。確かにセガは第一志望じゃなかった。まず、大学に5年行ったから「やばい、会社入んなきゃ」と思ったわけだね。勉強好きだったんで(笑)

黒川――それでかぁ・・・どうりで計算合わないなあと思いましたよ(笑)

小口 それで、ゲームメーカーいいかなと思っていたんだけど、僕が大学4、5年の頃はナムコの時代だったんだよ。

黒川――遠藤(雅伸)さんとか石村(繁一)さん(注18)の時代ですよね。

注18:開発一部長として『パックマン』のファミコンでの発売を軌道に乗せるなど草創期のナムコを支えた功労者のひとり。

小口 そうそう、『ゼビウス』、『マッピー』(注19)、『リブルラブル』(注20)とかね。サウンドもよかったよね。『マッピー』の「ティ、ティ、ティ、テイーリー、ティッティッティリテッティー」(マッピーのBGM)とかすげえ良くて。それで、ナムコに応募したの。で、ゲームの企画書を書けみたいな課題が出て、提出したんだけど全然音沙汰なかったので、その間にセガも受けとくかと。

注19:ネズミのマッピーを操作して、ネコたちをかわしながら盗品を取り戻していくナムコのアクションゲーム。1983年にアーケードにて稼働開始。翌84年に発売されたファミコン版も高い人気を誇った。

注20:矢印の形をした「リブル」と「ラブル」というキャラクターを操作して、ラインで空間を囲むことによって敵を倒したり宝箱を入手したりしていく、1983年発売のナムコのアーケードゲーム。

「セガの“ガ”って何?」とか思っていた


黒川――なるほど、そういう経緯だったんですか。

小口 一応、当時からセガもちょっとは知られていたんで。「セガの“ガ”って何?」「なんで会社の名前が“ガ”なんだよ」とか思ってたんだけどね。

黒川――アハハハハハ、でもなんか分かる気がします。

小口 でも、セガのゲーセンとかいっぱいあったからね。それで、セガも受けようとなって大鳥居(注21)に行ったんだよ。入社試験はあんま大したことなかった気がする。で、その日に人事の面接もあって。

注21:セガの創業地である東京羽田の大鳥居のこと。

黒川――もういきなりですか。

小口 そうそう。人事の責任者と面接したんだけど、その時に得意なことを聞かれて「喰いタン」とか言っちゃったんだよね。

――なんですか、クイタンって?

小口 麻雀の役なんだけど、鳴いて鳴いてタンヤオ(注22)でサクッとあがるっていうセコいやり方なんだよ。で、普通は数学が得意とか言うところを、ちょっとシャレてみようと思って「喰いタンが得意ですかねえ」とか冗談気味に言ったの。そうしたら、その人がたまたま麻雀大好きで。入社したあと、その人とよく麻雀をやることになったんだけどね。

注22:「断公九」と書く。もっとも基本的な麻雀の役のひとつで中張牌(チュンチャンパイ)と呼ばれる数字の2~8の牌のみを使って手牌を完成させると成立する。

黒川――アッハハハハ、そういう逸話もあるんだ。面白いですねえ~。

小口 そうそう、その「喰いタン」って一言がけっこうハマって。「ああ、キミ面白いね」って言われて、その日に採用が決まったの(笑)。

母親は「セガって何?」「ゲーム? やめてくれる」みたいな(笑)


黒川――あ、もう採用なっちゃったんだ。

小口 後から聞いたんだけど、僕らの年から幹部候補生として大卒を積極的に取りましょうってなったらしいんだよ。それに、当時は大学出のまともなヤツはセガなんて行かないんで、そこそこ良さそうなのは取れっていう風にちょうど言われていたみたい。それで、採用って言われたんだけど、「どうしようかな~」って思っちゃって。いまだに覚えているけど面接の帰りに大鳥居のパチンコ屋で、なんかいろいろ考えながらパチンコをした記憶がある。

黒川――パチンコ屋、あった、あった。

小口 それで、母親に電話で報告したんだけど、相変わらず母親は「セガって何?」「ゲーム? やめてくれる」みたいな(笑)。田舎の人だし、弁護士になれとか、お役所に入ればいいとか言ってたのがゲームだからね。でも、子供の頃、さんざんゲーセンに連れていったのは自分だろって。

黒川――そうですよねえ。

小口 だけど、セガの社長になったときは泣いて喜んでた。こうやってお前に投資したのが実った、無駄じゃなかったって、オフクロとオヤジに言われたことがあるよ。僕は学生時代に教科書なくしたとか財布なくしたか言って、けっこう親からカネ引っ張ったからね。

黒川――いや、小口さんは掘れば掘るほど面白いですね。ちなみにナムコの方はどうしたんですか?

小口 まったく音沙汰なかったね。

黒川――まったく連絡なかったんですか。それはちょっと残念ですね。

小口 それで、まあセガでいいかって。でもね、正直言うと、そんなにセガに長くいるつもりはなかった。当時のゲームってアメリカンドリームじゃないけど5、6人で作って一儲けみたいなことができたんだよ。だって、バックが黒でオブジェクトを動かして、弾を撃って当たったら点数入ればいいってだけだよ? 背景にデザインがあったのなんて『ゼビウス』くらいで『マッピー』とかもバックは黒だったでしょ。

黒川――確かにそうです。

小口 『インベーダー』とか数人でも作れるじゃん、みたいなね。だから、ちょっとセガで勉強して、そのあと独立して自分でゲームを作って一山あてようっていう考えがあったんだよ。でも、思ったより早くゲームの企画をやることになって。昔は企画って責任者、リーダーだったからね。で、けっこうプロジェクトをいろいろ任されて忙しかったから、そのうち独立してどうこうなんて考えはなくなっちゃって。

老人になって家でゲームとかやって過ごすのはイヤだよ


黒川――現在はどうですか?

小口 気づけば定年前(※現在はすでに定年)だけど、定年後はもうゲームは作らないな。それ以外で何か人を楽しませる仕事をやりたいなって思ってる。

これまでいろいろなエンタテインメントをやってきたけど、ゲーミングは喜ぶ人もいれば、そうじゃない人もいるわけじゃない。そういった良いも悪いも含めたところでやってきて、ゲーム以外の人生の経験とかもいっぱいあるから、また全然違うものを人にサービスできると思ってるの。昔に比べたら人の痛みも分かるしね。

黒川――なるほど~。小口さん、情熱が枯れないですね。

小口 だって今日誕生日(※)だけど、老人になって家でゲームとかやって過ごすのはイヤだよ。

※取材当日は小口氏の誕生日と重なった

黒川――それは僕もイヤです(笑)。でも、小口さんは昔から人の痛みが分かる人だったと思いますよ。だから、僕なんかも親しくさせてもらったし、よくしてもらった記憶があるし。それに、小口さんは若い頃からギャンブルとかの危ない部分も見てきているから、その奥深さもゲームに生きているんだろうなってずっと感じていたんです。

小口 たまーに大学の後輩とかの前で話してくださいって呼ばれることがあるんだけど、そういうときに話す得意なテーマがひとつだけあってね。エンタテインメントに一番大事な「楽しさ」って何かっていう。

黒川――面白そうですね。どんな内容なんですか。

小口 ちゃんと話したら5回ぐらいの講座になっちゃうんだけどね。もともと人間には快感原則論っていうものがあって、世の中の出来事全部を苦しいことと楽しいことに分けると、誰もが苦しいことから逃げて楽しい方向に行こうとするわけ。

黒川――そうでしょうね。

小口 すべての行動の源泉っていうか、誰も苦しい方向に自ら行こうなんて思わない。たとえば何かを苦しんで作った人も、それを作ることによって人を喜ばせてあげようとか、会社での自分の成績を上げようとか、そういった楽しいことを考えているから作るわけでね。

それで、何10年もやってきて最近分かってきたんだけど、面白さや楽しさっていろいろなカテゴリーや項目にある程度分解できるの。たとえば、知らないことを知ると楽しいとか。「○」とか「△」の形をしたところに同じ形のものをはめていって、全部コンプリートできたら楽しいとか。暑いから涼しくなりたいとか、お腹空いたから何か食べたいみたいな生命維持に関わる部分の快感もそう。で、そういった楽しさの項目にランクを付けていくと一番上、高次元の方に何があるか知ってる?

人に認められることが一番楽しいということなんだよ

黒川――……なんだろう。人に好かれること?

小口 うん、なかなかいいとこいってる。言葉で言うと「貢献」と「達成」。このふたつが人間が一番深い部分で楽しいと感じていることだと、今のところ僕は認識してるのね。たとえば勲章とかがそうだよね。今の僕もそうだけど若い頃は勲章なんかいらないとか思うわけよ。そんなものより金をくれとか。だけど、歳を取ってきた人たち、みんな勲章もらって喜んでるじゃない。これって「貢献」と「達成」でしょ。つまり、人に認められることが一番楽しいということなんだよ。逆に言うと、人間が一番苦しいことは人に無視されることになるんだよね。分かる?

黒川――分かります。やっぱり人はひとりでは生きてはいけない。お互いの相関関係の中で生きているから、他の人からどう思われるかって常に気にするわけだし。特に今はSNS時代ですからね。

小口 人に無視されんのがイヤだからって1日中LINEやってる人の話とか、朝のテレビでやってたけど、そういうことだよね。子供のイジメとかも無視されるのが一番苦しくて悲しいことで、その対極にあるのが人に認められることなんだよ。

だから、なぜRPGが日本人に流行るのかっていうと、これも「貢献」と「達成」なんだよ。RPGってストーリーがあってチームを組んで、最後に相手のボスやっつけて「やったね」とか自分で思うわけじゃない。それで自分はこの世界に貢献したっていう……アレがいいんだよね。だから、RPGは比較的万人に受ける。だけど、世の中ってもっと本能に近いところで、すごく面白いこともいっぱいあるので、そういうものをいろいろ組み合わせていったら、もっともっと違うゲームもできるはずなんだよ。

黒川――そうですよね、うん。

昔ってAM3研は「2」や「3」は絶対作らないポリシーでやってたじゃない

1990年代のAM3研 部長室にて

 小口 これはウチも含めて企業に問題があるんだけど、エンタメの企業が上場すると、毎年利益を求められるから数字を絶対作んないといけないわけでね。そうすると何が起こるかっていうと、また同じパターンにしよう、また「貢献」と「達成」にしようってなるわけ。まったく違う項目の楽しさを追求した、まったく違うジャンルのゲームを作るみたいなことをやらなくなるので、ホントにつまんなくなってる。昔ってAM3研は「2」や「3」は絶対作らないポリシーでやってたじゃない。

黒川――分かる、分かる。あれはね、すごいなと思ってた。

小口 絶対、続きものはやらないっていうポリシーでやってたんだけど、そういうのが今はホントなくなっちゃって。でも、新しいことにチャレンジして失敗したら、ダメじゃないかって言われちゃうからね。なんにもしない人のほうが、まだいいっていう風に評価されがちなんで。

黒川――そうなってますよね。

小口 それがダメなんだよ。楽しさっていろいろな種類があって、いろいろなやり方があるから、もっと面白いものをいっぱい作れると思うんだよね。

黒川――そこが小口さんの、いわゆるAM3研のルーツですかね。

小口 そうだね。

黒川――小口さんが冒頭で言われた「人を育てる」っていうところが、僕はAM3研のすごく良かったところだと感じているんですよ。実際にいろいろな人が育っていったし、独立してやっている人もいっぱいいるし。

小口 みんな「小口色」とか言うよね。

黒川――そうそうそう、だから、小口さんは人の才能を活かしたり、後ろから押してあげることにすごく力を尽くした、もしくはご自身は意識してないけど、そういうことをやってきた人なんじゃないかなと僕は思っているんですよね。

小口 そうだよ、人間愛。

黒川――そうだよって言われたらそこで終わっちゃうんだけど(笑)。でも、3研を作るまではどこにいたんですか。6研とか8研、7研とかですか?

小口 入社当時、開発はソフト系と設計系の2つに分かれていて、僕は企画だったからソフト系に配属された。でも数年後、トレードで設計系に移ったな。そしてビンゴの企画を立てた。

黒川――そうか、そうか。「ワールドシリーズ」ね。

小口 そうそう。それからまたソフトの方に戻って、まず分家して2研ができたのかな。それから数年経って3研が分家したんだと思う。

黒川――入社10年目ぐらいですよね。そのときはどんなお気持ちでした?

小口 少し好きにできるなって思ったよ。でも、それまでにもいろいろ作ってたからね。

黒川――『スーパーモナコGP』(注23)とか。

小口 『ヘビーウェイトチャンプ』(注24)とかね。そういえば僕が書いた企画書が家にあったんだよ。サミーの人間が僕の部屋に遊びに来たことがあったんだけど、そいつが押入れとか勝手に探して「これ、なあに」みたいな。それで見てみたら『ヘビーウェイトチャンプ』の企画書だっていう。でも、なんかなくなっちゃったみたいで。

注23: 1989年に発売されたレースゲーム。F1のモナコグランプリを題材にしていて、コックピット視点の疑似3Dの画面や当時のF1マシンのセミオートマチックシステムを再現したギアチェンジなどのリアルなテイストが話題を呼んだ。

注24:1987年に発売されたセガのボクシングゲーム。グローブの形を模した2本のレバーを両手に握り、上下に動かして腕の高さを変えたり、押し込んでパンチを繰り出したりするなど体感的な操作が話題となった。

僕は北西から北東ならOKにしてる


黒川――ええ~なんでないの? 企画書は捨てちゃったんですか?見たかったなあ。

小口 こういった取材を受けることになると思ってなかったしね。

黒川――そうですよね。ところで、こういう話をするのはどうかと思われるかもしれませんが、鈴木裕さん(注25)がAM2研でいろいろ注目を浴びていたじゃないですか。でも、小口さんはヒットしても続編はやらないっていうのがあったし、水口(哲也)さんや亙(重郎)さん(注26)に、割と新規性のあることを好きにやらせていましたよね。その当時、どんなお気持ちだったんですか。

注25:AM2研を率いて数々のヒット作を世に送り出したゲームクリエイター。1958年生まれ、83年にセガ入社と小口氏とはほとんど同世代。

注26:対戦型ロボットアクションの名作として名高い『電脳戦機バーチャロン』シリーズの生みの親であるセガのゲームクリエイター。人気ラノベ『とある魔術の禁書目録』とコラボとしたシリーズ最新作『とある魔術の電脳戦機』が現在好評発売中。

小口 自分でやってるつもりでいた。当然、部の長だからアイディアとか提案に対して、「そうじゃない」とか「いや、こうしたら」っていうのはあったけど、やっぱり人間ってみんな一番になりたい、自分で手柄を立てたいわけじゃない。僕もそうだったからね。だから、自分は統括プロデューサーだと割り切って、「お前がプロデューサーだから」ってやってあげてた

黒川――でも、すごく上手いですよね。もちろん、悪いことは悪いって言うけど、人を立てて推進するっていうか。

小口 僕のやり方はブレないコンセプトをまず決めて、ディテールは任せるやり方。全部を見るのは大変だしね。自分のイメージとは外れてくる時もあるけど、僕は北西から北東ならOKにしてる。

黒川――北西から北東?

小口 僕は自分の中で理想の方向は「北」って思ってるんだよ。たとえば、『バーチャロン』をやるとなったとき、当たり前だけど『バーチャロン』はこういうゲームっていうのは、もう自分の中でできているわけ。で、僕はその理想の方向である「北」にって思うけど、亙は「西」って言うじゃない。たとえば弾の出方はこうとかさ。でも、それは僕のポリシーとは90度違うわけで「西」までいかれるとさすがに許せない。

――そういう意味なんですね。

小口 だから「それは違うでしょ」って言ってグッと引き戻す。だけど、向こうも「西」っていう以上、「北」までいっちゃうと納得できないだろうから、ちょうど間の「北西」くらいだったら俺はもうオッケーにしてるのね。

そうしないと物事は前にいかない。さすがに「南」って言われたら「ふざけんじゃない」ってなるけどね(笑)。それは間違ってるって言うけど、北西から北東の範囲だったらやらせようかなみたいな。そうでないと本人も面白くないよね。自分で決めたことが入ってなくて、全部命令されたものなんて楽しくないでしょ。

黒川――そのとおりだと思います。

小口 自分のやりたいことが入っているから成果だと思えるし、満足感もあるんだよね。全部命令されたものだけだったら本人つまんないよ。だから、僕はそういうやり方をしてる。この範囲内だったら、ちょっと違うだろとか思いながらも、まあいいかって。妥協の精神だよ。それに、そのおかげでかえってうまくいくこともあるからね。自分だって神様じゃないわけだから

黒川――その結果、すごくいい作品がいっぱい生まれたじゃないですか。大ヒットではなかったかもしれないけど、ちゃんと中堅どころとしてセガを守ってくれるようなタイトルをたくさんプロデュースされましたよね。

小口 『クレイジータクシー』とか『バーチャロン』とか。『クラッキンDJ』(注27)とかもあったね。DJになれるゲームで実際にターンテーブルを使えたんだよ。弾くときに音を消すとキュッキュッキュキュって鳴るの。すごいよくできてたんだけど、ちょっとマニアックすぎてウケなかった。早すぎたのかもしれないね。

注27:2000年に発売されたセガのリズムアクションゲーム。ふたつのターンテーブルとフェーダー(ターンテーブルから音を出すためのレバー)を搭載していて、本格的なDJの操作感を体感できる。

「セガが潰れても僕たちは生き残るぞ」って訓示したことがある

セガ代表取締役時代

黒川――そういう時代を経て、そのあとヒットメーカーができるじゃないですか。当時、僕はもうセガにいなかったんですけど、外から見ていてちょっとセガが会社としてなんかバラバラになってきてるんじゃないかなと思ったんですよ。

小口 ヒットメーカーができた頃?

黒川――香山(哲)さん(注28)体制の頃、つまり分社化が始まった頃です。分散化しすぎて、これまとまるのかなって思っちゃったんですよね。

注28:リクルート、マリーガルなどを経て、2000年に家庭用ゲーム事業部門を統括する特別顧問、共同COOとしてセガに入社。セガのハードウェア事業からの撤退を主導した。

小口 まとまってなかったよ。だってヒットメーカーになったとき、みんなに「セガが潰れても僕たちは生き残るぞ」って訓示したもん。

黒川――ああ~やっぱりそうなんだ。

小口 うん。セガが潰れても自分たちはどこでも行けるしって。なので、どちらかというとセガは仕事をもらう、予算を付けてもらうパートナーみたいに思ってた。その当時、大川(功)さん(注29)が僕たちを集めてね、「これからは上場や」「世の中、株や」と。キミたちにももうちょっと厳しくする。上場できるところは上場して、ダメなところは潰れてもらうみたいなことを言われたの。その背景には開発費の高騰っていうのがあって、香山さんはドライな人だったんでね。そうやって分社化すると、ダメなところは切りやすいじゃない。そういう思惑も当時はあったんだと思う。なんで、ちょっと遠心力が働いた。

注29:株式会社CSKの創業者。1984年にセガを傘下に収め取締役会長に就任。中山隼雄氏を社長に据え、セガ飛躍のきっかけを作った。2000年にセガ社長を兼任。倒産の危機にあったセガに850億円もの個人資産を贈与したことは大きな話題となった。2001年3月死去。

黒川――そうだったんですか。

小口 そうはいってもタイトーとかナムコのように売れるわけじゃないんでセガから予算をだしてもらって。でも、利益を出していたのはウチと2研ぐらいだったと思う。余裕があったから、ビデオゲームの開発以外にも手を出した。当時ブームを先取りしてハマッていたのがダーツ。これにネットワークのサービスを付加して作ったのが、ダーツライブのシステム。これを分家させてダーツライブ社という会社にした。それならダーツバーも作っちゃえ!ということで作ったのがダーツバー「Bee」。

プライベートでもダーツを楽しんでいた

注30:ヒットメーカーが2002年に渋谷にオープンしたダーツバー「Bee」のこと。ヒットメーカーはエレクトロニックダーツマシンの企画・開発などを行う株式会社ダーツライブの設立にも関わっている。

黒川――営業法上の問題とかがいろいろあって大変だったみたいですが。

小口 いろいろあった。でも、僕としてはセガそのものをもうちょっと変えたかった。もうちょっと広いエンタテインメントをやりたかったんだよね。それができたのはヒットメーカーが儲かっていて余裕があったから。なので、ダーツ事業を立ち上げることができた。それでちょっと飛ばすけどセガの社長の話があって。戻されて本体の社長になったわけ。

社長に・・・って言われてから受けるまで1年かかった

黒川――セガの社長になられたのは2004年ですよね。

小口 そうだね。で、別々になっていた開発会社を僕の命令で再吸収したの。

黒川――あれはやっぱり小口さんの意志だったんですか。

小口 僕の意志です。僕が社長になったから、みんな来いって。でないとコントロールできないんで。

黒川――抵抗勢力とかはなかったですか?

小口 どこもあまり利益出てなかったからね。なので、割とすんなりだった様に思う。どちらかというと喜んでたんじゃないかな。僕がうるさく言わないのはみんな分かってるし。

黒川――なるほど。でも、あの頃のセガの社長になるって火中の栗を拾うようなものだったと思うんですよ。大変な時期に社長になったという気はしなかったですか?

小口 したよ。だから、社長に・・・って言われてから受けるまで1年かかった。

黒川――1年かかったんですか。それはなぜですか?

小口 いや、僕はクリエイターだから……(笑)。

黒川――……そこでお互い言葉に詰まるところがアレなんですが(笑)。いや、そうですけどね。

小口 プレイングマネージャーまではちょっと手に負えないなと思ったの。

黒川――やっぱり現場がお好きですか。

ゲームメスト創刊10周年記念イベントにて 1990年代

小口 だって今も開発やってるし。だから、セガの社長を受けたときも僕が開発を見るっていうのを条件にしたわけ。そこを外されたら僕がやる意味はないんで。

黒川――単なる経営者じゃイヤだと。

小口 イヤだっていうより僕の能力はソコじゃないんで。だって社長になったとき、僕はPL(損益計算書)もBS(貸借対照表)も分かってなかったんだから。

小口 なので、そういったところは得意じゃない。それを僕に期待されてもそうじゃないですよと。エンタメコンテンツ事業はヒットゲームを作る事が重要。これができなきゃPLやBSをいくら眺めて、あれこれ考えてもしょうがないでしょ、ってこと。

黒川――今の小口さんは子供の頃から遊んできたゲーム機、学生時代にハマったある種のギャンブルっぽいもの、そうしたものを含めたものを総合してやっているわけですよね。今までの経験が一番生きている感じがしませんか?

小口 そうだね。まあまあ面白いけど、やっぱりゲーミングは楽しさの幅が狭いからね。

これを形にしたら長い間お世話になったセガを卒業しようと思っている

黒川――あ、幅が狭いですか。

小口 うん。やっぱりゲーミングのお客さんの目的って1つだから楽しさの幅は狭い。そこが狭いから作りやすいんだけどね。だから、どのメーカーも同じようなものになりがちで、差別化が非常に難しいというのはあるよ。今の会社も設立6年目で今年は北米(ネバダ)にチャレンジの年。ここ迄大きな投資もしてもらったし、スタッフもたくさん付いてきている。何とか成功させなければならない。まさに正念場なんだよ。これを形にしたら長い間お世話になったセガを卒業しようと思っている。

黒川――じゃあ、小口さんが今後何かやるとしたら、やっぱり人に貢献できる何かってことになるんですかね。人にありがとうって思われるようなこととか。それがコンテンツなのかもしれないですけど。

小口 いや、そうだと思う。今、僕は岡谷市の産業大使とかやっている。で、年に2回ぐらい市の人がこっちに出て来てミーティングやったりとか・・・。あと、長野県の東京事務所の人とかもたまに来たりしている。岡谷の市長も4年ぐらい先輩なんだけど、よく知っててね。夏とかにたまに田舎に帰ると「おう」とか言って。それで、僕が「次、もう1回出んの?」とか言ったら「お前にはまだ渡せない」みたいな。ジジイになって東京に飽きたら、田舎に帰ってそういうことをするのもいいかもね。

若い頃、みんなの前で「絶対やらない」って豪語していたゴルフにハマる

黒川――政治の仕事とかですか。

小口 そうだけど金儲けじゃないよ。完全に貢献だよね。

黒川――それは分かります。でも、帰りそうにないじゃないですか。

小口 今のところはそう。刺激がないからね。僕は長野県の諏訪なんだけどエンタテインメントが少ないんだよね。だから、諏訪をもっとエンタテインメントのエリアにするという任とかいいなと思ってる。それだったら、ちょっとはやれるかなって。あそこってみんな素通りするというか、ちょっと降りて諏訪湖見て、温泉入っていくけど、でも泊まらないみたいな。諏訪湖の花火を見に来る人もだいたい日帰りしちゃう。

黒川――花火とかやってるんですね。

小口 そう。だけど、場所的にはすごくいいんで。自然とか健康とか、そういうゲームでは表現できない楽しさもいっぱいあるし。あと、ずっとデジタルでやって来たからアナログ。今後のエンタテインメントのキーワードはいくつかあるんだけど、僕の中でその中のひとつがアナログなの。

デジタルでもそういう表現は作っているけど、毎回決まったように動かない、決まったとおりじゃないみたいな。だから、僕が今一番ハマっているのは、若い頃、みんなの前で「絶対やらない」って豪語していたゴルフ。

黒川――あ~ゴルフ始めたんですか。

小口 結局、始めた。もう4年半ぐらいやってる。

黒川――じゃあ相当上手くなったんじゃないですか。

小口 まだスコアは100前後だよ。でも、かなりやってる。あれって絶対同じところに飛ばないじゃない。あのアナログ感がいいのよ。『みんなのGOLF』とかだと、同じようにやればだいたい同じところに飛ぶでしょ。

黒川――そりゃそうですよね。

小口 当然だけど実際のゴルフは、なかなかそうはいかないんだよ。そこには精神的なものもあるし、風とかもあるし。ああいうところがなんか楽しいかな。

戦いながら一緒に歩いてると「何やってんの?」とか聞いてくる

黒川――なるほどね。

小口 そういうアナログ感的なところがエンタテインメントではけっこう大事。ゲームの取材だからゲームの話をすると、僕が今一番やってるゲームが『我が天下』(注31)。最近はさすがに忙しいからそれほどでもないけど、ここ1年半ぐらいずっとやってる。

注31:三国志の世界を舞台にしたストラテジーゲーム。おなじみの有名武将たちを配置し、内政を発展させて兵力を増強し、他のプレイヤーと領土争いを繰り広げていく。

これが面白いの。12人でバトルがスタートするんだけど、全部NPCじゃなくてプレイヤーキャラなの。NPCはひとりもいない。人だからそこには人間性があって、そのアナログ感が面白いんだよ。

黒川――なるほど。

小口 だから、僕が都市をどんどん増やしていくじゃない。そうすると、ほかの人が攻めてくるんだけど、いきなり攻めてくる人もいれば、他の人と戦っている間に脇からチョロチョロって攻めてくる人もいたりする。で、なんだコイツってガツンと攻めたら、おとなしくなっちゃったりとか、あのゲーム上の人間模様が面白いの。プレイヤー同士で同盟もできるんだけど、ゲーム上でしないでメールで「明日の12時までお互い停戦でどうですか」みたいなことやったりとか。

黒川――そんなこともやってるんだ。それは面白いですね。

小口 めっちゃ面白いよ。「このクエストをクリアしたいんで1個だけ城を取らせてください。そのあとは攻めてけっこうですから」みたいなメールが来たりとかさ、分かる?

黒川――分かる、分かる。すごいアナログでいいですよね。

小口 ちょこっと攻めただけなのに、全部殺してやるみたいなレベルで反撃してくる人とかもいるしね。「僕はもう寝たいんだけど、寝るとその間に殺されるし」、とか思いながら。でも、結局寝ちゃって朝起きてログインしてみると、みんなやられててみたいな。面白いでしょ?

黒川――面白いですね~。

小口 それが『我が天下』。人が相手だから面白いの。ただ、あの煩わしさに今の人たちが耐えられるかどうか。だってさ、面倒臭いじゃない。同盟とか言われたら無視できないから、いや今回はそんなヤル気ないんで同盟はナシで、なんてメールしたりね。しかも、きっと相手は多分学生とかだよ。まさか、こっちが58歳だとは思ってないよね。

黒川――思ってないですよね(笑)。PCのオンラインゲームとかはやらないんですか。

小口 昔、死ぬほどやった。『ウルティマオンライン』(注32)は7年ぐらいやったね。英語の時代からやってたもん。

注32:古典RPGの代表作である『ウルティマ』のシリーズ最新作として1997年に発売されたMMORPG(他人数同時参加型RPG)。ネットワークゲームの始祖のひとつとされており、日本でも多くの廃人を生んだ。

黒川――あ、そうだったんだ。

小口 もう20年ぐらい前だよ、『ウルティマ』をやってたの。「地球の裏側の人と会話してゲームができる、すごい!」ってなって死ぬほどハマった。で、英語でやってると、外国人から一緒に冒険に行こうとか言ってくるわけさ。それで、こっちも「分かった、オッケー」とか言ってね。戦いながら一緒に歩いてると「何やってんの?」とか聞いてくるの。僕が「剣士」とか言うと「ノー、ノー、リアル、リアル」みたいな。

黒川――そういうこともあるでしょうね。

小口 そのうち「何歳?」とか聞いてきて、当時もう僕は40歳ぐらいでね。「う~ん」と思って、「君こそ何歳?」って返したら「8歳」って(笑)。

黒川――8歳!?

小口 そう、8歳とか言われて、8歳と40歳が一緒に冒険してるわ~って。それで、その子がこっちの歳を聞いてくるから「あ~」ってなってね。ちょっと若めに入力したの。多分、39とかそんなだったと思うけど、そうしたら、その子「F●ck!」とか言って、トトトトトっていなくなっちゃったの、ハハハハハハハ(大笑)。

黒川――いなくなっちゃったの?

小口 面白いでしょ。まさか向こうも40のおじさんとはさ。

黒川――思わないもんね。でも、すごいね。8歳がやってたんだ。

小口 そう。けっこう衝撃的だった。だって外人に「F●ck!」って言われたんだよ?

黒川――確かにそれはビックリするわ(笑)。

小口 寂しかったよ。なんか俺、嫌われちゃった~みたいな。でも、そういうことも含めて楽しかった。そのテのゲーム、今はないよね。今ってそこまで深く関せずみたいな感じでしょ。だから、その中でも『我が天下』はけっこうアナログなんでハマった。

カジノ的なものは、人間の本能に根差すものだから、必ずどこかにできる


黒川――最後にひとつ質問があるんですけど、日本のゲーミングは今後どうなっていくと思われますか。

小口 地球上の今までの歴史を考えてもらえればいいと思うんだけど、先進国の中でカジノがないのは日本だけなのね。なんで日本になかったかっていうと、それはパチンコ、パチンコホールがあったから。さっき言った人間の楽しさとかさ、そういうところに紐づいてくる話なんだけど、モノを賭けたいっていう欲求と、その見返りへの期待値みたいなものは人間の本能で、人間がいる限りカジノ的なものは必ず存在する。人間の本能に根差すものだから、必ずどこかにできる。だけど、日本にはパチンコ・パチスロ業界があって、それがカジノの代わりであったんだよね。それはだいたい分かるよね。

黒川――分かります。

小口 で、パチンコ業界にはパチンコ業界の悩みとか問題とかがあるよね。それは先人たちがこの業界を作ってきた、これまでの歴史の中にその理由があって、いいところも悪いところもいろいろあるわけじゃない。でも、行政としてはそういうところをクリアにしていきたいっていうのがあると思うのね。

ちなみに今回ウチの会社がネバダでゲーミングのライセンスを1年かけて取ったわけだけど、ものすごく厳しいコンプライアンスチェックが必要だった。だから、日本もだんだんそっちの方になっていくんじゃないかなと思ってる。

それで、今のIR(カジノを含む統合型リゾート)は経済効果を期待していて、法案的にはそれを理由に進めているよね。だから、東京オリンピックが終わった2年後ぐらいには、関東圏や関西圏に大きいモノができると思うんだけど、そのあとだよね。今、和歌山だとか苫小牧だとか、そういう小さな自治体がウチもやりたいと手を挙げているけど、日本でもそういったところにできてくると、また変わっていくんじゃないかなと。

アメリカとかのカジノに行ってもらえば分かると思うんだけどね。実を言うと僕も、この会社を立ち上げるまではちょっと間違えていたんだけど、カジノっていったらラスベガスをみんなイメージするじゃない。ところが、ラスベガスってカジノとしては異色で、あそこは特殊な場所なんだよ。

ラスベガスってカジノとしては異色で、特殊な場所なんだよ

黒川――特殊なんですか、あそこって。

小口 実はカジノって大方が地域密着型なのね。カリフォルニアにしろネバダにしろ、大概の郊外のカジノは日本でいったらレジャーランド。スパがあって、ボーリング場があって、レストランがあって、たまにはゲーセンもあって、ちょっとしたショッピングもできて、それでカジノみたいな。全然ケバいものでもないし、ヘンな場所でもないし。

黒川――いや、ラスベガスも僕はそう思ってますよ。遊園地っぽいものあるし、館内に3Dシアターみたいなものもあったりするし。そういう意味ではレジャー施設かなと思います。

小口 そうだね。でも一番の違いは規模の大きさ。巨大テーマパークと温泉ランドくらいの違いかな。温泉ランドは地域の社交場でしょ。なので、ああいうカジノが日本にいっぱいできていくのは、むしろ健全なことなのかなっていう気はする。で、大人だったら、やっぱりちょっとお金を賭けたいじゃない。メダルゲームでお金に換えられないのって日本くらいだからね。

黒川――お金にならないのにと僕もよく思ってました。

小口 だからこそ、ゲームそのものが楽しくなきゃいけない。僕はずっとそう思いながらメダルゲームを作ってきた。ギャンブル機だと余分なエンタテインメントはあんまりいらないんだよね。

黒川――目的が違いますからね。

小口 そういうこと。だけど、やっぱりギャンブル機も面白いほうがいいわけ。すげえ負けても面白かったらまだいいけど、つまんないゲーム機で負けたらね。

黒川――ぶっ壊したくなりますよね(笑)。

小口 その通り。だから、本質はちょっと違うけど、やっぱり面白いほうがいいに決まってるんだよ。

会社の都合ばっか考え過ぎてるんで、もっと好きに作れよ

黒川――ちょっと聞きにくいんですが、パチンコはどうなっていくと思われますか。

小口 なんだかんだ残っていくとは思う。何百万人っていう人が、そこにいて仕事しているからね。日本の文化だし、なくなりはしないと思うよ。ただ、遊技ってのはやっぱり2千円、3千円とかでできる、学生でも遊べるようなものがいいんじゃないかな。そういう本当の遊技になっていくことが、この業界が継続・発展できる形だと僕は思ってるのね。

なので、今回の警察庁の規制(注33)は長期的に見れば悪くはないと思ってる。ホントの遊技機に戻ればいいんだよ。遊技機の範囲で、千円札で遊べるような地域密着型のものでいい。産業にするんだったら、やっぱり遊技は遊技として生きていくのが一番いいと思う。

注33:2018年2月より施行された新たなパチンコ・パチスロの出玉規制のこと。

黒川――ありがとうございました。最後にクリエイターやモノを作っている人に何かメッセージをいただけますか。

小口 最近は会社の都合ばっか考え過ぎてるんで、もっと好きに作れよって。

黒川――いい言葉です。今日はお時間いただきありがとうございました。

取材協力/仁志睦
撮影/北岡一浩 
初出展/エンタメステーション
インタビュー取材・文 / 黒川文雄

ご高覧ありがとうございました。ここまでのテキストはすべて無料公開です。このあとの課金部分は、エンタメ異人伝、ゲーム考古学に賛同いただける方のみへのご挨拶のテキストしかありませんので、支援のご意思のあるかたのみ課金をよろしくお願いします。

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