【肩書き】人生はタグ集めの旅かもしれない
昨日の夜は業界の会合に参加。現在、業界内で課題となっているのが跡継ぎ不在や高齢化による廃業によって減少する、なり手不足。
この手の話はどこの業界も問題になっていると思うが、わたし個人の考えでは致し方ない現象であり、自然に任せるほかないというのが答えだと思っている。
とはいえ、わたしより上の年次の方々はいずれも高度成長期からバブルの時代を経験しているせいか、なんとか業界の活気を取り戻したいという意思が強い。
その方法も今更手遅れなんじゃないか、と言いたくなるような筋違いの道を本気で提案するあたりに不安しか感じないで聞いていた。
しばらく高齢の先輩方々の意見を聞いていたのだが、彼らは無責任に意見を発しているわけではないことに気がついた。皆がズレた感覚の意見を本気で発している。なんならその提案を自分が先導に立って指揮を取りたい意志まで垣間見れ、「何をしたいのか?」という視点で考察していた。
あくまでもわたしの主観だが、皆さんは業界を良くしたい、という名目のもと、なにがしかの手柄が欲しいと望んでいるようにも見える。
以前からわたしはほとんどの人が、自分の人生において肩書きや功績のよって得られる、自身の「タグ」のようなものを求めるのが本質と考えている。
それはわたしにとっても当てはまることで、「わたしは○○の人です」といった名刺代わりのようなもので、他者に語れる物語を持つことで自分の人生を肯定し、生きる意味に直結させる。
少し前にX(旧Twitter)で、平凡なサラリーマンが結婚し子供を授かったことで、「父親」というタグを手に入れたことから「ホッとした」というような内容のつぶやきを目にした。
今まで特筆すべき肩書きや功績を手に入れてこなかった自分が「父親」という立場を手に入れたことで、人生の意味を持てたことに安堵したというのだが、世の中のほとんど人が、こうしたなんらかの「タグ」を求めて生きているのではないだろうか。
話は業界の件に戻るが、問題の本質は解消、または納得できる次のアクションへの一歩を踏み出すことにある。それは各々が模索して方向性を定めるほかないのだが、どこかでこの問題を解消する主役の座を欲するヒーロー的立場の取り合いが透けて見えてしまっているがさびしい。
そこで得た「タグ」はその人自身を納得させるだけの価値はあるのかもしれないが、問題の本質とはやっぱりズレているとぼんやり考えていたところで、次回に持ち越されることとなった。
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