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草原の薫香(『街道をゆく5 モンゴル紀行』レビュー)

 私の趣味のひとつは一人旅だ。就任してからの5年間で、国外だけでも、カナダ・台湾・オーストリア・チェコ・インド・ドイツ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・ウズベキスタン・カザフスタン・モンゴル・韓国と、12ヶ国を訪問している。

 海外旅行が苦手な人の中には、飛行機を含め、長い移動の時間が苦痛だという人も多い。特に私の場合、なるべく「快適さ」にお金をかけたくないと思っているので、トランジットの空港で夜を明かしたり、夜行列車で12時間かけて移動したり、なんてことも多い。しかし私にとってそうした時間は無駄にはならない。家で一人でいるときなんかよりも遥かに集中できる、格好の読書時間になるのだ。チョイスする本は、旅行先の歴史などに関連するものが多い。旅行中、あるいは旅行の前にそうした本を読むことで、旅行地についての知識を得、旅行の経験をさらに豊かなものにすることができるだけでなく、旅行へのテンションを高めていくことができるのだ。
 特に最近読むようになったのは旅行記・紀行文といったジャンルである。これまでは、自分が行きもしない国の旅行記を読んでも虚しくなるだけだということで、あまり手に取ることのないジャンルであったが、今の自分は、死ぬまでにできれば国連加盟国193ヶ国の全てを訪問したいと思っている。なれば全ての国は「いつか行く国」だ。ということで、最近は旅行中や旅行の前後だけでなく、色々な紀行文を読むようになった。

 さて、日本の紀行文における白眉はやはり歴史作家司馬遼太郎氏の『街道をゆく』シリーズであろう。『週刊朝日』に連載していた紀行文のシリーズで、基本的には国内について書いているのだが、オランダやアイルランド、中国・韓国、そしてこのモンゴルなど、一部海外の紀行文もある。オランダを旅行する際にオランダに関する本を手当たりしだいに読み漁っていたところ、このシリーズのひとつである『オランダ紀行』に出会い、それ以来、旅行のたびにこのシリーズを確認するようになった。

 歴史作家としての司馬遼太郎氏の文体はなかなか癖が強い。とにかく脱線が多いのだ。新しい人物が登場したり、新しい場所に移動したりすると、すぐにその丁寧な解説に入るので、本筋がなかなか進まない。中学2年生の頃、氏の『坂の上の雲』を課題図書として読まされて、この文体に辟易した覚えがある。
 しかしながらこの文体、紀行文とは相性がいいのである。紀行文において「本筋」にあたるのは旅程であるが、そんなものを読者は読みたいのではない。旅のひとつひとつの場面で、著者が何を感じたのか、何を想起したのか、そこにこそ紀行文の「神」は宿っているのであり、そう考えたとき、司馬氏の文体はまさしく紀行文にうってつけといえるだろう。

 さて、『モンゴル紀行』である。なんといっても司馬氏が旅をしたのは1973年。その頃モンゴルがまだモンゴル人民共和国という社会主義国家であった時代であり、様々な記述に隔世の感を覚える。たとえば司馬氏はモンゴルに入るのにロシアのハバロフスク、イルクーツクと経由しているが、現在は直行便があり、私も韓国を経由して数時間でウランバートル入りしている。
 また日本人のモンゴルへの認識がまったく異なっている。司馬氏はモンゴルに行くと友人に告げると「モンゴルという国、あるの?」と聞き返された、というエピソードを紹介しているが、さすがに現代の日本人でモンゴルを知らない人はいないだろう。また、そもそも司馬氏がモンゴルを訪問しようと思った要因も、モンゴルが司馬氏にとって子どもの頃から「未知の地域」であり、一種ロマンチックな幻想を抱かせるような地域であったからこそなのだが、モンゴルをはじめとした遊牧地域にロマンを感じる感性も、現代の日本人で持ち合わせている人は少ないだろう。また司馬氏の旅した時代にはモンゴル最大の英雄であるチンギス=ハンはソ連の意向により侵略者として扱われ、観光資源としては扱われていなかったが、私が旅したときには彼の名誉回復がなされ、そこら中で彼の銅像や、彼に関連する展示を見ることができた。
 司馬氏はウランバートルに滞在した後、南ゴビへと向かいそこで遊牧生活を体験したが、私はウランバートルから車で3、4時間ほどの所にある「13世紀村」という施設でゲル泊を体験した。チンギス=ハンの活躍した13世紀のモンゴルの様子を再現した施設である。というとテーマパークのようなものを想像するかもしれないが、実際にはちらほらと昔を再現したゲルがたっているだけで、見渡す限り手付かずの大草原が広がっている。電気もなければ、ネットも使えない。
 司馬氏の記述で最も印象的だったのは、「モンゴルの草原には香りがする」という内容だった。いわく、「大地が淡い香水をふりまいたように薫っている」。そして、司馬氏を案内したモンゴル人女性の娘はロシアにいったときに、「よその国の草は匂わない」と大騒ぎしたのだという。今回、私がモンゴル旅行で最も楽しみにしていたのはこれだったかもしれない。どんな香りがするのか想像もつかない。本当に、モンゴルの草原から私が体験したことのないような薫香がするというのなら、これは現地に行ってみないとわからない、本だけでは決して得られない体験である。

 しかし、匂いはしなかった。いや、全くの無臭というわけではない。微かに香る気はする。しかし、その匂いというのも全くの未経験の匂いというわけではない。日本でも、背の高い草をかき分けて通ったときに感じることができるような……いわゆる「草臭さ」とでも言うべきものであった。司馬氏が感じた匂いと、同じものとは思えない。
 変わってしまったのは、モンゴルであろうか。およそ50年もの時を経て、すっかり都市化が進んで、もはやモンゴルの草原は司馬氏が旅した頃の草原ではなくなってしまっているのかもしれない。それとも、南ゴビという「辺境」の地と、ウランバール近郊という土地柄の違いであろうか。それとも、変わってしまったのは日本人の方なのかもしれない。都市での生活にすっかり慣れてしまった私の鼻は、司馬氏とは異なり、もはや草の香りの微かな違いなど嗅ぎ分けることができなくなってしまっているのかもしれない。そんな寂しさを感じた。

 他にもモンゴルでは色々な体験をした。しかし、今でも私の心を捕らえて離さないのは、私が嗅ぐことがかなわなかった、そしてこれからもかなわないであろう、モンゴルの草原の香りなのである。あるいはこの気持ちは、まだ見ぬモンゴルの草原に思いを馳せていた少年の頃の司馬氏をとらえていた夢想と、同じ種類のものなのかもしれない。おそらくはこれから先、私が授業でモンゴルのことを語る度に、未だ嗅いだことのないモンゴルの草原の薫香が、私の鼻腔を駆け抜けていくのである。

by 世界史☆おにいさん(仮)

Photo by Vince Gx on Unsplash

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