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佐藤可士和展から考えるデザインとアート(後編)

※ 教員による1回完結型(と言いつつ、今回は前後編構成です!)連載対談記事「革命エデュケーション ex02」(Web版 特別編)をお届けします。
「佐藤可士和展」そのものは、緊急事態宣言の発令の影響で、会期途中で終了となってしまいましたが、対談を通じて少しでもその示唆的な内容が伝われば幸いです。

前編はこちら↓

展覧会で見られなかった佐藤可士和の「裏」の面

鵜川 そういえば、少し前の話になりますが、「㊙展 めったに見られないデザイナー達の原画」はご覧になりましたか? 国立新美術館から、歩いて10分ほどの場所にある21_21 DESIGN SHIGTで、2019年11月から約1年にわたって開催されていたんですけど。僕は2回行きました(笑)。コロナがなかったら、もう1回行きたかったです。

※ 上記のリンク先では、参加デザイナーの一部原画・スケッチ等に加えて、インタビューや会期中に行われたトークイベントの音声も公開されている。

 この展覧会では、日本を代表するデザイナー総勢26名のデザイン案やコンセプトアートなどが展示されていて、創作・制作に関わる立場から、すごく面白かったんです。デザイナーさんそれぞれの思想性や、仕事としてのデザインの難しさと魅力も見えてきて、ロゴやプロダクトの見方自体が変わってしまうような展覧会でした。
 実は、その時のイメージがあったので、佐藤可士和展の、あまりにもあっさりした構成には、正直、拍子抜けしてしまったんですよね。佐藤可士和さんの過去や、それぞれのロゴが生まれるまでのデザイン案など、試行錯誤、紆余曲折の歴史が見られると期待していたので。

細井 僕は「㊙展」観てないんですよね。けど、今の話を聞いてすごく面白そうだなと感じました。
 佐藤可士和さんという人は、インタヴューや著作を読んで思うんですが、「人からどう見られているか」をすごく意識している人だと思います。だから今回の展覧会も、ロゴの原体験や博報堂就職当時の作品を並べることで、ひとつの「物語」を観る人に感じさせる構成になっていると思うんですよね。要は「シンプル」「ブランディング」を一貫して追求してきたデザイナー像を提示しようとしているということです。
 ただ、個々の作品が生まれるまでには紆余曲折があって、佐藤可士和さんも同じだと思うんですね。それを見せるというのは彼の美学に反することなんだと思うんですが、せっかくだからそういう面も見せてほしかったなと思います。それで彼の作品の価値が下がるとは思いませんし、もっと展示としての厚みを感じられたのではないかと思いました。

鵜川 ほんと、そうなんですよね。僕が「㊙展」で感じたのは、アイディアが取捨選択されていく過程にこそ、デザイナーの信条や信念が表れるということでした。もちろん、完成された作品やプロダクトから読み取れるものもあるわけですが、いわゆるアートとは違って、クライアントがあり、商業的な成果も求められる仕事である以上、最終的な完成形は、良くも悪くもプロの仕事になっているんですよね。ところが、その過程の部分には、ある種の遊びがある。今回の展覧会では、そういうプロの仕事の部分しか見えてこなかったんですよね。

かつてパンク・ロッカーだった佐藤可士和と表現の関係性

細井 佐藤可士和さんの大学の卒業制作は意外にも(?)けっこう混沌とした作品でした。で、今回の展示にハイスタ(Hi-STANDARD)の『ANGRY FIST』(1997年)があったんですよ。

 90年代後半にすごく人気のあったパンク・バンドだったので、僕はジャケットは見たことあったけど、佐藤可士和デザインとは知らなかった。そこで僕の中では根っこにはそういう部分がある人なのかなあという仮説が生まれたんですね。まあこれは誤配なのかもしれないですけど(笑)。

鵜川 バンドと言えば、佐藤可士和さんもバンドマンだったみたいですね。このインタビューでは、ピストルズに影響を受けた話をしてる。ちょっと意外でした。

音楽がすごく好きでね。中学校くらいから洋楽を聴き始めてロックが好きで。それこそ僕が中1くらいのときに、セックス・ピストルズがデビューして、彼らをテレビで観てすごくびっくりして。まだ周りはみんなハードロックで長髪だったわけですよ。そこにピストルズのジョニー・ロットン(Vo)が髪を短くしてツンツンにして。
佐藤可士和のルーツはパンク!「博報堂の面接でも“作品です”とか言ってパンクの曲を聴かせて…」

 今の時代、学生時代の混沌とした表現欲求――というより、リビドー(笑)ですかね――を、外に発散する手段が多様になったなと感じます。動画制作や音楽制作のハードルが下がったこともありますし、ダンスや演奏をネットで発表することもできる。企業や大学が関わるコンペも増えました。でもそれって、この10年15年ぐらいの変化で、つい最近まではそのバリエーションがそれほど多くなかったと思うんですよね。そうすると、内に籠る場合には絵や文章になるし、外に発散しようとすればバンドになる。生徒を見ていても、バンド人口は減っていますが、それは別段エネルギーが減ったわけでも、クリエイティビティが下がっているわけでもない。バンドマンとしては、寂しい気持ちもありますが(笑)。

細井 僕の感じた予感は間違ってませんでしたね(笑)。バンドの音楽作品を聴かせるというのは今の「佐藤可士和」からするとありえないと思うんですけど。ただ、それだけ当時の彼の中で音楽が重要なものだったということなんだと思うんですが、佐藤可士和さんくらいの世代ってバンドをやっていた人多いですよね。「風とロック」の箭内道彦さんとか。少し下の世代になりますが、前澤友作さんもバンドでドラムを叩いていました。こういう人たちが世の中に出て社会を変えようとするような活動を行っているというのには示唆的なものを感じませんか?

鵜川 一時期までのロックって、反体制のアイコンみたいなところがありました。もちろん、それもまた一つのモードとして消費されていってしまうわけですが、そこにある熱量というか、プリミティブなエネルギーのようなものは、若ければ若いほどストレートにキャッチするんだと思うんですよ。
 教員になりたての頃(もう20年も前になりますね)、高校生の生徒たちが、未だにディープ・パープルやレッド・ツェッペリンをやってるのを見て、「これがロックの力か!」と嬉しくなったのを覚えています。さっき話に出たセックス・ピストルズもそうですが、そんなパワフルなバンドが活躍する様を目にし、そのエネルギーを浴びてきた人たちには、決して枯渇しない泉みたいなものが宿るのかもしれませんね。

細井 ふむふむ。ロックが持つ初期衝動みたいなものはやっぱり大事ですよね。僕も今、ローリング・ストーンズの「Brown Sugar」を聴いていたんですが、「いちいち人に余計なことを言うなよ。俺は俺でやるんだから」みたいな気分になりました(笑)。

 佐藤可士和さんのルーツがロックだっていうことはけっこう面白い話だと思っていて。彼の仕事のイメージは基本的にロジカルで冷静、みたいな感じだと思うんですけど、その根っこにあるのは熱いものなんだと思うと、作品の見え方も変わってきますね。

鵜川 そうそう、その延長で、もう一つ興味深い発言を見つけたんですよ。首都大学東京の学生が行ったインタビューの記事なんですけど。

学生時代はいろんなことに興味があって、実は大学4年間ですごく一生懸命やっていたのはパンクバンドでした。作曲をして、ビジュアルをつくって、バンドのプロデュースをして、プロモーションもしたりしていました。要するに、バンド活動自体がデザインと思ってやっていましたね。
佐藤可士和さんに聞く「これからのデザイナーに必要なこと」

 この発言からは、ロックの熱いマインドを持ちながら、同時に、それをクールに俯瞰している佐藤可士和さんの姿が見えてきます。
 実は、このインタビューを読んでいて、こないだNHKの「SWITCHインタビュー 達人達」で見た、劇団四季の俳優 佐野正幸さんと小説家の湊かなえさんの対談を思い出しました。佐野さんは、『オペラ座の怪人』の中で長らく怪人を演じてこられた俳優さんですが、その佐野さんがこんなことを言っていたんですよ。

「いつから怪人になりきるんですか?」とかいう質問をされるんですけれども、本番中でも俯瞰している自分がいる。だから、どんなに激高した、すごい怒った場面でも、どんなに悲しい場面で、涙を流す場面でも、絶えずそこにはクールな自分がいますね。だから、なりきるっていうことはないんですよ。
参考:「SWITCHインタビュー 達人達「湊かなえ×佐野正幸」[字]…の番組内容解析まとめ」

 なんだか、近い感じがしませんか? 演じている、あるいは演奏している自分は、既にそこにある。だとすれば、その中に没入するのではなく、表現の向こう側にいるお客さんを、あるいは舞台の、ステージの全体を俯瞰する必要がある、といった感じでしょうか。
 もしかすると佐藤可士和さんは、ロックをかっこいいと受け止めると同時に、それがどうしてかっこよく見えたのかっていうのも考えていたのかもしれない。前編で出たアディダスのロゴの話にも通じる気がします。

日常における「デザイン思考」アプローチの必要性

細井 なるほど。自分自身をもう一人の自分が俯瞰しているという感覚は、今の佐藤可士和さんの芸風(?)とつながりますね。
 バンド活動をデザインだと思ってやっていたという話が出ていましたが、これって実は日常のあらゆる局面に当てはまりますよね。例えば僕たちの場合、授業ひとつ取っても、どういうコンセプトでどういうイメージを打ち出していくかを考えなくてはいけませんよね。内容はもちろんのこと、課題を出すときに紙媒体で出すのか、あるいはWeb上で出すのかといったスタイルの部分も含め、ひとつひとつのアクションがトータルなプロジェクトとしてのあり方に繋がってくる。

鵜川 そうですね。こちらの提示の仕方によって、ユーザーエクスペリエンス=生徒の授業体験は大きく変わってくる。アクティブ・ラーナー=主体的な学習者を生み出していくのが、現代の教育の大きなミッションであることを考えると、いわゆる「デザイン思考」によるアプローチは必然だし必須です。要するに、ユーザーの視点に立って問題を発見し、体験のデザインを通じてこれを解決しようとする。そして、絶えずフィードバックを得ながら改善のプロセスをたどり、そこに協働的な場を形成する、という感じでしょうか。
 さらっと「デザイン思考」という言葉を使ってしまいましたが、ビジネスの領域では一般的になってきたこの言葉も、教育の分野ではまだまだこれから、という感じですね。一部のカリキュラム、例えばPBL(問題解決型学習)は「デザイン思考」との親和性が高いですし、生徒が「デザイン思考」を身につけられるような活動はこれからますます増えていくと思います。一方で、教員の側にも「デザイン思考」が求められています。若い世代の先生たちの授業アイディアを見ていると、教育の可能性にワクワクする一方、自分もますます頑張ろうという気になりますね。

細井 今の鵜川さんの指摘で大事なのは、「デザイン思考」はまずユーザー(体験者)ありきの発想というところですね。それは彼らにおもねるようなモノや体験を提供するという意味ではもちろんなく、提供したモノやコトによってユーザーに「何ができるようになるのか」が意識されているということです。これまでのデザインや商品開発でもユーザーのニーズは当然考えられていたわけですけど、優れた「デザイン思考」の実践はやはりコト寄りというか、「その体験がユーザーの人生の中でどのような意味を持つのか」まで考えられているような気がします。
 で、佐藤可士和さんも極めて「デザイン思考」的に活動されているわけですが、展示の最後の方のセクションにあった「ふじようちえん」は、空間を含めたトータルな体験の構築という意味で、それまでのロゴやブランディングといった仕事に比べて、よりそういう面が前景化しているプロジェクトのように思いました(だからこそ、展示のプレゼンテーションの仕方が説明的な感じになってしまっていたのが惜しいと感じたんですよね……蛇足ですが)。

鵜川 確かに、展示の最後のゾーンは全く毛色の異なるものになっていました。僕が気にかかったのは「団地の未来」プロジェクトの方です。これもまた、ロゴやプロダクト(だけ?)が前面に出てくる仕事ではなく、コンセプトが前景化されたプロジェクトですよね。社会課題に対して、デザイン思考をベースとしたイノベーションでアプローチしていく、というのは、トレンドでもあり、これからのスタンダードになっていくのだと思いますが、ここまでの佐藤可士和さんの見え方とあまりにも違っていて(もちろん、そういう面がない、という話ではなく)少し戸惑いを覚えました。

 ただ、「団地の未来」のブースに、隈研吾さんから声を掛けられて参加した、というようなことが書いてあったんですよね。ネットにも、こんな記事がありました。

 ディレクターアーキテクトの隈氏は、ロゴを初めて見た日のことを忘れない。「このプロジェクトは必ず成功すると確信した」という。
 たくさんの人が関わるプロジェクトには、象徴となる御旗が必要だと感じていた。それが「団」のロゴに集約されていることに感心したという。「団地やらない?」と佐藤氏に声をかけたのは隈氏であり、起用が的中した。
佐藤可士和氏と隈研吾氏がUR洋光台を再生、10年越し「団地の未来プロジェクト」

 やっぱり、今回の展示でフィーチャーされていた部分とは違う魅力が、佐藤可士和という人にはあるということなのかな、と思わずにいられないんですよね。それだけになおさら、もっと裏の、もっと奥底の部分が見たかったですね。

細井 たぶん、これから先の佐藤可士和さんは次のステップに行くというか、今話の出た空間デザインといった方面にも活躍の場を広げていくと思うんです。実際、それを予感させるような展示構成になってましたしね。
 そのときにどういうプレゼンの仕方をするのかというのが、個人的には興味があります。「団地の未来」プロジェクトでタッグを組んだ隈研吾さんの著作を僕はけっこう読んでいるんですが、いわゆる問題解決型の発想でプランを立てている。建築家らしく現実的です。それに比べると、デザインという仕事はコンセプト先行で行ける面も多いと思うので、彼が新たなフィールドでどのようなアプローチを取って、さらにどう見せていくのかというのが楽しみでもありますね。

アート/デザインの枠を超えて〜佐藤可士和の次章

鵜川 そう考えると、巨大ロゴによるアートというのも、もしかすると次のステップへの布石なのかもしれませんね。
 そもそも、今回、展示を行った国立新美術館のロゴが佐藤可士和さんのデザインなわけですが、そのコンセプトについて、美術館のホームページには佐藤さんのこんなメッセージが掲載されています。

日本で5つ目の国立美術館「国立新美術館」は、コレクションをもたない美術館。様々な展覧会を中心に、自由度の高い活動を展開する。既存の枠組みに捕らわれず、美術館の新しいあり方を提示するような存在。そして美術に関する膨大な情報を誰もが持ち寄り、そこに人々が集い、得たものを持ち帰ることができる、開かれた美術館であり、新しい美術の「場」。そんな存在を象徴するような、ユニークネスのある巨大な物が、六本木に出現する。それは日本の美術界にとって、そして社会にとって、大きなニュース、そしてとてもインパクトのある存在になるであろうし、ならなければならない。そんな国立新美術館のシンボルマークやロゴタイプは、建築と共にその「新しさ」「先進性」「独創性」「進化し続ける精神」を象徴した表現でなければならない。そして、この美術館設立に関わる人々の心に共通して流れる想いを集約し、日本の美術界、現在から未来に向けてのメッセージを社会に対して発信できるような表現でなければならないという思いでシンボルマークをデザインした。
国立新美術館「シンボルマーク・ロゴタイプ」

 国立新美術館のロゴはとても好きです。ここにも書かれている「開かれた美術館」という在り方や、「進化し続ける精神」を感じることができるからです。このロゴそのものが、現代アート的であると言ってもいいかもしれません。
 そして、これまでの佐藤可士和さんの活動を総括した、ある種、回顧展の趣きを持った今回の展覧会が、この国立新美術館で開催されたということを考えると、これは、佐藤可士和の新章開幕の宣言なのかもしれないな、と思いました。

細井 なるほど。今回、僕たちはあまり巨大ロゴに関して肯定的でなかったですけど、将来「あれは習作だったんだね……」とコメントする日が来るかもしれない(笑)。
 対談の前半で佐藤可士和さんのデザインの特徴として「明快なわかりやすさ」を挙げたんですが、その作品の魅力の一端は「頭が整理されたようなスッキリした感覚」を覚えるところにあるんだと今思いました。「デザイン思考」における発想法は、思考の道筋を可視化したり整理することですからね。佐藤可士和さんのオフィスはとにかく無駄なモノを置かないことを徹底しているらしいですが、ミニマリズム的なものがデザインだけでなくファッションやライフスタイルで注目されている現在、iPhoneなどテクノロジーとは別の水準で佐藤可士和さんの時代とシンクロする力を感じますし、さっきも話した通り、今後の彼の活動はロゴやデザインという枠を超えてより広いものになっていくと思うんですが――その行方に一層注目していきたいですね。そこにはきっと「何か新しいこと」や「何か面白いこと」があるはずです。

(ほそい まさゆき・国語科)
(うかわ りゅうじ・国語科/小説家)

Photo by Denys Nevozhai on Unsplash


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