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〈アメリカの夢〉と翻訳文学(『巨大なラジオ/泳ぐ人』レビュー)

 翻訳文学というと、あまり馴染みのない人も多いと思う。ファンタジー小説やミステリーなどで海外の作家のものを読んでいる人はいると思うが、海外作品自体に興味を持って手に取っているという人は少数なのではないだろうか。
 が、僕はけっこう好きで、本屋に行くと海外文学のコーナーをチェックするのが習慣になっている。それは村上春樹の影響が大きくて、スコット・フィッツジェラルドをはじめとしてレイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、グレイス・ペイリーなど、彼の翻訳のおかげで知ったアメリカの作家は多いし、それによって僕自身の現代アメリカ文学の見取り図みたいなものも作られることになった。

「では、なぜ翻訳小説を読むのか?」がこの文章のテーマのひとつだ。

 表題作のひとつである「泳ぐ人」という短編は、ジョン・チーヴァーの代表作で映画化もされている。と言ってもこれがかなり奇妙なシロモノで、バート・ランカスター演じる海パン一丁の中年男(当時としてはけっこう鍛えられた身体・笑)が延々と高級住宅街のプールを巡っていくというシュールなものだった。

 最初は訪れた家の人々に歓待されるのだが、次第によそよそしい態度を取られるようになり、しまいには道行く人々から罵声を浴びせられたりもする。雨に打たれながらようやく自宅にたどり着くが、そこに待っていたのは……というストーリー。この説明だと、読んでいる人も「わけがわからない!」と思うのではないだろうか(笑)。

 多少解説めいたことを書くと、この作品は〈アメリカの夢の崩壊(イノセンスの喪失)〉がテーマと解釈するのが一番しっくりと来るだろう。20世紀前半はアメリカにおいて、中流階級が大きく台頭した時代だ。それなりの学歴(当然大卒)を得て就職し、社会的にある程度の成功を収め、同じような階層の女性と結婚して何人かの子供をもうけ、郊外にプールのある一戸建ての家を買う。週末には家族や近所の人々とホーム・パーティーを開く、そういったライフスタイルが一般化した時代でもある。日本でも大正期以降、都市部にサラリーマンが増え、郊外に家を買うようになったという現象とも重ね合わせることができる(経済状況の違いもあり、アメリカの中流階級はいわゆる中の上以上であることは知っておく必要があるが)。

 やはり村上春樹が訳したスコット・フィッツジェラルドのマスターピース『グレート・ギャツビー』は1930年代を舞台としているが、語り手でもある登場人物のニック・キャラウェイは証券会社に勤めており、ロング・アイランドからニューヨークの中心部に通っているという設定。いわば郊外族である。

 『グレート・ギャツビー』もまた、〈アメリカの夢の崩壊〉をテーマとした作品だ。大邸宅に住む謎の人物、ギャツビーは毎夜のように自邸で華やかなパーティーを催しているが、それはかねてから恋心を抱いているある女性のためであった。その想いは報われることなく、物語の最後でギャツビーは悲劇的な死を遂げる。それは彼が築き上げた、きらびやかだが空虚な楼閣=夢の崩壊であった。

 一方、「泳ぐ人」が書かれたのは1964年。カウンター・カルチャーの到来があり、それまでの価値観が揺らいでいる時代だった。ヴェトナム戦争によってそれは決定的なものになるのだが、それより10年以上前、J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデン・コールフィールドは先述したようなエスタブリッシュされた人々や彼らの持つ価値観を欺瞞に満ちたものと見なして異議申し立てを行っている。つまり、1930年代に賛美されていたライフスタイルが、次第に時代との折り合いがつかなくなっていったのが1950年代後半以降だったのだと言えるだろう。

 あるいは単に、人生の寓話として読むことも可能だ。若い時期は健康で意欲にあふれ、溌剌としていた人物が、中年期や老年期に向かう中で人生の困難や苦痛に直面するようになっていく、そんな物語としても「泳ぐ人」は読むことができる。

 ジョン・チーヴァーは、そういったアメリカのミドル・クラスの生活を描いた短編を得意とした(というより、ほぼそれしか書かなかった)作家で、「ニューヨーカー」という雑誌の代表的な書き手として知られている。「ニューヨーカー」はアメリカで権威のある雑誌であり、その主な読者は郊外に家を買い、ホーム・パーティーを開くような階層、つまりは中流階級以上を想定している、と書くとわかりやすいだろうか。チーヴァーの作品は「ニューヨーカー」の読者層とぴったりハマり、人気を博したが、現在では忘れられつつある人という立ち位置のようだ。日本だと阿刀田高みたいな感じですかね?

 とはいえ彼の作品は「泳ぐ人」をはじめ、表題作の「巨大なラジオ」などひねりの効いた作風が持ち味で、多くの作品はだいたい10ページくらいのサイズなのだが、どれもスムースに読めてしまう。単なるショート・ショートの延長としても読めるし、その背後にある時代背景や社会状況について思いを馳せながら読むことも可能だ。

 さて、翻訳小説を読むことの面白さはどこにあるのか? について、改めて考えてみたい。
 翻訳の持つ特質をまずは指摘しておくべきだろう。それは違う言語からの〈移植〉であることだ。翻訳の不可能性というのは、今ではほぼ当たり前のものとして受容されているのではないかと思うが、単語の水準からセンテンス、それを包括した作品全体の方向性に至るまで、基本的には置き換え不可能なものをなんとかして置き換えようとしているのが翻訳という行為である。音楽を言語で表現することを、建築をダンスで表現することに喩えて揶揄した書き手がいたが、そこまでではなくとも翻訳という営為には本質的な困難が伴っているということだ。

 そうすると、テクストを読んでいて「引っかかる」部分が往々にして出てくる。読みやすいのがよい翻訳の条件だとはよく言われることだが、だからと言って原文の持っている手触りやニュアンスを消していいかというとそうではなく、「引っかかる」部分はその〈引っかかり〉をそのまま残しておく必要がある。
 〈引っかかり〉という意味では、僕たちは小説を読むときに「どうもよくわからない」と感じる部分がある。例えば、教科書にもよく載っていた志賀直哉『城の崎にて』の冒頭部で、「私」は「山手線にはねられ怪我をした」と語る。『城の崎にて』は志賀の実体験をモチーフにして書かれているのだが、よく考えてみると山手線にはねられて死なずに済んだというのは、現代の感覚からするとかなり異常な事態であることに気づく。よっぽど頑強な人間か電車の速度が遅かったのか、あるいは他の要因なのだろうか……? と読者の想像は発展していくだろう(これは大正期の小説なので、山手線の速度が今よりは遅かった、が正解? と言える。また「怪我」という表現に引っぱられてしまうが、志賀はかなりの重傷を負ったという)。

 今は日本の近代小説を挙げたが、作品の中のちょっとした言葉の言い回しや小道具などに時代や世相を感じる=「引っかかる」、という経験は誰にでもあるだろう。そして異なる文化(特に言語)が 作品を読むときに感じる〈引っかかり〉は、往々にして僕たち自身との決定的な〈差異〉である。
 僕たちは海外を訪れたとき、ふとした瞬間に見えない壁のようなものを感じることがある。会話の最中、目の前に見える街並み、看板に書かれた文字……。それはその土地の文化や歴史、社会的要因に根ざしていて、これもまたふとしたときに聞いた人の話や読んでいた本などによってその背景が明かされ、謎が解けたような気持ちになることがある。それによって僕たちは自分とある社会や人々との〈差異〉について、とりあえずは理性的なレヴェルで納得することができるのだ。

 翻訳小説を読むというのは、そのような数々の壁や謎にたえまなく遭遇する経験であると言える。ある種の小説がそうであるように、見慣れた道を半ば自動運転のようにすいすいと行けるようなものではない。ことばの一言半句や文章の持つトーンのようなものに注意深く耳を澄ましていなければならない。しかし、そのような行為だからこそ、そこから受け取るものには独特の手ごたえのようなものが感じられる。それを味わうために、僕はまた翻訳小説のページを開くのだ。

細井 正之(ほそい まさゆき・国語科)

Photo by Drew Dau on Unsplash

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