![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/144080631/rectangle_large_type_2_33807eebc07079b6386020d3bce07086.png?width=1200)
「読む」ということは、格闘なんだ。
みなさんこんにちは!
学習PROJECTの富岡です!
今回は「読む」という営みについてお話ししたいと思います。
まあ、現在進行形でこの記事を読んでいただいておりますね。
ありがとうございます。
私は、「読む」という営みは格闘だなとつくづく思うのです。
ものすごく頭を働かせるし、語句の一つ一つに気を配りながら読みます。
なんならそこに論理関係を考えて、なんとか書き手の伝えんとするところを掴もうとするのです。
普段受験で色々な科目を指導しますが、本職は現代文講師なのです。
国語の教員免許も持っています。
大学で浴びるようにテクストの読み込みをしてきました。
「読む」というのはものすごくアクティブなもので、実はそれに耐えうるだけの精神力と知力を兼ね備えているのはすごいことなんじゃないかと思うのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1718407511918-W8rsuG8U1e.png?width=1200)
特によく言われますが、年々日本人全体の読解力が下がってきている。
手持ち語彙の低下も非常に嘆かわしいですが、それよりも何よりも文章と対峙し格闘するだけの精神力が育まれていないのでないかと思うんです。
教育の現場にいるとつくづくと感じます。
やはりSNSの流行は凄まじく、そのほとんどがショートですから、長尺の動画には耐えられないのです。
動画でそれですからね、文章なら言わずもがなですな(笑)。
受動的に情報を受け取るだけの動画ですら続かない。
noteをはじめ、文章を読むということには一定度の知力と精神力が要ります。
自分で頭を働かせて、自分の体験と照らし合わせて、個人的に気になるところで立ち止まってみて…そうすることで初めて「読む」という営みをしたと言えるのです。
まあ、もちろん流し読みしていてもなんとなく話が入ってくるものもありますがね(笑)。
ただ、こちらの働きかけ次第でテクストは変容する。
![](https://assets.st-note.com/img/1718407577914-XQUGqCgcOf.png?width=1200)
テクストというものは不思議なものです。
そこに文字が書かれていて微動だにしない。
固定化され、不変なものにも見える。
ですが、こちらが働きかけるとその様子を変えるのです。
1回目に読んだときと2回目に読んだときで、受け取り方が全然違うなんて経験、みなさんにもあるのではないでしょうか。
それはまさしく、こちらの働き方次第でテクストが変容するということの何よりの証左でありましょう。
さて、私は「読む」という一種の格闘技を生徒たちにはきちんと習得してほしいと常に思っているわけであります。
入試で出題される現代文は抽象的なものもかなり多い。
そこで思考を投げ出さずに、どれだけのことを読み取れるのかを測っているわけです。
大学のような研究の場だと、どんなことでも本が必要になります。
文献を正しく解釈していくことが大事になってくるのです。
さらに、大人になってから、そこで培った知力と精神力は遺憾なく発揮されるのです。
どれだけの文章と格闘してきたかは、その人と少し話せばわかります。
その人の発する語彙、ユーモア、息づかいは、知力と精神力の現れでもあります。
「読む」という営みを通して知力と精神力という衣(オーラ)を纏うのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1718407704751-dIuygWJ5M6.png?width=1200)
文章を読む中で、自分とはかけ離れすぎてて容易に理解できないものもたくさん出てくるでしょう。
むしろそれこそが宝物なんだと思うのです。
それはその書き手のせいではなく、その書き手の見ている世界が、自分の見てきた世界の全くの外側だということです。
つまり、その書き手は、その文章は、全くの“他者”なのであります。
全くの“他者”だからこそ、傾聴に値するのではないだろうか。
自分とは異質なものとの邂逅こそ、新しい地平を切り拓いてくれるものです。
お気づきの方もおられるでしょうが、これがコミュニケーション能力なのです。
自分とは全く異なる“他者”に耳を傾け、理解しようと努めること。
コミュニケーション力はこうしたところに宿るのです。
昨今声高に叫ばれる「コミュニケーション力」は表層的すぎて、言語のなんたるかを放棄した議論のように思えてなりません。
コミュニケーション能力は、ただ話す力があることだけを意味するのではないのです。
自分とは遠い存在である“他者”の声から逃げないことなのです。
自分自身を絶対視し“他者”を排撃するようではいけません。
それだけでなく、「まあいろいろあるよね」「人によって異なるよね」で議論に終止符を打つ態度もいけないのです。
「人によって様々」というのは、もちろん押さえておかねばならぬ事実ではありますけど、それを議論の場や読解の場にまで持ち込んでしまう人がたくさんいる。
これは悪魔の言葉だと思うのです。
何度も言いますが、文章を「読む」とは「格闘」することなのです。
自分とは異質な“他者”の声に能動的に耳を傾けることなのです。
人それぞれだよねを伝家の宝刀のようにあちこちで振りかざしている人は、実は対話を放棄しているのです。
結局考えるのが億劫になっているのです。
私は人それぞれという言葉を使わないように気をつけています。
この言葉は、考えるのを放棄した人が使う言葉だと思っているからです。
![](https://assets.st-note.com/img/1718407769051-4E3hsHvnwu.png?width=1200)
「読む」という格闘を通じて形成してほしい力は、本当の意味での“コミュニケーション力”=対話力・傾聴力なのです。
知力と精神力を兼ね備えた人間になってほしいと心から願うばかりです。
みなさんの毎日の学びを応援しています。
現代文のメリットについての記事はこちらです。
ぜひご一読いただけると幸いです。
こちらの記事が役に立ったな、良かったなと思った方はサポートしていただけるととても嬉しいです!