智積院の等伯《楓図》がただひたすらに良かった件について@サントリー美術館
サントリー美術館で開催中の「京都・智積院の名宝」展みてきました。
いやーよかったです!
見所はいろいろあったのですが、今回はあえて一点に絞って語らせてください。
桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の描いた障壁画《楓図》!!
はっきり言って、この国宝一点を見るだけで行く価値があります。ちなみにこの絵は、会期中はずっと展示されているのでご心配なく。
智積院宝物の出開帳
京都の東山七条、京都国立博物館の向かいに建つ智積院は、真言宗智山派(ちさんは)の総本山であり、歴史ある大寺院です。
この智積院の宝物館では、長谷川等伯一門の筆による絢爛豪華な障壁画群を拝観することができます。私もずいぶん昔に行ったなぁ、宿坊も泊まったことあるのですよ(遠い目)。
障壁画の《楓図》《桜図》《松に秋草図》《松に黄蜀葵(トロロアオイ)図》などそのほとんどが国宝指定されています。
で、今回のサントリーの展覧会には、これらの障壁画群がまとめてドドンとやってきています。寺外で同時公開されるのは初だというから一大事です。
智積院では来年度から新しい宝物館がオープンするとのことで、今回の展覧会は旧宝物館に収蔵されていた宝物の一斉お引っ越しを利用した、出開帳のようなものか、と理解しました。
サントリー美術館に到着すると、明らかにいつもより人が多い!
さすがに大盛況でした。
長谷川一門が総力をあげた障壁画の依頼主は秀吉
展示室では各障壁画がずらりと陳列されていました。空間をたっぷりと使っているので、人が多くてもあまり気にならずゆっくり鑑賞できました。
さて、智積院の障壁画の由来をざっくり説明すると、もともとこの絵は、豊臣秀吉が3歳で夭折した息子の鶴松(棄丸)を弔うために建立した祥雲禅寺の障壁画でした。祥雲禅寺が創建された京都東山は、豊国神社や方広寺など秀吉由縁の社寺が集まっている地域ですね。
祥雲禅寺は、鶴松の三回忌にあたる文禄2年(1593)には竣工したと考えられており、その祥雲禅寺の客殿の障壁画を任されたのが、当時画壇で存在感を増していた長谷川等伯とその一門だったのです。
秀吉没後、祥雲禅寺は一時無住(住職がいない状態)となりますが、元和元年(1615)に徳川家康がその伽藍と寺の領地を智積院に与えました。
実は智積院は、もともと紀州(和歌山)の根来山に数多くの塔頭を構えていたのですが、秀吉によって根来山は全山焼き討ちされたという壮絶な歴史があります。そんな智積院にとって深い遺恨のある秀吉の遺構を、あえて寄進した家康の魂胆は何だったのでしょうね。
智積院はその後、いくども火災に見舞われます。残念ながら失われた障壁画も多いのですが、焼失をまぬがれた障壁画は寸法など改変されながらも智積院の各間を飾る障壁画として転用され、いまにいたるのです。
で、なんで《楓図》推し?
あれ?智積院の障壁画は色々あるはずなのに《楓図》一点だけを推してないか?と思ったあなたは鋭い。
以下、その魅力を語ります。
智積院の障壁画を手がけたのは、長谷川等伯と息子の長谷川久蔵を中心とした長谷川派の絵師たちです。
障壁画の前に実際に立ってみると分かりますが、草花や樹木は実物よりも一回り大きく描かれています。それによって、絵画世界への没入感が増幅する効果をあげています。室内にいながら、春夏秋冬を感じ、美しい自然の中を散策する気持ちになる、それが草花図や花鳥図を画題とした障壁画の役割です。
そして《楓図》は他の障壁画と比べても、この没入感が圧倒的なのです。
その理由を私なりに考えると、絵空事として理想の風景を描くのではなく、現実の自然をありのままに描こうとした、日本近世絵画史上、希有な作例だからではないでしょうか。いや、伝わっていないのは分かっています。この後、詳しく説明します。
等伯が障壁画制作にあたって参考にしたのが、天正16年(1588)に秀吉が実母大政所の病気平癒を願って建立した天瑞寺の障壁画だったと言います。この障壁画を描いたのが狩野永徳。松、桜、竹、菊の4種を各間ごとに極彩色で描いたものだったことが分かっています。
たしかに智積院の障壁画はどれも、永徳が確立した大樹構図(存在感のある大きな樹木を画面の中心に据えて、そこで重心をとりながら他のモチーフを配置する構図)を素直に取り入れています。
永徳の大樹構図といえば、代表的な作品はこれ(↓)ですね。
この時期、等伯は狩野派の牙城を切り崩そうと試みていました。それぐらい狩野永徳ひきいる狩野派一門は信長、秀吉といった天下人に認められていたのです。
そこに巡ってきた千載一遇のチャンスです。永徳様式を大いに意識しながらも、その模倣ではなく明確に違う画風を打ち立てる必要がありました。
そもそも狩野永徳を筆頭とした狩野派が描いたのは、「かくあるべし」という理想の自然でした。
堂々とした大木が画面に安定をもたらし、そこに美しく咲き誇る花々が金碧の背景に映えるように、整理されたしかるべき位置に配置されます。絵画としての完成度が高く、至高の空間をもとめる天下人の好みを見事に表現したと言えるでしょう。
理想の自然を描くという点は、永徳に限らず、その祖父にあたる狩野元信、また永徳のあとを継いだ狩野光信や狩野山楽も同様であり、それが画壇のスタンダードでした。以下をご覧ください。
この美しく、計算し尽くされた狩野派の障壁画を見た後に、長谷川等伯の《楓図》を見るとどうでしょうか。
一見、ものすごく乱雑に見えませんか。
画面に安定を与えるはずの楓の大木は、生い茂る秋の草花にほとんど覆いつくされ、画面の上から降りてくる枝についた無数の楓の葉は、赤、青、黄と一枚一枚塗り分けられ、さらに画面をにぎやかなものにしています。
私は、等伯がかなり意図的にこのように描いたと考えます。
実際にこの絵の前に立つと、他の桃山絵画では感じることのない、自然の風趣がしみじみと伝わってきます。先ほどのべた「没入感」というやつです。
狩野派の始祖正信、その子元信。元信が中国絵画(唐絵・漢画)を下敷きにしながら、効率的に集団で障壁画に描く術を開発したことは以前書きました。
日本に輸入されてきた唐絵には、険しく切り立った山や、ゴツゴツとした岩塊が描かれていました。中国では実際にこのような風景が広がっているのでしょうが、日本ではまず目にすることがないような景色でした。
そのため、絵師たちは唐絵の筆法やモチーフの形態といった表現だけを吸収し、本来その山水図が備えていた現実感は受け取ることがなかったのです。そしてフィクションとしての理想の景色を画中に描くようになったと言えます。
そんなフィクションとしての障壁画が圧倒的に評価されていた時に、前例のないリアリズムを持ち込もうとしたのが《楓図》の革新性だったのではないでしょうか。
現実を限りなく正確に再現しようとしつつ、現実を超えた美しさを表現する。そんな奇跡的なバランスの上に成り立っているのが、この《楓図》だと言えるのです。
これは画像では絶対に伝わらないなぁと、もどかしく思いながら書いています。
逆に、絵の前に立てば一発で実感できるものでもあります。
ぜひ、サントリー美術館でじっくりと味わってください!
ちなみに、狩野永徳が目指したものについては、以下で触れています。
■「オトナの美術研究会」やってます。
「美術が好き、その一歩先へ」をコンセプトに、美術好きな仲間がゆるくあつまるコミュニティを作りました。私自身、これを始めてから張り合いが出て展覧会に足を運ぶペースが上がりました(笑)。興味がある方はこちら(↓)をご覧ください。
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