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学芸員、ふたたびムサビへ[修了制作優秀展見学]

武蔵野美術大学(ムサビ)の美術館(正式名称は「美術館・図書館」)で、5月23日から「令和3年度 卒業・修了制作 優秀作品展 SELECTED WORKS」の後期展示が始まりました。

前期展示(~5月3日)は、学部の卒業制作の中から選ばれた優秀作品のお披露目でしたが、後期展示は、大学院の修了制作からの選出です。

前期を観に行ったらとても刺激的で面白かったので(展覧会レポ参照)、後期もワクワクしながら行ってきましたよっと。

いい天気でした。

むむ?思いのほか展示作品が少ないぞ

会場に入って、まずは一通りぐるっと見てから、気になった作品を見直そうと思い、さっさか歩いてみると、

あれ?

前回よりも規模がずっと小さい?

前期の展示作品数が77点。美術館の大小ある展示室を目一杯使っていたのに対し、後期の展示作品数は27点(目録を数えたので多分あってるはず)。使用している展示室も1階と2階の一部。随分と規模が縮小しています。

まぁ、考えてみれば当たり前の話で、ムサビの学部の学生数は1学年約1,000人(造形学部+造形構想学部)なのに対して、大学院修士課程の学生数は1学年約180人(造形研究科+造形構想研究科)。絶対数が全然違います(大学公式サイトの学生数一覧参照)。学部を出て大学院に進む人なんて一握りですからね。

修了制作の方は、少数精鋭の中からさらに選りすぐった作品が並んでいると考えればいいのでしょうか。まぁ。点数が少ない分じっくりと鑑賞できたので、いいんですけどね。
ここでは私が特にビビッときた作品を3点だけ厳選してご紹介します(私は絵画が専門なのでそっちに寄ってます。あしからず)。

ちなみに帰宅してからそれぞれの作家を検索してみたら、3人ともすでにあちこちで活躍している方々でした。多分けっこう有名人。そうか、美大の院生ともなると、もうバンバン外で個展をしたり、コンペに挑戦したりしているんだなぁ。すごいなぁ(なんだその感想)。

artsit#01 寺野葉 《まつ》

縦約2m、横幅は6mを超える日本画の大作!

これ分かりますか?メインモチーフは松の木です。
大画面に堂々とした大樹の松。これは、明らかに能舞台の老松を意識していますね(キャプションの担当教員解説にもそう書いてあります)。
春日大社の「影向の松」が有名ですが、芸能の神が宿るとされる松。かつて神社で能が舞われていた時は境内の松に向かって、つまり神へ奉納する意味で舞いが行われていたと言います。そこから転じて、能舞台の鏡板には名のある絵師が松を描くようになりました。

厳島神社の能舞台

作者はこの伝統的な様式から発想をふくらませて、現代風にアレンジしています。いや、そこにもう一つ伝統的な日本美術の要素が入っているぞ、というのが私の解釈です。

それは近世初期風俗画。

「それは近世初期風俗画(ドドン!)」とか言っても、なんのこっちゃですよね。日本美術史の用語ですし、いまは美術史的にもあまり使用しない言葉なので、具体例を挙げて説明します。

こんな絵(↓)です。

《四条河原遊楽図屏風》(静嘉堂文庫美術館所蔵、重文)

桃山時代に狩野派を中心に描かれた洛中洛外図(↓)は、みやこ(京都)の市街・郊外を俯瞰で描いたものでした。

上杉本洛中洛外図屏風(国宝)

それが江戸時代に入ると、都市そのものを描くことが主眼だった洛中洛外図から派生する形で、より限定したエリア(四条河原、遊郭など)を舞台にそこで活動する様々な人間、つまり群像表現に重きを置いた作品が生まれてきます。これが近世初期風俗画です。
洛中洛外図は、幕府御用絵師という言わば公的な立場の絵師が描いたのに対し、こうした風俗画は町絵師と呼ばれる在野の絵師たちが描いた点が特徴です。描かれる対象となる市井の人々と立場の近い町絵師ならではの、生き生きとした人間描写は見ていて飽きません。

寺野葉の《まつ》では、松の幹や枝が時に道になり、時に線路や橋が通り、一種の町(それも中央線沿線の昭和の香りが残る町)がダブルイメージとして重ねられています。その町のそこかしこに現代の風俗画といえるモチーフが散りばめられているのです。コミカルな人間たちが様々な行動をとる様子を俯瞰で描く点は、近世初期風俗画に原点があると言えるでしょう。
そして作者がどこまで意識しているかは分かりませんが(無意識なのかもしれない)、単に日本美術の型をアレンジしただけではなく、近世初期風俗画以降の江戸絵画に脈々と受け継がれた絵師の遊び心というDNAまで感じ取れる点が、この絵の最大の魅力ではないでしょうか。

松の木の「まつ」と待っている「まつ」を言葉遊びのように掛け合わせて表現しました。

寺野葉(キャプションより)

松のふもとでスマホ片手にたたずむ赤いワンピースの少女。傍らにバス停があり、なかなか来ないバスを待っていることが分かります。

後ろ姿の犬は、リードの先を持つ飼い主が見当たりません。主人の帰りを待っているのでしょう。
その上のセブンイレブンは、学生たちの待ち合わせスポットでしょうか。

蕎麦屋の出前のバイク。注文の蕎麦を待つを意味するのかな。などなど。

他にもビルの屋上看板に作者のSNSアカウントがさりげなく入っていたり、グーグルマップのピンが描きこまれていたり、松の枝に電線がからまっていたり、随所に遊び心のある仕掛けを発見できます。ちなみに主人を待っている、こんもりとした可愛らしいフォルムの犬(↓)は、円山応挙へのオマージュでもありますね。

古典や伝統を踏まえた創作となると、普通はどうしてもその重みに足をとられがちですが、作者はそんなのどこ吹く風とばかりに、軽やかに、自由に大画面を舞台に遊んでいます。その軽妙さは、たとえ元ネタを知らなくても見る人の心を浮き立たせるのではないでしょうか。

artsit#02 ドル萌々子 《空間として、距離感》

2点目がこちら。ドル 萌々子 《空間として、距離感》
壁面および床の一部を大きく使った連作です。

まずは、作品をじっくりご覧ください。どうです?なんか、じんわりと、良いでしょう?

日常のカケラ。日常の断片。日常のフラグメント。

鑑賞中にそんな言葉が頭に浮かびました。

この作品は、絵画であると同時にインスタレーションでもあります。
絵は四角いパネルだけでなく、様々な変形パネルにも描かれています。中がくりぬかれたパネルがあり、また木片のような石ころのような、それこそ「カケラ」としか言えないものも点在しています。和紙に岩絵具(顔料とも呼ばれる日本画の絵の具)の絵もあれば、キャンバスに油絵具の絵もあります。油彩画、日本画という垣根にとらわれず、絵画という枠組みにも縛られず、タイトルの通り空間全体を演出しようという作者の試みを感じます。

「絵画は四角い画面に描くもの」という固定概念を崩し、さらに画面からこぼれ落ちたかのようなカケラが床や絵の縁に置かれることで、大小様々な変形パネルの絵そのものも段々と大きなカケラに見えてきます。大きなカケラ、小さなカケラ、それらが有機的につながって、絵の内と外の境界線をあやふやなものにしているのです。

境界をあいまいにする、というテーマは描かれる絵にも当てはまります。作者の描く絵は、にじみながら複雑に色が重なり、モチーフの形をおぼろげに浮かび上がらせています。その多くはどうやら人のシルエットのようです。多重露光のフィルム写真から着想したという(キャプションの作者の言葉より)曖昧模糊としたフォルムによって、人と人は溶け合うように重なり、それは決して不気味なものではなく、淡く繊細な色使いとあいまって暖かさや親密さを感じさせます。

おそらく作者が日常で目にしたであろう光景を描いたものでありながら、私たち誰もがそれぞれの心のどこかに持っている、在りし日の幸せな記憶、親子で手をつないで歩いた帰り道の情景、子供の時に見上げた夕焼け空などを想起させる不思議な魅力の絵と言えます。ずっとこの空間にいたいと感じさせる「優しいインスタレーション」でした。

artsit#03 KIMUKIMU(木村大祐) 《somewhere over the rainbow》

会場で一番目を奪われた作品がこれ。KIMUKIMU(木村 大祐) 《somewhere over the rainbow》。

版画です。銅版画を主体としたインスタレーションですね。圧倒されるほどに濃密。

これは作者の言葉を先に引用した方がいいでしょう。

今回、「オズの魔法使い」をモチーフに制作をしました。
「オズの魔法使い」は、LGBTQの方達にとってとても大切な物語でドロシー役のジュディ・ガーランドが歌う「over the rainbow」は、LGBTQのシンボルが虹になる影響を与えたと言われています。(中略)
「over the rainbow」の歌の中で、心配性のドロシーは虹を越えたところに心配しなくてもいい場所があると歌っていて、僕は誰もが自由に生きられる場所を想いながら制作をしているのでドロシーの歌に共感し、ドロシーのお友達であるので今回、モチーフに「オズの魔法使い」を選びました。

KIMUKIMU(木村大祐)(キャプションより)
ドロシー、ブリキのきこり、ライオン、かかし

私が作品を観てうなった理由は2点あって、1つは作品サイズに制約のある版画という手法で、しっかりと世界観を感じさせる総合演出をしていること、もう1つは銅版画の技法と表現内容の分かちがたい親和性です。

まず1点目。版画は、語弊を恐れずに言えば制約の多い表現メディアです。キャンバスを大きくすればどこまでも描き続けられる油彩画や日本画とは違い、版画の大半はプレス機のサイズが版の最大値となります。もちろん版をつなげるなど大作を作る方法はありますが、それでも作者の想像力のままに筆を動かすことのできる他の絵画技法とは自由度が全く違います。
特に作者が用いるエッチングという銅版画の技法は、ニードルによる細かな線描表現を行うものであり、小画面の中に緻密な絵を描くという表現に適しています。まさにこんなの(↓)。

写真にするとわかりにくいけど、これもすごく細かい!

内へ内へ、細部へ細部へ、という指向性を持つ銅版画を選びながら、テーマ(「オズの魔法使い」)を明確にした作品群を立体オブジェと共に展示することで、有無を言わさず鑑賞者を自身の世界に引きずり込む力強さ、凄みを獲得しているところが作者の非凡さと言えます。

2つ目のうなったポイントというのが、作者の表現しようとしているメッセージに、銅板画の特徴が分かちがたくマッチしているところです。

この《somewhere over the rainbow》は一見すると可愛らしさが前面に出ているように思えます。描かれるキャラクターたちはマスコット的なデフォルメがされていますし、飾られた大小さまざまな形の絵画は角がすべて丸く、角張ったところがありません。

しかし私たちが生きるこの世界は、決してバラ色のお花畑ではありません。
虹を越えた彼方には、たしかに理想郷が待っているかもしれません。しかし「オズの魔法使い」でドロシーとその仲間たちが魔女との格闘なくしては道が切り開けなかったように、作者の思い描く「誰もが自由に生きられる場所」にたどり着くためには、人は様々な傷や痛みの代償を払わけなければならないのです。そこには「over the rainbow」を歌ったジュディ・ガーランドがその後にたどることになる悲劇的な生涯が重なります。インスタレーションの中心に掛けられた額の中の、小さな小さな虹をのぞけば、作品はすべて銅版画のインクによるモノクロームの世界なのも暗示的です。

そして他者の悪意や暴力が人を傷つけるとは限りません。愛情や優しさ、人と人の触れ合いが、時に人を傷つけ摩耗させるのです。
「オズの魔法使い」に登場する、ライオン、かかし、ブリキのきこりは、いずれも何らかの欠点(と本人たちは感じている)を抱えるマイノリティの象徴です。自身を「ドロシーのお友達」と語るところに、様々な葛藤を経験をしてきた作者の心情が読み取れますが、おそらく優しさによる一刺しを何度も受けてきたのでは。もちろん身勝手な想像ではありますが、この作品からはそのようなメッセージを私は受け取りました。

とても象徴的な1枚

エッチングはニードルという鋭く尖った金属製の棒で版面を傷つけることで、描画します。可愛らしいキャラクターたちの図像は、実は傷跡でもあるのです。そのことを想起させるように、画面には引っ掻いたような線が随所に見受けられます。版を腐蝕する過程で偶然うまれた擦れやにじみもまた、きれいなだけではない世界の毒を暗示します。腐蝕液は誤って皮膚につけば皮膚がただれ、服につけば服を溶かす強力な薬品です。

可愛らしさの中に垣間見える傷跡。やわらかさとその裏に見える鋭利さ。マイノリティの人々が抱える葛藤と、それを踏まえた上でなおかつ希望を提示する、そうしたこの作品の深いテーマ性を際立たせているのが、銅板画という技法そのものなのだと感じました。

表現者としての思索の深さに、脱帽した次第です。

アーティストとして羽ばたく寸前の才能をご覧あれ

最初に述べた通り、今回紹介した3人の作家はすでにアーティストとしての活動実績を着々と積み重ねている方々です。美大の学部を出て、大学院にまで進学するというのは、半ば「この道で生きていくぞ」という覚悟を決めたようなものです。

彼ら彼女らは、この先どんな表現を開拓していくのでしょうか。とても楽しみです。

私はつい絵画に目が行ってしまいますが、修了制作は他にも色々ありますので、ぜひ実際にそのレベルの高さを体験することをおススメします。

[あ、今回紹介した人のSNSリンク貼っておきます]
■寺野葉 @YoYoterano1997
■KIMUKIMU(木村大祐) @kimukimu_324
(ドル萌々子さんはご本人のアカウントは見つからなかったので割愛)

[前期展示のレポートはこちら]


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