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管理職との往復書簡…的なもの

先日のこと。不登校をめぐる相談で、我が子が通う学校の方針がどういったものなのかを、管理職の立場の先生から直接聞く機会を得ることができました。

そこで、学校のトップに立つ先生のお考えが『学校は社会の厳しさに耐える力をつけるための場所。たとえ低学年であっても、辛いことや苦しいことを頑張って乗り越えさせるべきである』…ということを突き付けられ、子どもの不登校当事者として無力感に苛まれてしまった私です。

そのお考えを受けて尚、無力感に打ちのめされるばかりでなく自分の声をしっかりと伝えていくために…と、下書きとしてPCで管理職への意見を書きました。今回はその一部を載せたいと思います。


学校として、どんな方針で子どもたちを指導しているのかがわかったことは収穫だった。しかし、『学校はこれから待ち受ける沢山の社会の厳しさを乗り越えるために子どもを鍛える場』という思想(話から受けた印象)には、個人的に全く賛同できない。一時代昔の考えだと思う。特に低学年に対しその姿勢を貫くことは、子どもたちの生きる力を奪うものだと感じる。

厳しさに耐えたり、より良い自分を目指して頑張ることのできる力というものは、まず子どもが安心して、取り繕わない自分のままで過ごせる場所があることが大前提。一時代前に子どもたちを厳しく指導して育てるという学校教育が通用したのは、家庭や地域が子どもたちの安心や安全を確保する力があったからだと思う。今はライフスタイルや住環境の変化、IT技術の進化等により、家庭や地域のそういった力が弱まってしまっている。家庭や地域の在り方を大人たちが見詰め直し再構築していく努力をすることは必要不可欠とした上で、その弱くなった部分を学校も一緒になって支えていかなければ、子どもたちの安心と安全は奪われ続けるばかりで、不登校などに苦しむ子どもの数は減らないのではないか。不登校の数が過去最高を記録し続ける現状は、これまでと同じ教育環境ではもう限界だという、子どもたちからの体を張ったメッセージであることを知ってもらいたい。

厳しい指導に苦しむ子ども・学校に行きたくないと毎日こぼす子どもの存在を、大多数の子どもが登校できているから・ほかの子どもたちは大丈夫だから・皆我慢して通っているのだから…と切り捨て、学校としてなかったことにし、対応は親任せ。そんなやり方で学校の教育方針に従わせようとするばかりでは、この学校に未来はない。そんな風に感じた。なんでもかんでも優しくしろ、すべてを甘く受け入れろという要求でないことをわかってほしい。

子どもたちにとって、『困ったときには助けてくれる人がいる』『苦しいときに頼れる大人がいる』ということは、この先を生きていくうえでも安心の土台になる。人からそうしてもらえるからこそ、自身もそれを友達や周りの人に還元できる。大人も同様であるはず。学校には、小さく弱き者の心を理解しようという姿勢を見せてほしかったが、残念ながら今回はそれを感じられなかった。


…と。こんなことを伝えるつもりでいます(キツイですか?あらヤダ)。

担任や学校に理解してもらえず子どもが登校に苦しんでいるという声は、こういった活動をしている私のもとに多く聞こえてきています。当然、学校だけを責めるつもりはありません。家庭の側に要因がある場合も、全く違うところに根っこが潜んでいることもあるでしょう。とにかく家庭にしろ学校にしろ、目の前に心底苦しむ子どもがいるなら、その苦しみがどこから来るのか、どうしたら少しでも心を軽くできるのかを、大人たちも我が身を振り返り真剣に考える必要があるのです。繰り返しますが、なんでもかんでも優しさで解決しようとしているわけではないのですよ。なかなかそれが伝わらないのが難しいところですね。

いやはや…学校現場が子どもたちにとって生き生きと通える場所になるのは…あと30年後くらいかな??せめて今すぐに『基本行きたくはないけど、まあそこまで苦しくはない』くらいにしないと!時代や子どもたち自身はどんどん変化していくのに、学校で昔ながらの指導が変わらない現状、本っ当~~~~~に危惧しています。

クラクラしちゃいますよ。

◆2月7日(火)は、不登校についてみんなで話す会◆
地域の居場所さっちゃんち(鎌倉市岩瀬1-25-8)和室にて開催。下記のチラシをご参照ください。

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