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待っている女【サウナのサチコ『裸の粘土サウナー』第24回】

サウナ支配人や熱波師をかたどった粘土造形を手がけるクリエイターにしてサウナー・サウナのサチコのサウナ訪問記。「ととのった」と感じるまで半年かかったという不器用サウナーならではの独自目線で、サウナ施設とそこに働く人々の魅力を切り取ります。

待たせる人と、待つ人、人間はその2種類に分かれる。待たせる人がいるから待つ人が出てくるわけで、それは至極当然のことなのだけれど。私はというと、常に「待つ側」だった。「待ち合わせに遅れることは相手の時間を奪うこと」という父の教えを守り、10代までの私は、友達との待ち合わせに遅れることがほとんどなかった。

若い頃はスマホなどなかったため、友達と口約束した場所に10分前には着いていないと不安だった。勘違いによるすれ違いはあったものの、どの相手も30分以内にはやってきた。当時の待つという行為は、相手が必ず来るという確信や信頼のもとに成立していたのだと思う。

ただ一度だけ。来るかどうかわからない人を待っていたことがある。生まれて初めて失恋した時だった。卒業式の時に撮った集合写真とともに、好きですという言葉を添えて手紙を送ったら、速攻電話で断られた。

顔を合わせずあっけなく終わったその恋に、私はどう決着をつけたらいいのかわからなかった。そこでその人が通う塾のそばで、誰にも見つからないように柱の陰に隠れて、その人がやってくるのを待ったのである。今思えば恐ろしい話だ。

しかし私は真面目だった。たとえその人が現れたとしても声をかけるつもりも、顔を見せるつもりも一切なく、最後にその人を見て終わりにしようというそれだけで待ち続けたのである。

記憶では2時間。いや思い出は美化されるから、1時間くらいそこに立っていたのだろう。しかしその人は結局現れなかった。今のようにSNSなどない時代に、その人がその日に塾に行くのかどうかなど確かめる術もなく、失恋の乗り越え方をググることもできず、待って待って待ちくたびれて、縁がなかったと諦めたのである。

待つという行為は時に、相手が現れないと分かっていても成立するのだと知った。待っている間の、その微かなつながりを感じていたくて。

時間は少し戻るけれど。
私は小学生の時、日曜になると図書館に通っていた。木々が茂る中を自転車で走ること15分。特に読書好きだったわけではなく、図書館の雰囲気と、海外の綺麗な絵本を眺めるのが好きだった。

友達はいるにはいたけれど、日曜にわざわざ約束するほどの関係ではなかったのかもしれない。ひとりぼっちは寂しいけれど、みんなといるのも疲れる。あの頃の図書館は私にとって、今のサウナのような存在だったのだと思う。遠くで知らない人の声がわずかに聞こえる中で、一人でいるのが好きだった。

7月の終業式を前に、小学校ではある噂が立っていた。下校時の通学路で、何人もの生徒が中年のおばさんに声をかけられ、留守番を頼まれているという話だった。隣のクラスの男の子は、二人で歩いていたところを呼び止められ、軽い気持ちで留守番をしてみたという武勇伝を吹聴していた。

なんでもそのおばさんは、「買い物に行ってくる」と言ってほんの15分ほど家を空けたのち、戻ってくると「留守番のお礼にりんごかお金をあげる。どっちがいい?」と聞くらしい。もちろん子どもはお小遣いが足りないから、「お金」と言う。すると、金額はわからないが幾らかのお金を子どもたちに渡し、そのまま家に帰してくれるということだった。

皆はその人のことを「留守番おばさん」と呼んでいた。そんな話はこれまでにもよくあったし、夏を前に新しい怪談話でも誰かがし始めたのだろうと、私は話半分に聞いていた。

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