見出し画像

Apple 僕を作ったモノ4

中学生の頃に友達と未来の道具について話し合ったのを覚えている。
どんな道具ができたら欲しいかというもので、手に持たずに使える傘や、ペンや鍵などよく使うツールが一つになった十徳ナイフのようなもの、面白半分で各々の考える理想の発明品を述べてただけだが、その中で友人一同が欲しいと納得したのが僕の考えた「数百曲入るウォークマン」だった。
当時、個人で作成する音楽メディアとしてはMDが登場し始めたばかりの頃で、カセットテープが主流だった。
録音時間は60〜90分が中心で、長くても120分だったと思う。90分のテープだと片面の45分に1曲4分のものが11曲入って合計22曲分が録音できる。
これ以上聴きたい曲があれば他にカセットテープを用意する必要があった。
当時、遠出する時にはお気に入りの曲をまとめたマイベストテープを数本持ち歩いていたのを覚えてる。
バンドや音楽に夢中だった僕らにはテープ交換不要で大量の楽曲を聴く事ができる音楽プレイヤーはとても魅力的に思えた。
仕組みの事は知らないが、とにかく大量の曲を一括して持ち歩けるプレイヤーの存在というのは友人達みんなの賛同を得る事ができた。
そこで問題視されたのは、数百曲も入っていると後半の曲を聴きたい時に大変ではないか?という事だ。CDみたいにボタン操作で曲が飛ばせるとしても、100番目の曲を聞きたい時には99回もスキップボタンを押すのかとか、それならカセットを交換した方が早いとか、10曲飛ばすボタンもつけようとか、そんな他愛もないことを議論していた。

それから10年後、Apple Computerから発売されたiPodの登場で僕の妄想は現実のものとなった。


僕が初めてMacに触れたのは今から30年近く前の高校1年の時だ。
それまで僕はパソコンはいじったことなく、興味もなかった。友人の兄がパソコンゲームを作成しているのを見た事があったが真っ黒の画面に英数字の羅列を打ち込んで操作するとても難しいものというイメージがあった。
今のように一般的に普及しているものではなかったし、文章を書くためのワープロの延長くらいの認識でしかなかった。

遡るが中学3年の時から家庭教師が家に来るようになった。
勉強嫌いであまりにも成績が悪かったせいで、三者面談時に担任の教師が僕の母親に、このままでは高校入学は難しい、今から学力を上げるには塾では厳しいので家庭教師による個別指導がいいと勧めたのだ。
母親は早速僕を池袋にある家庭教師センターに連れていき、カウンセリングを受けさせた。
結果、そこから派遣された先生に、僕は大学受験のある高校3年まで計4年間、勉強を見てもらうことになった。

週に2回来るその先生が勉強の合間に僕に教えてくれたのはアメリカ製の新しいパソコンの存在だった。今までのパソコンと違って全てが面白いんだよ、と語る先生の話を聞いて僕もパソコンに興味を持つようになっていった。
「新しい」と言われても古い方をそもそも知らないので、何が違うのかいまいちわかっていなかったが、当時好きだったミュージシャン達が音楽雑誌のインタビュー記事で最近はまっている物という話題でそのパソコンの名前を挙げていたので印象に残っている。当時はまだMacintoshという名前でMacはその愛称だった。

息子の高校受験合格を望む両親がある時、高校に受かったら好きなものを一つ買ってやるという話を持ちかけてきた。
その時に僕が希望したのがMacintoshだった。
親はあまりわかっていなかったがそれがパソコンと言われるもので結構な金額のものであることは分かったと思う。その要求を認めてくれたが条件がついた。
いくつか受験する予定の中で一番難しいとされる高校に受かったらというものだった。

当時の僕の偏差値は39くらいで、その高校の偏差値は62〜64。
僕にしてみれば超難関でパソコン入手の壁は遥かに高かった。

細かい話は割愛するが、家庭教師の先生のおかげもあって半年後に僕は見事その難関校に合格した。両親は約束通り、Macintoshを買ってくれた。
性能や種類等、詳しい事は何も分かっていなかったがMacintosh Ⅱsiというものを選んだ。
秋葉原の専門店に母親と一緒に行き、支払ってもらった金額は50万円を超えていた。今考えてもよく買ってくれたものだと思う。

こうして僕はMacを入手した。
はっきり言ってそれを使ってしたいことは何もなかった。ただ漠然とパソコンというものに憧れていたのかもしれない。
パソコンを持てばなにか凄い事ができると勘違いしていた部分があったと思う。
当時、インターネットもなく音楽が聴けるわけでもない。
仕事をする人には便利なものでも高校生の僕は何をしていいかもわからなかった。
それでもぽちぽちと触って基本の操作を覚えた。家庭教師の先生が自分の持っているソフトをいくつかインストールしてくれた。
その中にフライトシミュレーターやシムシティ等のゲームに混ざってAdobeのIllustratorやPhotoshopもあった。確かVer.3.0だったと思う。
今でいう違法コピーにあたるものだが、そもそもそういう認識自体がなかった。

当時は全く使用方法もわからず、独学で作ったのは高校の時の文化祭ライブのチラシと友人のイベントチラシくらいだった。
パソコンの普及はまだ少なく、高校3年間を通してMacintoshを持っているのは僕しかいなかった。それくらい高価で珍しいものだったのだ。
この時期にMac、イラレ、フォトショを入手して弄っていた事がその後の僕の仕事に大きく影響していると思う。
仕事を選ぶ際の選択肢に必ずパソコンやDTP、印刷、デザインといったものが入って来たのはこの時期の影響に他ならない。
特に何ができるわけでもないのに、ただ持っているからという理由だけでそっちの方向に焦点を合わせて行ったのは結果的に良かったと思う。

その後、大学に進学したのだが授業にもロクに出ず、毎日を遊んで過ごすダメな学生だった。
そんな中で出ていた数少ない授業の中にMacintoshを使って絵を描くというものがあった。
教授がMacintoshの基本的な操作からペイント系のツールの使い方までを教え、学生が個人作品を作るというものだが、パソコンに触るのも初めてという学生が多い中ですでにMacを持っていた自分にとっては内容は簡単なものだった。
そういう感じで、なんとなくMacに触れるということはずっと続いていた。パソコンを買い替える際も、WindowsではなくMacを選んで買っていた。当時はMacOSでなくまだ漢字Talkという名前だった。考えてみると、今までにWindows搭載のPCを自分で購入したことはない。仕事において使用はしているが個人で買う際はMac一択だった。これと言った明確な理由もなかったが、特に不自由を感じたこともない。

大学卒業後、特にやりたいこともなく就職活動もほとんどせずに無職の身となった僕は毎日のように池袋にある小さなパチンコ屋に通っていた時期があった。
働かざる身の自分に家族の視線は冷たく、家に居づらかったのだ。逃げていたと言ってもいい。
チョコチョコと不定期でアルバイトをしてはそこで得た小銭をもってパチンコを打ちながら毎日を過ごした。

早く就職先を見つけろと言ってくる家族とは違い、パチンコ屋さんは居場所のないダメな僕を暖かく迎えてくれた。
いい若いモノがこんな所に昼間からいてはいけないよ、早く働き口を見つけなさいとお説教をしてくることもなかった。当たり前だが。
何も言われず、誰とも離さず、時間を潰せるその空間が僕にはとても心地よかった。毎日必ず同じ台に座る老人、赤ん坊を抱えながらくわえタバコで打つ女性、いかにもチンピラ的な派手な服装をした若者、似たような顔ぶれが毎日のように集まって来ていた。

今ではもうなくなってしまったが、派手な照明や大音量のBGMもないシンプルな佇まいのその店に昼前に入り、夜までいるというような生活を半年近く続けた。なぜそんな事が続けられたかと言うと単純に玉が出たからである。勝てたという記憶だけ強く残っている。もちろん負けて有り金を全て失う事もあったが、そんな時は図書館で本を読んで過ごした。
そうして日がな一日、パチンコ玉を弾いて遊んで暮らすダメ人間だったけれど、心の中には将来に対する焦りが絶えず存在していた。自分は一体何をやりたいのか、これから先どうなってしまうのか、得体の知れない不安感を常に抱えながら日々を過ごしていた。

そんな思いに駆られている時に街中である看板を見つけた。マルチメディアスクールのものでDTPオペレーターのスキルを教えるという内容だった。なぜだかわからないがその時に、ここに行ってみようと思った。

DTPというものが何かもわからない。ただそこに書かれていたMac、Illustrator、Photoshopという言葉には馴染みがある、専門的な知識やスキルは持っていないが昔から知っているそれらの言葉に惹かれるものがあったのだろう。きちんと技能を学び、身につけて働きたいと思った。今では印刷業界だけでなく他の職種でもWindowsとMacによるOSの違いはさほどないと思う。個人が良いと思う方を使って作業すれば良いだけだ。だけど当時はDTPやデジタルミュージックの分野においてはMacintoshが圧倒的多数を占めており、必須項目だった。
そうだ自分にはMacがあった、そんな思いだけを頼りにパチンコ屋通いして貯めたお金を入学金に僕はそのスクールに入学した。

基本的に自分は初動が遅いタイプだ。何かを決める際に物事に対して熟慮に熟慮を重ねるタイプ。買物にしろ、食事をする店にしろ、色んなものを見て比較してから決めたいタチだ。パソコンや家電が欲しい時にはめぼしいメーカーのカタログを入手して機能やコストの比較を徹底的に行う。ランチに行く店は歩き回って街中の店を見てから決めたいと思う。
喉が乾いたので自販機で飲み物を買おうとしても次の自販機にはもっといいのがあるかもしれないと歩き続け、結局買わずに家に着いてしまった事もある。

そんな自分がその時は他のスクールを調べもせずに入学を決めた理由は未だに分からない。今のようにネットで簡単に調べられる時代ではなかったし、何かにすがりたいくらい不安な毎日に焦っていたからなのかもしれない。
ともかくそのスクールで僕はIllustrator、Photoshop、QuarkXPress というDTPツールの基本を教わった。
授業はツールの基本的使い方の学習と教わったアプリケーションを使用して自分の好きな雑誌や広告をそっくりに複製するという内容だった。一週間に何回来てもよく、授業がなくても自習室でMacやスキャナ、プリンター等の機材を使用して自分の就職用の作品を作る事ができた。

僕はほぼ毎日のように通い、勉強しながら、自分で選んだバイク雑誌やギター雑誌の特集記事をそっくりに複製した。周りには働きながら、スキルアップやキャリアアップのために通っている人たちが大勢いたが、こちらは時間だけはあるのだ。ひたすら黙々と作業を続けた。DTPオペレーターというのはアプリケーションを使用してデザイナーや編集者の指示に応じて紙面データを作成する仕事なので、独自の解釈やセンスはさほど必要ないようだった。とにかく指示通りに作る事ができるかという事が重視された。

ある程度の基礎を学び、いくつかの作品を作成した後、僕は就職活動に移った。
求人雑誌でDTPオペレーターを探すと結構あった。今はどうだか知らないが当時は結構需要があったと思われる。条件や勤務地から数社を見繕い、申し込みの電話をかけた。作品と履歴書を送れという所もあったし、そのまま面接に来てくれという所もあった。実務経験がないとダメとお断りをされることもあった。正社員、アルバイトを問わず、合計6〜7社にアポイントを取った。面接を受け、作品を見せて自分のやってきた事を話した。面接に行った所は大体、会社というより個人経営の店舗みたいな所が多かった。街の文房具店のような佇まいで、年賀状から名刺まで何でも印刷します!という感じで社長の奥さんが専務、みたいに家族経営の所が多かった。別に自分としてはそんな事気にしていなかった。こちらは働く場所が欲しいのだ。見た目や会社の規模など二の次だった。

いくつかの面接を同時に受けている時に、とある印刷所の社長さんが僕に言った。「ウチはあなたに是非働いて欲しいと思っている、小さい所だからDTPオペレーターだけでなく、繁忙期には印刷機も回して欲しいし、その気があるなら本気で印刷に関する技術を教えたい。でもあなたは本当にそれでいいのか?」と。
大学を卒業してまで印刷工になる道を本当に選ぶのかと諭すように問いかけられたのだ。

正直、問われている意味がよくわからなかった。
自分は無職で何の取り柄もない。働けるならどこでも構わなかった。やる気はありますと答える僕に、その社長さんはでは会社の中を見て行きなさいと色々案内してくれた。
小さな黄色いビルにある営業用店舗の他に、そこから歩いて数分の裏路地にその会社の印刷所が別にあった。お世辞にもキレイとは言えないがいくつかの大型機械がガシャガシャと音を立て稼動していた。一通り見終わった後にその社長は、家に帰ってじっくり考えて、やる気があればまた連絡してきなさいと優しく僕に言ってくれた。
少し不安になった。

当時、面接を受けたり、履歴書と共に作品を送る際に僕はスクールで教えられた通りに雑誌広告を復元する事とは別に自分で考えたオリジナル広告を作るという事を行っていた。そして応募時にはそれらも合わせて提出していた。自分で描いたイラストをイラレでトレースし、架空の個展の告知広告や架空のイラスト集販売広告とかを作成していた。人のコピーだけでなく学んだアプリケーションを使って自分の作品を作りたかったのだ。この事がその後の展開を大きく変えることに繋がった。

印刷所の社長さんにゆっくり考えなさいと言われたその翌日にも別の会社の面接予定があった。港区の芝公園に近いその会社に行った時に今までの所とは違うなというのがわかった。それまでに面接に訪れた会社が小型の店舗や印刷所だったのに比べ、そこは9階建ての大きなビルで、佇まいが全く異なっていた。今までのところが「お店」だとしたら、そこは「企業」という感じだった。受付を済ませ、綺麗な応接室に通されると豪華なテーブルの向こうにスーツ姿の男性が3人と私服の男性が1人座っていた。事務所の小さな机で一対一で行って来た今までの面接と比べて、やはり雰囲気が違っていた。

今までの会社と同じように、自己紹介や基本的なやりとりを行ったのちに、話題は僕の作った架空の広告に及んだ。なぜこういうものを作ったのかという問いかけに対して僕は恥ずかしさを感じながらも、それらを作った目的を答えた。実務経験がなく知識も乏しい自分を採用してもらえるようにするためには、在りものの雑誌や広告をコピーするだけでなく、オリジナルのものを作って他の人との差別化、自身の別の面もアピールする事が必要だと思った。だから練習も兼ねてゼロから作ってみました。と言うような事を説明したと思う。

一通りの質疑応答が済んだ後、恰幅の良いスーツの男性が話を切り出した。その会社は大手百貨店系列のグループ会社でその親会社の広告類をほぼ一手に引き受けている事。
基本的にはチラシやカタログ、売り場POP等の販促商材の印刷を行なってきたのだが、ここ一年位掛けて新たにデザイン部門を創設し、外部に対して積極的に営業をして行こうという方針になっている事を説明してくれた。
続けてもう一人の眼鏡のスーツの男性が僕に言った。あなたはDTPオペレーターとして応募して来てくれたが、絵心もあるようだしその新部署でデザイナーとしてやってみる気はないかと。

一瞬、どう答えていいかわからなかった。頑張ってDTPに関する知識を覚えて来たのにデザイナーという何をするのかよくわからない職種を提示されて反応に困ってしまった。グラフィックデザインと言われてもその知識はない、何かすごい難しい事を要求されていると思った。ただし、こちらは仕事が欲しい。できませんとか、結構ですと断る状況ではないなということはさすがに判った。
戸惑いながらも、自分にその機会を与えてもらえるなら精一杯やります的な回答をした。

僕のその回答を聞き、眼鏡の男性は満足したようににっこり笑い、一番端の席に座っていた私服姿の男性に問いかけた。「私はそれがいいと思うんだけどな。どう思う?〇〇さん。」
聞かれた私服姿で茶髪の男性は「いいんじゃないですかぁ」と軽い感じで返した。
結局、僕はその会社にアルバイトのデザイナー見習いとして採用され、軽めの茶髪男性は僕の直属の上司となった。
やはり会社の大きさは安心感を与えてくれたし、どうせなら綺麗な職場で働きたかった。親切な印刷所の社長さんには丁重に辞退する旨を伝えた。

デザイン部門はとても小さな部屋だった。メンバーは茶髪のディレクターとゴツいチーフデザイナーの2人が正社員で、僕を入れた残りの6名はアルバイトだった。女性2名と男性4名で、僕と同時期に入った男性1名以外は半年程先輩だった。僕の席は首都高速が脇を通る窓際でタワー型のMacが用意されていた。
自己紹介を済ませると関西弁のチーフデザイナーが手初めにこれを作ってくれと僕に一枚の原稿を差し出した。

それは系列のスーパーのゲームコーナーで使われるチラシだった。
メダル20枚サービスの文字といくつかの説明文が書かれた原稿には手書きの地図が添えられていた。サイズはカード大でポケットティッシュの裏側に入るくらいの大きさだったと思う。印刷する紙の種類とサイズ、4面付け、2色刷りと印刷仕様も言い渡された。

デザイン部門にQuarkXPressはなく、イラレ、フォトショがメインのツールだった。初めての作業に緊張しながら、Macを立ち上げIllustratorを起動した。
まず、4面付けの意味がわからなかった。僕の通ったスクールはアプリケーションの使い方は教えてくれたが、実務に関わるその他の事は殆ど教えてくれなかった。僕が聞き漏らしただけかもしれないが。隣の席の女の子にこっそりと4面付けとは何かを尋ねた。金に近い明るい茶髪のその子は、そんな事も知らないのかと言った顔で、でも丁寧に教えてくれた。1枚の紙に4つのデータを配置して印刷する事で断裁する事で一度の印刷で4枚分取れる事になるそうだ。

緊張しながらデータを作成する僕の作業を後ろで見ていたチーフデザイナーは、遅いだの要領が悪いと呟きながらも効率的で正確なデータの作り方を教えてくれた。スクールで僕が学んだ知識はやはり基礎だけであり、実際の現場では使い物にならなかった。
その日の夕方、作業を何とか終えた僕に向かってチーフデザイナーはハッキリと言った。もっと勉強しないと今のままだと、お前はウチでは使い物にならないと。

ショックだった。自分の今のスキルでは相手にされないのだ。恥ずかしかったのは他の人の前で役立たずの烙印を押された事でなく、何もできない自分の能力の低さについてだった。その日からアプリケーションの参考書を読み込んだ。知らない用語やツールの使い方を全て知ろうとした。デザイナーとしてセンスの磨き方はわからないが、ツールの使い方は学べば習得できるものだ。自ら学ばないといつまで経ってもスキルは向上しない。そう思いスクールに通っていた頃以上に貪欲に知識を求めた。

この会社で働く事で僕は多くの事を学んだ。周りには同世代のデザイナーがいたので自らの知識や表現方法を教え合い、業務に活かした。人員の入れ替わりも度々あった。来る人がいれば去る人もいた。
チーフデザイナーは口が悪く、態度も威圧的だったので若手のメンバーからは嫌われていた。今で言うパワハラのようにイビられて、その人が嫌で辞めていくアルバイトもいた。
正直、僕も苦手なタイプだった。ただ、僕はその人が初めのうちにハッキリと自分を評価してくれた事に対して感謝している。その言葉があったから自分は奮起し多くを学んだ。自らの努力よって、ある程度までは成長する事ができるという事を身をもって知った。いつか上達するだろうと待っているだけでは人は成長しない。

同世代のデザイナーが集まって、その人の陰口を叩いている場面にも何度か出くわした。
ある程度経験を積んだ後、同じように愚痴や不満を語る後輩に同意を求められると僕は自分の体験を説明しこう答えた。
「確かに口は悪いし態度もデカいけど、あの人が厳しい事を言ってくれたから今の自分があると思ってる。それは感謝してるよ。」

その後、僕はそこで正社員となり数年間勤めた後退職した。辞めた後で、当時一緒に働いていた後輩と会う機会があった際に、チーフデザイナーの話になった。その後大幅な組織変更が入り、立場的にも厳しい状況に置かれていたらしい。後輩がその人と飲んだ席で、自分の現状や人間関係に悩んでいたと言う。周りに強くあたってきた事を後悔しているその人に、後輩は僕が感謝していると語っていた事を話したところ、大層喜んでくれたらしい。
直接は伝えられなかったので僕も有り難かった。

今でも誰かに物事を教える時には、その時の事を思いながら指導している。面倒だとか煩いと思われているかも知れないが、人からの指摘に対して自分の感情を一旦外に置き、真摯な気持ちで受け入れる事ができれば、多くの人は今よりもずっと成長出来るはずなのだと。

その会社では良い仲間と出会えた。
緊急対応が日常茶飯事に起こり、深夜勤務や休日出勤も慣れたものだったが、その時いた人達は互いに手を貸し合い、一丸となって事態に対応できるメンバーが揃っていた。1人のピンチに数名が協力し合い乗り越えると言う事を誰に強制される事なく普通に行っていた。助けることも有れば、助けられる事もある、その事を皆が語らずともわかっているような気がした。
そしてお互いの技術や知識といったものを分かち合い相互に成長する事ができた。
勤務時間の制限や残業代といったものが今の様になかったからこそ、できたのかもしれない。

AppleはiPodを作り出し、人々の音楽環境を大きく向上させた。
そしてiPhoneの登場により電話やコンピューターという身近なものは再定義され、我々の生活を大きく変化させた。スマートフォンやタブレットという存在は今や生活に不可欠なものになりつつある。
それらを利用したコミニュケーションツールやビジネスチャンスも多く作られた。
これは多くの人がその実績を認めるところだと思う。

しかし僕は何よりもAppleがMacintoshを世に出し、DTPというものを作ってくれた事に感謝したい。WYSIWYGという考え方を一般向けPCに取り入れて、イメージを具現化する道具として世に広く普及させて、多くの人に新たな職業を与えるきっかけを作ってくれた事に。
それはダメダメだった僕の人生に目指すべき道を与えてくれて、その後様々な経験を通じて僕は多くを得る事ができた。あの高校時代にMacintoshに触れていなかったら、その後の僕の人生の岐路における選択肢はまた違ったものになっており、当然今とは異なる生活になっていたであろう。それがいいのか悪いのかは知りようがない。ただ、現状の生活とこれまでの人生に僕は概ね満足しているし、特に大きな後悔もない。
今は管理側の立場となり、実務面で使用する事はさほどないIllustratorやPhotoshopだが、それらを使用して商業デザインを学び、その過程で多くの人から影響を受け、多くの事を学んだ。
何よりそれが今の僕の生活の糧へと繋がっている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?