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ゴールをイメージしてみようとか言われるけども 〜そんな余裕はない、山も人生も〜

最近、noteの記事を読んでいると、山登りと自己啓発を絡めた文章が多かったりします。
確かに、山登りって自分との闘いだし、自然から降りてくる何かを感じてる時あるし、ちっぽけな自然の一部でありながらもものすごく自分が主体であると感じる瞬間があります。
ぼくが山登りを通じて知ったこととは、全て自分ごとだし、選択も自分ならば結果も自分で納得できればいい、というシンプルなことです。
どさくさに紛れて啓発的なことを書いてみます笑

経営者が学ぶ集まりみたいな会に参加してみた

何年か前、経営者として駆け出しだった頃、人に頼まれて若手経営者が集まる会に参加してきました。
たくさんのテーブルに分かれて、「理念」「経営目標」「社員との情熱共有」「そのための取り組み」を書き出してみんなで意見交換しましょう、という趣旨のワークがありました。
順番に「経営的な目標設定」について話をしていく中で、当時社員1名(現在も)の極零細会社にとっては、極論ですが、目先の展開が全て。
「こうなるとおもしろいよね」みたいな将来の話はしましたが、「数字的な目標や来期の具体的な目標を教えてください!」と訊かれ、「粛々といいものをつくるための努力」という答えは、どうにも刺さらなかったようです。。。
「具体的な数字を決めたら本当に大きくなると思います」
「そのためには短期の目標設定と評価です」
「そして〜(よく覚えていない)」とアドバイスをいただきました。


この登りを越えると、、、
その先にまたピークが、、、の繰り返し

相手を知らずにアドバイスは成立しません、当然ながら

映像という、つくるまで目に見えないものを扱っている上に、フルオーダーメイド。
製造機械に材料を入れれば何かが作られる、というものでもないし、突然訪問して映像作りませんか?と言ったところで(事例を見せられたところで)、「じゃあ、せっかくなので」ということはほぼない、というのが経験値です。
「いや、目標設定しましょう、思いつきでもいいので書いてください」
「でも具体的にイメージしないと大きくなるものもなりません、うちはそれで変わりました!」(製造業の方)
「でも、数字を決めて営業をかければ!」
そうやって仕事を増やす映像制作会社は当然いらっしゃるとは思いますが、課題とニーズと予算を訊いてプランニング、提案するぼくにはあまりピンとこないやり方なんですよね。たとえ、それで満足な売上があがらなくても。

山にいくとそれはそれで実感する

そんな感じだからうちの会社は大きくなりませんし、ボロ儲けもしておりません笑
いろんなことを考えながら一歩前の地面を見て、踏みしめて歩いていくといつの間にか山頂が見える、というのが山登りのイメージです。
それはビジネスにも通じている気がしています。
むしろ上ばっか見て歩いていたら、転ぶか最悪踏み外して滑落なので、マジで一歩前をしっかり踏みしめて歩いています。
短期目標として、次の峠まで何分で歩こう、とか決めていくのもありですが、かえって体力を消耗するかケガのリスクを高めることもあるのではないかなと。(トレランのような競技は別)
だから考えるべきは、自分が歩いている道は昔の人も歩いていたのかもしれない、とか自然の匂いを感じて何百年何千年もある自然に馴染んでいるのかなあとか、そんな自分の好奇心をくすぐることばかりだったりします。
要は、そこを歩くモチベーションは自分で決めないと意味がない、ということかなと思っています。言い換えると、誰も他人のモチベーションをコントロールできないのではないか、と思っています。


霧が出たって計器飛行みたいなことはできませんしね

ゴールのイメージは取り掛かる前の意思統一として必要

逆に言うと、一度走り出してしまえば、コースが終わるところがゴールなわけで、ゴールが何か、ということは考えなくたっていいと思うわけです。
なので、何かに取り掛かっている人に対して「ゴールをイメージさせる」というのは、あまり意味を感じないと思っています。
山に登る前に、今からアタックする山の全容を目にすることがありますし、無くたって登山計画で頂上までのルート、状況をあらかじめイメージします。登っている最中に、「どこの山に登っているかわからん」という人はいません。(いたらすぐに引き返してください)
組織論でいくと話は変わってきますが、動き出す以上、誰かには少しはゴールのイメージが見えているわけで、それを探り出す(炙り出す)ためのディスカッションは生産的だと言えます。

人の覚悟を無視しない

ぼくがその若手経営者セミナーで感じたのは、自分が素晴らしいと感じた経験を共有したい、伝えたい気持ちが強すぎて、「いいからやってごらんなさい」という押し付けでした。
それは時として、相手の覚悟を侮ることにもなると思いました。
少なくともぼくはそう感じました。
こういうセミナーに限らず、学生や子供たちに対して、「その選択は絶対キツイからこっちにしなさい」というおせっかいはやっぱりダメだなと。
それは好奇心を摘むだけでなく、その選択をした覚悟を軽く扱っていることになってしまうのではないかと。

結局、リスペクトしかないのかも

人間が想像だにできない形状や在り方をもつ山に対しての挑戦や冒険という行動以外に、山岳信仰に代表される、山や自然への敬意というものがあって、山登りをする人たちの中では「自己責任」という大前提がありますよね。
それって人生という歩みにも同じことが言えると思っていて、「自己責任」をもつための「自力で選択」をする準備や概念を教育現場で学ぶべきだし、人生において他人の失敗は自分の失敗ではない、という感覚は大事だと思います。失敗とは自分がそうだと自覚して決めるものです。(他人の失敗から学ぶことはもちろん多いです。)

ついつい比べてしまう気持ちも当然ありつつ、自分は選ばない、自分はやらない、自分にはできない、という「自分とは違う」認識にリスペクトをもつと、実は結構いろんな負の感情から解放されたりします。(めっちゃ自己啓発的…)
タイトルにもしましたが、途上の最中ってそんなに余裕はないんですよね。

ただ、ひたすらに歩くのみ

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