見出し画像

優しさについて勘違いしてたかもしれない

もっと優しくあればいいのに。

世の中にはそれはそれは数え切れないほどの意見や考えがある。共感できるものもあれば理解できないものも。好みもそれぞれだし、自分が嫌いだからってそれを否定する権利はないとは思う。

でも割と批判や悪意に満ちた言葉を見聞きすることが多い。ネットが当たり前にあるから、誰でも発信できるようになったし、その恩恵はもちろん自分も受けていて、こうしてダラダラと文字を垂れ流すことができているわけなのだが。

争うことが好きではないので可能な限り平和的に過ごしていたい。しかし何かを得るためには時に誰かと競い合ったり出し抜いたりしないといけないこともある。

今日、社長とランチした。この先のこと、会社でやりたいこと、キャリアについて云々。そんな会話の中で「給料上げたくない?」と聞かれた。まぁ、お金は欲しい。でも、頑張りたくはない。

だってヒモになりたいんだもの。

そんなこと社長に言えるわけもない。あいつよりも上に、もっとお金を稼げるスキルを、などといった向上心は持ち合わせていない。争いたくないから。静かに暮らしていたい。

とりあえずその場はなんか良い感じな目標とかを述べて事なきを得た。

資本主義なので競争心的なものは必要だと思うが、残念なことにそういうものがない。適度にお金があれば良いかなという。結婚して子供が欲しいとか、そういうのもないので。

仕事を離れてもSNSを開けば(開かなければ良いのに)なんだか毒々しい言葉が。誤った発言をすればどこからともなく残酷な言葉が投げられる(発言者に問題があることも多いけど)

ネットには稼ぐための方法というような情報商材。検索順位を上げるために、SEOがどうたら。ターゲットがうんたら。コンテンツとしての価値が……

もちろん誰かに見てもらいたい、読んでもらいたいから、こうしてnoteに書いている。でも、争いたいわけではない。好きなことを、誰かを傷つけることなく綴りたい。

優しくありたいし優しくされたい。

そんなことを思ってしまう。優しさだけではご飯は食べれないかもしれないけど、なんだかなぁと思うことが多くなってきた気がする。

もっと認め合って優しい世界を……というとなんか宗教みがあって怖いけど、そんなに戦闘態勢?臨戦態勢?にならなくても良いのではないかなと思ったりする。

それで「優しさ」について考えてたら僕は大きな勘違いをしてることに気づいた。

例えば過去に付き合った子たちとのやり取りを例に挙げると「風邪引いた」「寂しい」などという連絡が来れば電車のない深夜だろうとタクシー飛ばして向かったものだが、それは「優しさ」ではないのは自覚していた。「優しい人」と相手に思われるための行動である。つまりは自分のためである。

優しくされたいなら、まずは自ら優しくすることから始めるべきなのではないかと思っていたのだが、本来的にそんな優しく気配りのできる人間ではないので、偽りの優しさは限界を迎える日がやってくる。そうして別れることになる。というのを7回ほど繰り返してるのだが反省を生かせぬまま三十路を迎えてしまった。

でも、実家の猫には常に優しくいられる。早朝に起こされても腹の上で寝始めて身動き取れなくなっても全てを許せる。優しくできるではないか。可愛いからか?

しかし、ここで気づいたのだ。これ「優しさ」じゃなくて「甘やかし」じゃね??

これまで付き合っていた子に対しても自分が行ってきたことは「偽りの優しさ」でもなく「偽りの甘やかし」だったのではないか。そして見返りとして求めていたものは「優しさ」ではなく「甘やかして欲しい」という願望だったのではないかと。

だって俺、ヒモになりたいんじゃん!!

点と線が繋がったというか、なにこの記事。途中から意味分からなくなってきたよ。

そんなわけで「優しさ」と「甘やかし」を勘違いしてたというお話でした。

それでは最後に、元カノの事とか例に挙げたのでこの曲を。アナログフィッシュで「Good bye Girlfriend」


この文章をお読みになられているということは、最後まで投稿内容に目を通してくださったのですね。ありがとうございます。これからも頑張って投稿します。今後とも、あなたの心のヒモ「ファジーネーブル」をどうぞよろしくお願いします。