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寝言に耳をかたむけて

(*1回目の緊急事態宣言解除が発表された、2020年5月24日に執筆したエッセイです)

 今年、母校の大学は入学式の中止を発表した。当然のことのように受け流そうとしたけれど、この春上京した学生の心境が気がかりだ。十年前、二〇一〇年入学予定の私たちは、mixiで知り合い、入学式の朝に校門で待ち合わせた。それっきりの繋がりだった。今年の新入生もZOOMの画面越しに挨拶をして、やはり「それっきり」なのだろうか。

 日常にもコロナの影響は忍び寄る。そのおかげで、私は懐かしい「大好き」をひとつ取り戻した。日記をつける習慣だ。子どもの頃は、日記を書くのも読み返すのも大好きだった。ツバメノートはどんなときも私の話し相手になってくれた。けれど毎日を忙しく過ごすうちに、いつしか日記帳を開くことも少なくなっていた。

 一月の終わりから、クラウドのメモ帳に再び日記をつけはじめた。念頭に置いたのは、二〇一一年春の震災のこと。不謹慎だが、余震と放射能漏れに怯えたあの日々を克明に記録できたなら、かなり面白い読みものになったに違いない。だから、ぬるっと始まった非常事態宣言下の東京を、ぬるっと等身大の言葉で書いてみようと思った。

「ステイホーム」を余儀なくされた現在、私は時事ニュースと併せて、日々の微細な差異を記録することで、なんとか自分の「日常」を確保している。たとえば夕飯のおかずの品数や、近所の公園で蜘蛛がどんなに繊細な巣を張っていたか、なんていうことを。日記に書かなければ、そうした私の日常は、誰からも指をさされないための「我慢」でしかなくなる。後から思い返したとき、二〇二〇年春は、マスク姿でうつむいて歩き去った日々となるだろう。そんな灰色の記憶に埋もれたくはない。

「自粛要請」という言葉で、自主規制を「お願い」されたはずの私たちは、いつの間にか「気の緩み」などと曖昧に非難されている。見知らぬ「みんな」のため、ひいては「日本」がコロナに打ち勝つために、どこか気持ち悪い「我慢」を強いられる。「不要不急」にも首をかしげた。「控えて」と呼びかけられてはいるが、逆にどんな場合が必要急務なのか、その判断は人任せ。結果、仕事での外出や移動を検討する度、私たちは葛藤を迫られた。「コロナに負けるな!」などの扇動的な文言にも困惑し続ける一ヶ月半だった。

 そんな非日常の中で、私が新たに発見したものは「寝言」だ。きっかけは、三日連続、自分の寝言で朝目覚めたこと。一説によると、コロナ禍のストレスや行動制限が睡眠にも影響を及ぼしているという。寝言が増えた原因は、眠りが浅くなったためか、人と直接会話する機会が激減したことの作用なのか。

 私は元々寝つきが悪く、睡眠が得意ではない。目が冴えて布団の中で何度も寝返り打っていると、今この世で眠れないのは自分一人かのような心細さを覚える。「死ぬときはみんな独り」とよく言われるように、眠るときもまた独り。静かで孤独な旅立ちなのだ。眠気に身を委ねることは、自らの意識を闇に手放すようなもの。「私は私」と確信できる者だけが、すこやかな眠りを許される。脆弱な私は、夜を迎えるごとに「自分がいなくなってしまう」ような不安に襲われ、息を潜める。

 ところが「寝言」である。ついに就寝中の私が自意識を獲得し、文字通り主張しはじめた。寝ている間の自分に、一体何が起きているのか? 解明するべく、寝言の自動録音アプリを導入。翌朝、恐る恐るスマホを確認し、盛大に吹き出した。驚くことに、就寝中の私は「不安」どころか、のびのびと自由を謳歌していた。くすくす声を上げて笑ったり、感情剥き出しで唸ったり、「塩分取りすぎ」と寝言でつぶやき、現実的な警告まで与えるではないか。

 以来、「今夜はどんな寝言が採取できるかな?」と寝る時間をワクワク心待ちにしている。寝言によって、初めて確信できたのだ。夜、私は「いなくなった」わけじゃない。ちゃんとこの世に存在し、ときに愉快に雄弁に、身体を休めているだけなのだと。

 日記を書く。そこには、寝言レベルの取り留めもないことと、社会情勢の記録が寄りそって並ぶ。緊急事態宣言解除のニュースが流れた今日、駅前のコージーコーナーでチョコレートケーキを買って、恋人と分け合った。社会的事件も小さな幸福も、日記の上では等価になる。日常を祝福するために、銀色のフォークですくい取ったクリームの軽さを、私はいつまでも忘れない。


*初出:「ケトル」Vol.54 2020年6月発売号(特集:みんなの大好き)
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