君だけはそこにいてくれよとか、一番くだらないって分かっているけど
峯田和伸を筆頭として、ロックスターだったり、或いは芸人・タレントだったり、世の中には馬鹿になるのが上手い人っている。馬鹿といっても、彼らは本当に精神が幼いわけではない。若いままでいるのが上手いのだ。
これはGOINGSTEADYの「君がもしも泣くならば」という曲の歌詞なのだが、この思わず顔が綻んでしまうほどの真っ直ぐさは、当時の峯田の幼さ、純粋さゆえの表現だろう。馬鹿だなあと、聴き手がかつての青春時代に引き戻され涙するような素朴な魅力がある。
しかし、実際に10代の頃の自分が峯田と同じように振る舞い、同じように表現をできていたかというと、そんなことはない。彼には、彼の若い感性を誰より大切にし、自分にずっと繋ぎ止めておくだけの賢さと、才能があるのだ。「馬鹿なこと」と「馬鹿でいること」には大きな隔たりがある。
パンクは、反抗ではない。
ルネサンスを知っているだろうか。14世紀のヨーロッパで、記号的で神話的な表現方法を破って、ありのままの人間らしい絵画や文化が広まった動きのことだ。
自分にとって音楽とは、足を閉じ手を重ねて座り、仮面を付けて口を閉じている自分の代わりに、暴れてくれる感情そのものだった。
生きることそのものへの衝動と祈り。
幼い頃の私たちには、決まってどこか「悪に対する憧れ」がある。「悪い子、やんちゃな子」はどことなく周囲から羨望の眼を向けられていたりするから、子供たちだけがこの世を統治するならば、きっとはみ出物の多様性に寛容な一方、果てしなく無秩序な世界が広がるのだろう。
一方で、大人には、「正しさに対する憧れ」がある。自分が周囲よりも正しいことに憧れて、沢山の盾を探す。だから、そこから外れた自分の人間くささを許すすべを失ってしまう。「だって私の方が正しいから」という正当な盾を、使えなくなってしまうからだ。
だから、馬鹿でいることはすごく難しい。「正しさ」から槍玉に上げられ、こちらの方が劣っているような錯覚に陥られる。
幼いのではなく、幼い頃と同じ表現方法を持ち続ける。「大人であること」を無視した、無邪気で真っ直ぐな表現のままで居続けること。
彼らは、「正しさであること」をしないでいてくれた。だから、誰にも見せられない醜い私の味方であり続けてくれた。
これは峯田のFUJI ROCKでのMCである。
彼はどのMCでも大体「生きててくれ」というのだが、そこには無責任な綺麗事ではなく、「どんな汚い手を使って生き延びることになっても、俺はあなたが生きていることを肯定します」という思いが隠されている。
一般常識的に考えたらこんなことを、大人になって、純粋な眼で、公に言ってしまえば、正しさを盾に批難されてもおかしくない。でも、それでしか救われない人がいるのだ。彼の言葉はいつも狂おしいほどに本心で、それを「馬鹿言いやがって」と一周する世において、彼は馬鹿でい続けている。本当に、感性の鋭い、賢い人だと思う。
そして、馬鹿なのだ。彼が馬鹿だからこそ、私たちは熱狂できる。一緒になって馬鹿になって、笑って、元気になれる。
生き延びてください。
生き延びたらまた会えますよ。
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